夏宮にて

第1話

「行きたくない。行きたくない。行きたくな~い」


唱えていれば願いが通じるとでも思っているのだろうか。離れの書院に逃げ込んできた娘が、先程より窓辺に置かれた来客用の長椅子にしがみついて呪詛のように拒否の言葉を繰り返し呟いている。


それを聞く側としては全く気の滅入る光景だ。

お陰で一向に仕事へ身が入らない。娘の父、朱上皇アケノジョウコウは深いため息をつき、遅々として進まぬ筆を置くと頭を抱えた。


全くなんと言う厄年であろう。

娘の筒姫ツツヒメに見合いが舞い込んだ。本当なら両手モロテをあげて喝采を叫びたいところだ。だが、その見合いを申し込んだのがよりにもよって冬宮トウグウ東宮トウグウであった。


「最悪じゃ」


書簡に埋もれた文机に突っ伏したい気持ちになった。

先の戦以来、冬宮とは絶交とまではいかないもののギクシャクとした状態が続いていた。お互いにほどよい距離をとることで、無用な争いを避けてきたところもある。

なのに、どういうつもりか突然の見合い話である。夏宮としては寝耳に水だ。


これが先々代の黒帝の御代であったなら、未だ理解ができた。冬宮には珍しい穏健派で、彼の代でようやく形だけとはいえ国交を持つようになったのだ。


しかし、当代の黒帝は野心が強すぎる。

軍事力を上げることに密かに傾倒しているとのきな臭い噂も絶えない。当然断りをいれようとしたのだが、どんなツテを使ったのか、天帝の後押しまでついてきた。


怪しい噂の絶えない所へ妹はやれぬと、燃え上がらんばかりに炎帝は怒り狂った。相手に断らせるべく、引き換えとして『宇津田姫の来訪』を申しこんだ。人質をとりたいだけなら、何かそれらしい反応をするだろう。そう踏んでの条件だったのだが。


先方はいともあっさり承諾した。

しかも『宇津田姫と炎帝の見合い』と言う形にすり替えられて。『両宮の橋渡しがより強固なものとする為』などと言う返事が届けられたときの炎帝の顔ときたら……。


言っては悪いが見ものだった。

こんな状況になければ、大いに愉しんだかもしれない。

唖然と言葉をなくし、二の句が告げられずにいる息子の顔を初めて見た。いや、朱上皇が帝位を譲ると言ったあのとき以来か。


その場で書簡を投げ捨て、自室へ下がってしまった。

たぶん今、相手の思う壺に嵌まった己を呪いながら、打開策を必死に探しているに違いない。されど、いかに炎とて、ここまで深みにはまっては解決策を見いだせないかもしれない。


かく言う上皇も、娘を北に行かせずに済む方法はないかと、仕事も上の空で考え込んでいるのだが、名案は浮かんでこない。


筒姫は冬宮へ来訪しなくてはならないだろうし、夏宮は宇津田姫の訪問を受け入れなければならない状況は変わりそうもなかった。


このところ相手が大人しくしていた為、警戒を怠っていたのかも知れない。後手に回らざる終えないとは、まったく悔やまれる。だが、悔やんだところで状況は変わらない。


この後注意すべき点は、いかに相手へ付け入る隙を見せないようにするかだろう。相手の思惑が分からない以上、最悪を考えて備えるに越したことはない。

何が戦の火種に使われるか分からないのだ。


しかし、世を再び乱すことになりかねぬ状況を天帝が見過ごすだろうか?


「お父さま」


長椅子の上で膝を抱えて座る筒姫が父を呼ぶ。


「冬宮の東宮さまはどんな人なの?」


話には聞いたことがある。

若くして一軍を担う、武人気質の人物で腕も相当にたつと聞く。冷血漢との噂も聞いた。

伝え聞いたことをそのまま話せば、姫は益々塞ぎ込むに違いない。


「さぁ、腕のたつ武人と聞いているが余り知らぬな」

「そうなの……」


悪しき時もあった。歩みよろうとした時もあった。

しかし、いつの時代にも両宮の間には重苦しい負の感情が横たわり、理解を深める機会を逸してきた。

それが四宮を平和から遠退かせている。そのことは誰しも分かっていた。だが時に、頭と心は平行線を辿ることがある。


筒姫は裳裾のしわを弄りながら、暫く俯いて考え事をしていたが、そのうちおもむろに口を開いた。


「お父さま。私、冬宮に行くわ」


相手の思惑が分からない以上、ここで悩んでいても始まらない。どちらにせよ行かなければならないなら、内情を探ってくる。


「虎穴に入らずんば虎児を得ず。よね」


今のままでは情報が足らないわ。

憶測で物事を判断するのはとても危険だと思うの。

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