流山の別れ
明るい春の陽ざしを映して、
柔らかな黄金色の曲線を描きながら流れる江戸川の土手には、
色とりどりの野の花が咲き乱れている。
月の無い夜の江戸川は恐ろしいが、近藤勇率いる新選組は月明かりに導かれて、
沈黙する黒い鏡のような川面を渡り、
蔵が建ち並ぶ裕福な商家の多い流山へやって来た。
五兵衛新田から流山に屯所を移した直後、
まさに網の目のように張り巡らされた官軍の諜報網に引っかかってしまった。
慶応四年(1868年)四月三日の流山の朝。
いつもと変わらぬ一日になるはずだった。
だが、その朝、すべてが一変した。
それは隊士たちが野外調練に出てまもなくの事だった。
本陣としていた酒問屋の永岡家の屋敷は、
薩摩藩の有馬藤太率いる官軍の斥候隊により包囲される。
屋敷には近藤と土方と数名の新選組隊士が居た。
月夜の晩に五兵衛新田から移動して二日目の朝のことだった。
新選組も諜報活動には万全を配していたのだが。
相変わらず無表情で青白い。
永岡家の座敷で近藤勇と膝をつき合わせて座っている。
朝から官軍に完全に包囲されていた。
不穏な武装集団を率いる大久保大和こと、近藤勇には出頭要請が出ている。
小姓たちにも席をはずさせ、久しぶりに二人だけで対峙している。
「バレやしないさ。おれたちは今では、れっきとした幕臣だ。
幕府の命で脱走兵を取り締まる為に、流山に出張して来た幕臣の大久保大和で、
おまえは幕臣の内藤隼人だ。
まさか官軍の斥候隊に新選組の近藤勇の顔を見知った奴などいないだろう。
もし、ここで騒ぎを起こしたら、二百の兵もろとも終わりだ。
残念だが、我が隊には弾丸が無いからな。
昨日の調練で運悪く手持ちの弾丸と火薬を全部使っちまった。
俺たちが秘かに五兵衛新田で造った弾丸と火薬は荷送りしたが、
まだ松戸宿あたりに着いた頃だろう。
夕刻まで待ってはみたが、受け取れなかったな。
これ以上引き伸ばすのは、もう無理だ。
ここはひとまず隊を解散する。
無駄に兵を傷つけたくない。
俺が出頭して時間稼ぎをするから、その間におまえは逃げろ。
決して犬死してはならない。命令だ。
それに・・・・・・」
近藤は苦しげに言葉を詰まらせた。
歳三は無言で御陵衛士高台寺党の残党に狙撃されて骨が砕け、
下がってしまった近藤の右の肩口あたりを見つめていた。
とても、まともに視線を合わすことができずにいる。
がっしりとした、人を圧するような肩だったが、かつての迫力は無い。
近藤勇は剣客としては使い者にならないだろうが、
幸か不幸か刀の時代は終わっている。
新選組は剣客集団を脱却して火器で戦う洋式の戦闘集団に生まれ変ったのだから、もう刀を振る必要もないと歳三は思う。
「すべてが首尾良く回らなかったな。
何よりも気がかりなのは、佐藤家だ。
今も身を隠して大久野村に居るが、
官軍からは〈見つけ次第殺せ〉とまで言われているらしい。
日野の春日隊は新選組と共に甲陽鎮撫隊として戦いに加わった。
彦五郎さんの命は風前の
今まさに、助命嘆願をしている真っ最中で大事な時ではないか。
ここで俺たちが余計な騒ぎを起すわけにはいかない。
おれが、ここで出頭する他ないだろう?
おい歳三、いいかげんに何とか言ったらどうだ」
近藤は座ったまま平手で、人形のように生気の無い土方の頬を思い切り叩いた。
乾いた音と共に歳三の上体が揺れた。
焼けつくような痛みと共に耳鳴りがして、青白い頬が歪む。
近藤は土方の横に座り直すと肩を抱き寄せ、
痛みに耐えてうつむく土方の顔を覗き込んだ。
苛立つ近藤に久しぶりに叩かれた。
肩に貼った膏薬と、懐かしい道場の匂いが混ざり合った。
それは慣れ親しんだ匂いだった。
銃弾に傷ついて以来、不自由な身体となった近藤にできる限り付き添っている。
心配性の歳三は、小姓にすべての世話を任せることができなかった。
今朝から「
いにしえの武士のように、ここで互いに刺し違えて潔く死ぬべきなのか。
近藤を武士らしく死なせることが自分の大事な役目なのではないか。
近藤勇と共に死にたいと思う。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
逃亡中の彦五郎と姉のことが気にかかる。
新選組はどうなる。
故郷の家族の顔が次々と浮かぶ。
近藤の体温と腕の重さを肩に感じながら、
くっきりとした切れ長の目に暗い光を宿したまま、
深いため息をついた。
そしてようやく口を開く。
「近藤先生のおっしゃるとおり、まだ死ぬわけには参りません」
歳三は本心を隠した。
本当は近藤と今すぐ、ここで共に死ぬことを望んでいるのだが。
「そうだ。
ここはまだ、我らの死に場所ではない。
大丈夫だ、おれのことは心配するな。
すぐに戻る。
しばらく後のことは頼んだぞ」
近藤は相手を包み込むような笑顔を見せた。
歳三と新選組隊士たちは、その自信溢れる力強い笑顔にひきずられて、
ここまでついて来てしまったのかもしれない。
もう
都の騒乱で鍛えられて磨かれて、
いつの間にか上に立つ者の余裕を感じさせる、重厚な風格を身につけている。
まだこれでは終われない。
これから新選組の戦が始まると思わせてくれる。
「承知しました」
近藤に心の中をとっくに見透かされているのだとわかり、
土方は口角を少しだけ上げて無理に笑顔を作ってみせた。
「歳、おまえのおかげで、ここまで来ることができた。
礼を言う。
もし万が一おれに何かあったら新選組を頼む。
たとえ何があっても絶対に、おれの後を追って死ぬなどと考えるなよ」
「なんと不吉なことを・・・・・・
日野に帰って、一緒に血梅を見る約束をしましたよね」
歳三の無表情は崩れて、幼子のように泣きじゃくった。
「ああ、そうだったな。
血梅を日野宿本陣に接木してやるよ」
近藤は歳三の背をぽんと叩く。
歳三は、ひとしきり泣くと、我に返って涙を拭く。
小姓たちを呼び、官軍へ出頭する為の身支度を整えさせた。
そして土方と近藤は互いの顔を目に焼き付けるように見つめ合いながら、
別れの水杯を酌み交わした。
「必ず会津へ行くから、待っていろ。
おれたちは鶴ヶ城を、まだ見たことがないからな」
歳三は深く
時刻は宵五つ(夜八時)小姓の野村利三郎を連れた近藤勇は、
待ちかまえていた東山道総督府副参謀の薩摩人、有馬藤太率いる
官軍の斥候隊に連れて行かれた。
越谷宿で一泊して、翌日に板橋宿で取り調べを受けるということだった。
大将の命と引きかえに、我々は生かされた。
近藤の姿は死の影に覆われているようだった。
夜の闇に搔消されていく近藤の後姿をいつまでも目で追った。
姿が完全に消えた後も闇を見ていると、自分も闇に消されていくような気がした。
「必ず、近藤先生を取り返す」
不吉な死の影と闇を
側らで、まだ幼い小姓の鉄之助がすすり泣いている。
その夜に武装解除した隊は解散した。
官軍に武器を取り上げられた隊士達は夜の闇に紛れて、ちりぢりとなっていった。
歳三は鉄之助と島田魁ら数人の新選組隊士と共に、
雲に隠された月が姿を見せることを願いながら、江戸へ向かう。
※流山・・・千葉県流山市
※大久野村・・・東京都日の出町
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