江戸開城



 五兵衛新田ごへいしんでん 慶応四年(一八六八年)三月一六日


ピチリピチリと油が跳ねる賑やか音が響く。

炊事場ではサクサクに揚がったハスのてんぷらが、

たくさんの大皿の上に次々と山のように盛り付けられていく。

縞木綿しまもめんの着物姿の二人の女中は裾を短く、

たくし上げて逞しいふくらはぎもあらわだった。

たすきがけをして、頭には手ぬぐいを被り忙しく立ち働いている。

台所は食欲をそそる油の匂いに満ちていた。


「いつの間に、こんなに人が増えたのかしら。

あの人たちはいつまで、居座るつもりでしょう。

そろそろ金子家の米蔵が空っぽになりそうですけど・・」


足元に積み上げられたハスを輪切りにしながら、

若い女中は恨めしげに言った。



二十日前、

甲州勝沼の戦いで敗走した甲陽鎮撫隊の新選組残党四十八名が

五兵衛新田の名主の金子家にやってきた。

新選組に脱走幕府歩兵も加わり、

日を追うごとにその人数は膨れ上がっていく。

約二百名の大所帯となっていた。


 新選組が屯所本陣とした名主の金子家は、

巨大な長屋門と周囲を構堀で囲まれた三千坪の敷地を有する屋敷だった。


「江戸で近いうちに大きな合戦があるから、

江戸の若い衆や、あっちこっちの田舎の侍たちが集まって来て、

ここに隠れて何か作っているのよ。

川越炭とむしろをたくさん買って運び込んでいるわ。

目つきが鋭い男たちばかりで気味が悪かったけど、もうすっかり見慣れたね」


そう言いながら年増の女中は大鍋の油の中へ手際よく衣をつけたハスを次々と箸で放り込んだり、すくったりを繰り返す。


「ああ、どうしましょう。もし戦になったら、江戸が燃えて無くなるかもしれない」


若い女中は包丁を持つ手を止めた。


「そうだよねえ。今お江戸で何が起っているのやら。

あたいらには、さっぱりわからないねえ。

何でも西洋の大筒をたくさん持った

西国の田舎武士たちが押し寄せてきて、公方様を江戸城から追い出したとかで、

江戸の血の気の多い若い衆は怒っているらしいよ。

そういえば、ここに居る二人の殿様を見たかい?」

年増の女中が流し目で若い女中を見る。


「奥の客間にいらっしゃるお二人ですね。

どこの殿様でしょうか?

可愛らしいお小姓衆を、はべらせてますね」


「旗本の侍だろう。

色白の殿はこの辺じゃ、ちょっと見たことない役者みたいないい男。

あんな男に一度でいいから抱かれてみたいね」


年増の女中がてんぷらを揚げながら小声で言う。


「アハハハハハ」


ハスの天ぷらを作りながら二人の女中は、けたたましく笑う。


「でも、昨日その役者みたいな殿が炊事場に突然来られました。

釜戸の様子を御覧になり、

炊事場が汚いから掃除しろとか、お茶が薄いとか色々と細かいことで、

お叱りをうけました。

その後、ご自分で沢庵をお切りになっていましたが、

包丁を研ぎなおしたほうがいいと言って包丁を持って行ってしまいました。

どうしたものかと困っていると、すぐ研いでくださったようで、

この通り切れ味がよくなりましたけど。

ちょっと細かくて口うるさい殿でしたよ」


若い女中は笑いながらハスを輪切りにした。


「何だって?ほんとうかい。

殿様が炊事場にわざわざ来て、意地の悪い姑みたいな小言を言ったのかい。

馬に乗ってやって来たらしいけど。

はて、あのいい男は一体何者だろうね?

まったく最近、世の中どうなっているんだか、わからないねえ」


年増の女中が目を丸くする。


「あら、まだ天ぷら揚てるの?魚屋にマグロを注文しておいたよ。

江戸城総攻撃が中止になったから、今夜は大宴会だってさ。

おしゃべりしていないで早く酒の肴を用意しないと間に合わないよ」


炊事場の様子を見に着た弁慶縞べんけいじまの着物の貫禄ある女中が、

山盛りのハスの天ぷらを一つ、指でつまんで味見をする。


「よかった。お江戸は無事なのですね」


若い女中の声は明るく弾み、丸い頬に赤みが差した。


「一昨日の三月十四日に、江戸の薩摩藩邸屋敷で

勝阿波守と薩摩の西郷なんとかという人との話し合いがあって、

それで中止になったってさ」


弁慶縞が、またハスの天ぷらをつまみ食いする。


「あら、あんた、ずいぶん物知りだね。

江戸で戦が無くなったなら、

もうすぐここの男たち全員が金子家からを出て行くということかい。

やれやれ、よかった。

大勢の食事の支度はもう懲り懲りだ。勘弁して欲しいわ。

酒の肴はスルメでいいね」


年増の女中もハスの天ぷらをつまみ食いした。


「江戸のことは、さっき奥様から聞いたのよ。

これでやっと、元の暮らしに戻れるわね」


女中たちは顔を見合わせて溜息をついた。


「でも、二人の殿と二百人の兵たちは、

いったいこれから何処へ行って、何をするつもりでしょうか?」


若い女中の問いに二人は答えられず、首をかしげる。



 十九日間の滞在中に隊士たちが食べた米は六十表(約三千六百キロ)

名主の金子家の米蔵は空っぽになった。

 

 二人の殿様とは大久保大和こと近藤勇、内藤隼人こと土方歳三であった。

五兵衛新田の金子家を屯所としていた十九日間は新選組の次の戦に向けて、

大量の弾丸と火薬を製造することに専念していた。

以前から近藤勇も製造方法を学んではいたが、

フランス式調練を受けた幕府歩兵隊脱走者の協力が大きかった。


 開村二百六十年の五兵衛新田には古い大きな屋敷が立ち並ぶ。

それらの屋敷の軒下には火薬の原料となる硝酸カリウム(煙硝えんしょう)が、長い年月をかけて大量に蓄積されている。

それは、糞尿や鶏糞と土の中のバクテリアのなせる技だった。

五兵衛新田には銭座や大きな鍛冶屋もあり、

弾丸製造に最適な土地だった。

近藤勇は再起をめざしていた。



※五兵衛新田(現・東京都綾瀬市)



 

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