ふたりの姫
第1話
翌日、筒姫が出立の挨拶をしに玉座の間へと現れた。
磨き抜かれた広い板間を紅の絨毯が二つに分けるように壇上へ設けられた玉座の前まで続いている。その道の両端に臣の控えるなか、豪奢な赤い衣を着て、宝石のちりばめられた金の冠をいただいた姫は、しゃなりしゃなりと歩を進める。侍女を従え長い裳裾を引きながら歩む姿は鳳凰のように見えた。
いつもなら豊かな表情を表す姫の顔も、今日は緊張に強張ってる。
皆が見守る中、兄が座る玉座を見据え歩きながら、ふと、首元を意識する。そこには、豪奢な衣装からすれば少し見劣りするような、翡翠の首飾りがかけられていた。
今朝早く、身支度を済ませて馴染み深い書院を訪ねた時、姫の両手を握り涙を見せた父が、以前贈ってくれた魔よけの首飾りだ。
侍女は衣装に合わないと指摘したが、筒姫はこの日身に着ける装飾品として迷わずに選んだ。これ程今日着けるに相応しい品があるだろうか。
父はすぐに気が付いたらしく、姫の肩へ手を置くと悲し気に微笑んだ。
「願わくばこの魔よけの霊験あらたかなることを示してもらいたいものじゃな」
「お父様が選んだ品ですもの。確かですわ」
物思いから意識を眼前に戻せば、通常なら
「
透き通るような筒姫の声が部屋の隅々にまで通る。
挨拶を聞きながら、臣たちはものは言わねど、うっすらと悲愴を漂わせていた。なかには行かせたくないと涙を浮かべる者さえいる。
開け放たれた広間の外、濡れ縁に控えるセンにまでそれはひしひしと伝わってくるようだった。ここに姫の出立を、もろ手を挙げて喜ぶ者は一人もいない。
「ほんの数日だ。
「はい。お兄さま。お父さまもご自愛くださいね」
少しの間とはいえ、娘を送り出すのは辛いらしく、朱上皇は目を潤ませて何も言えずにいるようだ。己の身を筒姫に労わられ、今にも涙をこぼしそうに『うむ』とだけ短く返事する。
そのような父の姿を目端でとらえ、兄は困ったように笑みを浮かべた。
「あまり父上を心配させてはならぬぞ。早く戻れよ」
挨拶を済ませた筒姫は侍女に導かれて城を後にした。
豪奢な車へ乗り込むと日よけの布の陰へ座る。センは馬にまたがりそのわきへついた。すると、遠くより声がかかる。彩華に連れられた霰が、センを見送りに来ていたのだ。人並みの前で手を振っている。
昨夜の騒動の後、霰は彩華の預かりとなっていた。
連れてきた者が面倒を見るのは筋、他の物任せにするからこのようなことになるのだと炎帝がお決めになったのだ。実質、夏宮の誰もが忙しいなか、目を離さずにいられるのは彩華以外いなかったこともある。
再開を願いなんども言葉は交わしたはずだ。それでも伝えたい気持ちは絶えることはない。
しかし、出立の行列の整う中、さすがに近くに来るのは気が引けたのだろう。霰がセンへ駆け寄ることはなかった。その代り、一所懸命に手にした扇を振っている。センも応えて手を振り矢筒を軽くたたいた。そこには青い矢羽の並ぶ中、目の覚めるような紅い矢が二本混ざっている。霰がセンに贈った矢だ。
--ありがとう。いってくるよ。
そんな気持ちが伝わったのか。霰はほほ笑んで扇を収めた。
行列の前にそびえる大門の扉が開け放たれ、まっすぐに伸びる大路が目前に広がる。打ち水されたのか道は濡れており、道幅いっぱいに浅い水たまりができて鏡写しに空を映していた。その中央に、見知らぬ天女が神楽鈴を手に佇んでいる。
こたび筒姫が冬宮を訪れるにあたって、天帝から遣わされた竜女である。
旅慣れぬ姫が車に乗り、陸路を数日かけて行くのでは辛かろうと、特別な道を使わせるために遣わしたのだ。
「こたび案内をいたします
藍玉は手元の鈴をシャランと鳴らすと、進むべき方向へなおる。
それを合図に出立の声が上がった。
筒姫の輿を守る長い列は、たなびく赤い雲のようにゆるゆると動き出す。日向と、水と、夏の暖かい空気が香るなか、浮かない顔をした沢山の見送りに袖を振られ大門をあとにする。
打ち水は門の前だけではなく、大路すべてにされており、輿の列はそのまま城壁に設けられた門まで歩を進めた。その間、道の両脇には見物に来た街の者が溢れ、めったに見られぬ雲居の姫の行列を見ようと人垣を作っていた。それら群衆は、薄く張られた水の上を、滑るように厳かに進む一行の歩みを妨げることはなく、大人しく見守ることに徹していた。騒がしい声を立てるものとてなかった。
先頭に立つ案内役の竜女が持つ、神楽鈴の邪気を払うような澄んだ音色が、大路に鳴り響いている。
大路を覆う水は、その上を歩くものの着物や沓を濡らすことはなく、センは馬上でそれを見て、雨女の抜け道を思い出した。もしかしたら、これもあれと似たようなものなのかもしれない。
やがて外壁の門の手前に到達した竜女は、一度歩みを止めた。
音もなく振り返ると一礼し。
「これより水の道、水脈を通りまするゆえ私より離れませぬよう」
そう言い終わるが早いか、より大きく鈴の音を響かせた。すると同時に、空を写していた薄い水たまりへ行列が染み込むように沈む。
見物人のどよめきが上がる中、一行は水の中へと姿を消した。
**
鍾乳石が無数に釣り下がる白い洞窟を、ほのかな光が浮かび上がらせる。
水へ引き込まれるような感覚はある。しかし、息は出来るし着物の濡れる気配はない。地へ立っている時に感じる体の重ささえ感じられない。流れの緩い川へ身を預け、漂うような何とも言い表し辛い奇妙な感触だ。
夢の中を歩むような足取りで、行列は竜女の手引きで先を進む。センの跨る馬の鬣が水流に棚引くようにふわりと揺れた。見れば
雨女が水面をくぐる事で場所を移動するのに対し、竜女は水脈のつながりを通して移動するのだろうか。
ふと、センの耳に悲しげなすすり泣きが届いた。
輿にかかる日よけの
慰めの言葉をかけたものか。
センが迷っていると、筒姫が袖から顔をあげる。
その顔に、不安や悲しみの色はもう無く。凛とした瞳は進む先へと向けられていた。その毅然とした横顔が再び涙に曇ったり、袖に隠されることはなかった。
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