第33話 扉の向こう側

 それは、俺たちが穴に落っこちた事件から数ヶ月後の、とある日曜日の夕暮れどきのことだった。


「センパーィ、お醤油貸してくぅださぁーい」

 ドアをどんどんと乱暴に叩く音と共に、耳に馴染みのある瀬戸内くんの声が聞こえた。

「瀬戸内っ!近所迷惑だから、大声だすなよ……で、これどういう状況か聞いてもいいかな~?」

 瀬戸内くんの家は、ここから電車で数駅先の所にある。つまり、気軽にお醤油を借りに来る距離ではないのだ。


「今、友達のとこに遊びに来てるんです。で、夕飯に鍋でもしようかなって思ったら、醤油が切れててですね。そういえば、先輩もここのマンションに居たなーって思って」

「友達?」

「最近仲良くなったゲーム仲間が、ここに住んでるんですよ。正確には、先輩のお隣さんなんですけど」

「隣?」

「あ、今から鍋しますけど、一緒にどうですか?」

「鍋かぁ」

 夕食を用意する手間が一回分省ける。そう思えば、醤油と引き換えにご一緒させて頂くのもありかもしれぬ。そう結論づけて、俺は瀬戸内くんにくっついて、隣室へ向かった。


 お隣さんとは、生活のサイクルが違うようで、これまで顔を合わせたことはなかったし、隣に誰が住んでいるのか興味もなかったから、名前すら認識していなかった。表札を確認して、今更ながらその名前を知る。


――本上。


「ほんじょうさんか……」

「じゃなくて、『もとがみ』ですよ、先輩」

「モトガミ、さん?」

 そんなやり取りをしていたらドアが開いて、中からその本上さんが顔を出した。

「クリスくーん、お醤油借りられたかの?」


――この顔、知ってるっ!


 見た瞬間に、そう思った。


――俺、このじいさんと、どっかで会ったことあるよなっ?どっかっ、ここじゃなくてぇ……えーーーーっと……


「……ゲーム友達って、まさかこのじいさんかっ?」

「ええ、そうですよ。本上羽間もとがみはざまさん」

「……ハザマさん」


 その名前が、俺の記憶の欠落した部分を、カチリと音を立てて埋めた。


「………って、あのハザマさんかっ」


――つまりモトガミ って……元神ってことじゃん。


「まんまじゃねーかよ。つか、何であんたがここにいんだよっ!」

 わたわたしている俺を、怪訝な顔で見ている瀬戸内くんの様子からするに、瀬戸内くんの異世界での記憶は戻っていないのだと気付く。

「何だ、先輩と本上さん、知り合いだったんですねー。それでお隣に住んでるの知らずにいたなんて、アンビリバボーなことがあるんですねぇ。大都会すげぇ……」

 


 別に誰からも口止めされた訳でもないので、それから鍋を囲んで三人、当然の流れとして、異世界話に話が咲いた。


 何と、ハザマさんは狭間の神の座を八世さんに譲る代わりに、自分はこちらの世界に来たいという条件を出したのだそうだ。最新のゲームやり放題な生活。そんなもので神様辞めるとか、どうなんだという気もしないでもないが、らしいといえばらしいのかと何となく納得させられてしまう。


 瀬戸内くんは自分がそんな稀有な体験をしたのを覚えていなかったことを、凄く悔しがっていた。同じように本上さんという人間に出会って、記憶が戻った俺と、戻らなかった瀬戸内くん。その違いは何なんだろうと、俺は鍋をつつき、酒を飲みしながらずっと考えていた。思いつくのは、神和の人間かどうかって事ぐらいな訳だが。

 帰り際、ハザマさんが俺に教えてくれた、八世さんからの言葉。そこにヒントがあった。



『僕は特に何もしないけど、もし『出会う』という奇跡が起きたら、そこで九の時間は分岐するかも知れないね。その先、彼がどっちを選ぶのかは、彼次第だけど――』



「……って、それ、絶対、俺がどっち選ぶか分かってて、トラップしかけてんじゃん」

 八世さんの掌で転がされるのは釈然としないけど――だって、あの人に関わったら、絶対便利に使われるのは、目に見えている――それでも俺が選ぶ道はそっちしかないだろうと思う。


――あの笑顔を……俺が。もう一度見たいと思わない訳……ないじゃないかよ。







「たっだいま~」

 冷え切った薄暗い部屋に、俺の声が響く。

「う~寒寒」

 俺は部屋を横切って、構造上そこには存在し得ない筈の扉を開いた。


 瞬間、暖気と肉の焼けるいい匂いに体が包まれる。

「早く閉めろよ、そっちから冷たい空気が入り込んで来んじゃんか」

 コリンの相変わらずなつんけんした声に苦笑しながら、俺は扉の向こうに足を踏み入れる。


 扉の向こう側――そこは、元魔王城のディナールームだ。


「お帰りなさい。お仕事お疲れさま」

 フェリが俺のカバンとコートを受け取りしな、笑顔を見せる。

「フェリ、ただいまぁ~」

 その顔があまりに可愛くて思わず抱き締めると、瞬殺でコリンの氷の視線に貫かれる。

「ふざけてないで、早く座んなさいよ」

 横から、ドレスアップしたラムダリアの呆れた声がしたから、腕を伸ばしてこちらも一緒にむぎゅっと抱きつぶす。

「なっ、なにしてんのよ、変態、は~な~せ~っ」

 ここまでは、もういつもの定番で、そんな俺たちを早々にグラスを傾けている双羽さんと十広さんが、温い笑顔で見守ってくれている。


――あ~癒される~~至福だわ~~~


 俺が幸せ気分に浸っていると、

「いい加減にしろっ」

 そんな声と共に、頭にコリンのげんこつをお見舞いされた。こちらは身を屈めていたとはいえ、奴の手が頭に届いたことに驚かされる。コリン、お前、身長急に伸びすぎだろう……


 俺がようやくテーブルに付くと、待ちかねたように食事が始まった。こうして毎日、フェリの料理を食べられるだけでも、三十路独身男には有り難すぎる境遇だと思う。俺がこっちを選ばない訳がないのだ。




 あの鍋パーティーの夜、記憶の戻った俺がほろ酔いで部屋に戻ると、部屋の壁に異世界に繋がる扉が出現していた。


「おそ~いっ」

 俺を待ち構えていたのは、ラムダリアの不機嫌な声で――


 その時俺は、目の前にひとつの分岐が現れた事をハッキリと自覚したのだった。


「人が折角会いに来たって言うのに、何時間待たせるのよ」

「……あ、いや……隣で飲んでたんだけど……てか、お前、隣にいたの分かってたんだろ?」

 八世さんとも遜色ないレベルの魔法使い――八世さんが神様になった後では、あの世界で一番と言ってもいいレベルの――なんだから、こいつが俺の居場所を特定する位、朝飯前のはずだ。


「顔出せば良かったのに。来たら、セトのイケメンバージョン見られたぞ……ん~?」

「……久しぶりなんだもの、二人だけで会いたかったのよ…………」

「……ふたり、だけで?……なんで?フェリやコリンも連れて来たら良かったのに」

「……ばか。知らないっ」

 ラムダリアはそのまま踵を返し、扉を開こうとする。

「とりあえず、ここ、元魔王城と繋げたから、気が向いたら顔、見せないよね。今日は、それを言いに来ただけだからっ、じゃ……」

 そう言って扉を開くと、そのまま帰ろうとする。俺はそんなラムダリアを、思わず後ろから抱きしめていた。


――後から思い返せば、酔った勢いだった……んだろうなと思う。というかそう思いたい、プチ黒歴史。


「久しぶりに会ったんだから、もっとちゃんと顔、見せてよ」

「……もう……会えないと思ってた」

「……ゴメン」

「会いたかった。会いたくて会いたくて……あたしたちが、どんな思いしたか……少しは分かりなさいよ、ばか……」

「ラムダリア……心配させたんだな。悪かった……」

 俺の腕の中で、ラムダリアの体が微かに震えていた。

「…………」

「……泣いてんのか?」

「な、い、て、なーいー」

 言った途端に、鼻をすすり上げる気配――

「いや、泣いてんだろ」

「ないわよ」

「いや、だって……」

「しつこいわね、いい加減離しなさいよ、この酔っ払いっ!」

 俺の腕の中で、ラムダリアがバタバタと暴れ始めた。

「そんな風に暴れたら、折角の可愛いドレスが台無しだぞ」

「どの口が言うのよ、そういうのっ……」

 くるり、ラムダリアの華奢な体を反転させると、至近距離で顔を突き合わせる格好になる。怒っているからなのか、その顔は赤く上気していて、やっぱり泣いてたんだろ、という具合に瞳が潤んでいる。それなのに、そんな顔のラムダリアから目が反らせなくて、俺はつい彼女の顔をマジマジと見入ってしまった。


――いや、別に、色っぽいとか思った訳では、ない。……と思いたい。


 酔っていたから、は言い訳になるのかどうか、自分でも判然としない辺りが何ともで。


「感動の再会は良いけど、こんな所で二人の世界作って、顔赤くして見詰め合ったりしないでくれる?恥ずかしいから」


 コリンのそんな辛辣なセリフに、救われた様な気がしたというのは、何つーか……大人として忸怩たるものがあった訳で。


 成長期なんだろうとは思うけど、どんどんと大人になっていく奴らを目の当たりにしていると、嬉しい反面どこか寂しさもあるのだと知った。
















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