血梅
歳三は部屋のハタキがけをしている。
縁側の戸を開けると暖かな春の気配が感じられた。
日野宿本陣の庭の梅が、ほころび始めている。
庭から響く声は鶯ではない。
幼い甥っ子たちが、にぎやかに庭を走り回る声だった。
長身の土方は高い所に積もった埃にも手が届く。
重宝がられて、いつもノブから掃除の手伝いをさせられる。
部屋へノブが入ってくると手を止めた。
「姉さん、何処か隠れた梅の名所を知らないかい?
谷保天満宮へは昨日行ったから、別の所がいいそうだ」
「そういえば昨日、近藤先生が出稽古の帰りに立ち寄った
八王子千人頭の石坂様のお屋敷の梅に感激したと話していたわよ。
何でもね、見たこと無いような紅色のきれいな梅ですって」
切れ長の大きなノブの目が、いたずらっこのように輝いている。
「へえ、驚いたな。あんな鬼瓦みたいな顔して、梅を愛でるなんて」
歳三は思わず吹き出した。
「まあ、歳三、何てこと言うの。
近藤先生は美しい物や可愛い物が大好き。
特に草花と甘い菓子には目がないお方だよ。
ああ見えても」
ノブはついにゲラゲラと笑い出す。
「武士の家へ百姓のおれが梅見物っていうのは、無理だからな。
どうしたものかな」
歳三は腕組みして悩んでいる。
「おや、そんなに近藤先生のお気に入りの梅が見たいのかい?
それなら、近藤先生に連れて行ってもらえばいいじゃない」
「嫌だよ。道場以外で、わざわざあいつに会うなんて、まっぴらごめんだ」
ふてくされて様子で、はたきをかけ始めた。
「でも、気になるのでしょう。本当は一緒に見に行きたいくせに」
歳三の顔を覗き込むと真顔だった。
何事か考えがあるらしい。
その日、歳三は天然理心流の兄弟子の井上源三郎に
「旗本の客人に梅を見せたい」と、
その兄の八王子千人同心の井上松五郎から、
石坂家に伝えてもらうことを頼み込んだ。
翌日、歳三は佐藤家をよく訪れる高齢の文人客、
八王子千人町にある石坂家を訪れていた。
石坂家の門番に井上松五郎からの紹介だと告げると、
庭を見せてもらうことができた。
広い庭の奥には良く手入れが行き届いた梅林がある。
ひときわ鮮やかな紅色の花を付けた一本の若い梅の木に二人は目をとめた。
「あれだな。うむ、なるほど。
噂どおりの素晴らしい梅だ。
小ぶりな花が慎ましくて、凜としていて可愛らしい。
見物に来た甲斐があったというものじゃ」
夜来がつぶやいた。
確かにこりゃ、今まで見た梅とは違うな。
すごくきれいだ。姉ちゃんにも見せたいな。
こっそり一枝もらって帰ろう。
枝に手を伸ばすと夜来がたしなめた。
「こら、とし君いたずらが過ぎるぞ。
この梅は可憐な紅顔の美少年なのだ。
手折ってはいかんよ。
見てごらん。枝が赤くて血が通っている。
血梅という名の珍しい梅じゃ。
優しく愛でるだけにしておきなさい」
「わかりました。血をみるのは嫌いですから」
笑いながら伸ばした手を引っ込めた。
「人の世のものとは見へす梅の花」
歳三が一句詠む。
「さすが、豊玉宗匠らしい素直な句だな」
夜来が大笑いをする。
歳三の雅号は豊玉だった。
「今の句、そんなにひどいですか?
夜来様、いくらなんでも笑い過ぎですよ」
歳三は穏やかに微笑みながらも腹を立てていた。
幕末の不穏な空気が平和で豊かな日野郷にまで立ち込めている。
以前から村の治安を守ることや、
自ら身を守る為の武道に興味を持っていた彦五郎は、
武州と相州で流行している天然理心流に傾倒して二十四歳の時に入門した。
多摩地方の農民向けに出稽古をする、江戸市ヶ谷にある試衛館道場の近藤勇と、
意気投合して義兄弟となる。
二人は共に近藤周斎の弟子だった。
彦五郎自身も五年という早さで天然理心流の極位皆伝となる。
当初、歳三は江戸の試衛館道場から月に一回、
日野へ出稽古に来る近藤と沖田総司、山南敬介、井上源三郎の
天然理心流の剣士の面々をいぶかしげに眺めていた。
だが彦五郎の手前、入門しないわけにもいかず、
安政六年(一八五九年)ついに二十五歳で正式に入門する。
道場は日野宿本陣の長屋門の横にある。
歳三はいつも一足早く道場入りすると床の雑巾がけををした。
狭いながらも彦五郎自慢の道場なのだから、それも苦にならない。
ひとしきり掃除を終えると、
一人で天然理心流独特の丸太のように太くて重い木刀を振る。
歳三より八才年下のまだ少年らしさが残る沖田総司が入り口で一礼して、
あどけない笑顔で道場へ入ってきた。
若いが天然理心流の剣士としては、大先輩で実力は雲泥の差がある。
「なかなか、いいですね。
歳三さん、見違えてしまいましたよ。
振れるようになったじゃないですか。
赤が好きなんですってね。
初めて見た時は、赤い面紐が良く似合っていたから、
背の高い女の人だと思っていましたよ。
今じゃ、ずいぶん力強くなりましたね。
だいぶ剣術らしくなってきたじゃないですか」
歳三の横に並んで沖田が太い木刀を振ると、
ヒュンという鋭く空気を切り裂く音がした。
らしく・・・・・・だと。
歳三の切れ長の目は、さらにつり上がる。
一人で形稽古を始めた沖田を横目で見る。
細身の沖田の背格好は自分と似ている。
だが、背筋がまっすぐ伸びていて、木刀を持つ立ち姿が違う。
まるで木刀と一体化しているような、無駄の無い鋭い動きをする。
「試衛館道場の先生方の指南のおかげです。
自分に足りないのものは何でしょうか」
「うん、そうだな、まだまだ、たくさん足りないところがあるけれど、
強いて言えば鍛錬不足ですね」
そう言って、歳三をちらりと見ると、にやりと笑う。
「は、そうですか。精進します」
ちくしょう、馬鹿にしやがって。
このガキめ。
こう見えても、おれは、おまえらと違って忙しいんだ。
日がな一日、こんな丸太みたいな木刀ふりまわしているわけには、
いかねえんだよ。
今に見てろよ。
故郷と大切な家族を守る為に強くならなければいけない。
少なくとも、時々村に入り込む不貞浪士に
負けないぐらいの剣技は身につけたいと思っている。
冬空の下、歳三は広い池のある日野宿本陣の庭掃除をする。
ふと人の気配を感じて振り向くと、
いつになく難しい顔をした彦五郎が腕組みをして
自分を睨んで立っていた。
「昨日、掃除しなかったので、庭に落ち葉が溜まってしまいました。
申し訳ありません。今すぐ、きれいにしますから」
歳三は慌てた。
「いや、それはいいのだが、歳三、いくつになった」
今さら聞かれて戸惑う。
武州多摩の冷たく乾いた北風が容赦なく吹きつけてくる。
「二九になります」
凍える手で竹箒の柄を握りしめる。
「勇より一つ年下だったな。
勇にはすでに妻子がいるが。
そういえば為次郎兄さんお気に入りの戸塚村の三味線屋の一人娘とは、
その後どうなっている。
美声の持ち主らしいじゃないか。
婿入りして三味線屋の若旦那にならないのか」
「お琴とは時々会っています。
でも、まだ婿に行くつもりはありません。
お琴は気立てのいい娘ですが」
歳三は、だんだん叱られている気分になってきた。
だが、所帯を持つ自分が想像できない。
金が入れば江戸での遊びに使いたい。
実は馴染みがいる。
花の盛りは、とっくに過ぎたが、妖艶な炎を燃やす大年増の遊女だった。
それに何よりも、姉と彦五郎が居るにぎやかな佐藤家から出て行きたくない。
佐藤家に居候していていれば生活には困らない。
一緒に暮らしている幼い甥や姪たちを、
すっかり我が子のように思っている。
「それなら、ちょっと頼みたい仕事がある。後で茶の間に来てくれ」
庭の掃除を終えて温かい茶の間に入る。
茶を入れてくれたノブの顔が、いつもと違う。
なぜか暗く沈んで見える。
それが気になりながらも熱い茶をゆっくりと味わいながら、
彦五郎の話に耳を傾けた。
「突然だが、近藤勇の天然理心流の門弟たちと共に京都へ行ってくれ。
来年早々に上洛する将軍警護をする浪士を募っているそうだ。
日野の代官、江川様から話しが来た。
やりがいのある立派な仕事だ。
驚くほど、たくさんのお年玉を貰えるぞ。
おれも行きたいのだが日野郷三千石の総名主の役目があるから、
どうしたって無理だ。
そこで歳三、おれの代わりに行って来てくれないか?
勇は剣士としては誰よりも強い頼りになる男だ。
人柄も申し分ない。
だが剣術一筋に生きて来た男だから純粋で実直すぎるのが心配なのだ。
その点、おまえは剣の腕前はまだまだだが、
遊び慣れていて世間のこともよく知っている、如才ない男だ。
近藤勇の片腕となって京の都へ行ってくれ。
勇も、おまえに一緒に来て欲しいと言っている。
そして、ここからが肝心だ。
京での出来事をすべて逐一、手紙で知らせてもらいたい。
困ったことがあったら、すぐに手紙をくれ。
金銭のことも遠慮なく相談してくれ。
おれは京から遠く離れた日野に居るが、
物心両面で出来る限り、おまえ達を助けたいと思っている」
一気に話すと、茶をゴクゴクと飲み干した。
浅黒い肌の彦五郎は鷹のような精悍な風貌をしている。
その意志の強い目で見つめられると身動きがとれなくなる。
敬愛する兄に従うしかないのだと歳三は思う。
義兄弟というだけあって、佐藤彦五郎と近藤勇はどこか似ている。
天然理心流を極めた者たちの持つ威圧感なのか。
体と心まで温めてくれていた茶は冷たく、苦いだけの飲み物になった。
金は欲しいが、よりによって浪士隊だと。
武士になんか、なりたくない。
しかも、あいつと行くなんて。
だが所詮おれは役立たずの居候。
兄さんには逆らえない。
京へ行くしかないのだ。
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