第8話 猫の耳って何か触りたくなるよね?

 目の前に猫の耳がある。それが、ときどき思い出したようにぴくぴくっと動く様に、俺の視線は釘付けだ。


――うぉぉぉぅ……触りてぇ……触っちゃダメかなっ。もっ、もふもふしたい……ちょこっとならいいかな……い、いいよな。ちょこっと、ちょこっとだけだから……


 猫好きの衝動に突き動かされて、吸い寄せられるように、俺の手はぴくぴく動くその耳にすい~っと伸びていく。 


「何やってんだよ、おっさん」

 俺の挙動がおかしいことに気付いたコリンの鋭い声に、俺の手は耳まで辿りつけずに、虚空をさまようことになった。


――ちぇー、もう少しだったのにぃ……


 そう思った所で、目の前の少女が分厚い台帳をめくる手を止めて顔を上げた。俺と目が合うと、彼女はにっこり営業スマイルを見せた。その笑顔を目にした途端、俺は正気に戻る。


――やべ~、うっかり触っちゃうトコだったわ~~


 そんな心の声に反応するように、彼女のほどよいウエーブの掛かったブルネットの髪の上で、猫の耳がまたぴくっと動いた。


「……ええと、昨日の日付で、休業届が出てますね、コリンくんの先生は」

「昨日、ですか?」

 コリンが確認するように繰り返した。先生が魔物に襲われたのが正確には三日前だから、昨日ギルドに連絡があったということは、取りあえず生存の確認は出来たということだ。


 俺たちは今、煤だらけのままで、カンナ先生が登録しているという、魔法使いギルドの受付前に来ている。

 具合が悪そうだったフェリシュカは、とりあえず医務室で寝かせて貰っている。それで、俺とコリンの二人は、受付で先生に関する情報を集めているところだった。


 俺たちを出迎えてくれた受付嬢は、その頭に猫耳を乗せていた。それを見た瞬間からこっち、俺の胸はずっと高鳴り続けている。

 だって、猫耳だぞ?そんなもの、触りたいに決まってるじゃないか。でもうら若き乙女の耳を、見ず知らずのむさ苦しいおじさんが触ったら、多分、犯罪になると思われ……ていうか、人猫族とか人猫族とか人猫族とかっ。くぅ~っ……ああ、胸が苦しい。そうだ、お茶に誘ってみるというのはどうだろう、ちょっと親しくなれば、耳ぐらい触らせてくれるんじゃなかろうか。


「……先生は、どこかに出かける予定だったんでしょうか?休業の理由とかは?」

「さあ、それはおっしゃられていなかったようですが。修行のために、ある期間、仕事の依頼は受けないという方も珍しくありませんし……あの、この耳、気になります?」


 気付けばまた、猫耳に視線を止めていた俺に、彼女の笑いを含んだ声が掛けられた。社会人にあるまじき、どうしようもなく不躾な自分を自覚して、俺はコリンの前でみっともなくうろたえる羽目になった。

「……すっ、すみませんっ。ホントに。こういうの、初めてで……珍しくてって、いうのも失礼か……えと、その……耳、かわいいというか、素敵だなと……思……って……スミマ……セン……」


――ああ、お子様の視線がいてぇわ。おまけに、多分、顔赤くなってる俺、恥ずかし~


「人猫族見るの初めてとか、異国の方ですか?あなたの、黒い目とか髪とかも、この辺りじゃ、珍しい方ですよ?」

「え?ああ、そうなんですね」

「……触ってみます?」

 どこか上目遣いに、彼女がこちらを見て言った。

「へ……?えぇっ?いいんですかっ!」

「うふふ……構いませんよ~ぉ?」

 おゆっ、お許し頂けたっ。感動のあまり、伸ばす手が、ふるふると震える。

「……おっさん」

「何だよ、お子様」

「人猫族の耳触ると、求婚したことになるんだけど、いいのか?」

「きゅっ?きゅうこんっ?」

「お姉さんも、発情期近いのわかるけど、これは、僕の下僕だから、勝手にマーキングしないでね?」

「えぇ~~、そうなのぉ?なんだぁ。結構好みだったのにな~、ざ~んねん」


――ええと。発情期?マーキング?


「えっとぉ。モノは相談なんてすけど~耳触ってもいいのでっ、代わりに、その胸触らせて貰ってもいいですかっ!もちろん、結婚とかそういう話は除外で」

「へ?」

「その、芸術的な筋肉に、とっても興味があるんですっ」

 まくし立てる様に大胆な提案を言い切って、彼女――ああ胸のネームプレート見たら、えりざべす、って書いてあるわ――は、きゃっと恥ずかしがる素振りを見せた。猫だけに、きゃ……(割愛)


 ただ単に、耳に引き寄せられるだけで、エリザベスちゃんに関しては、特別俺の好みのタイプという訳ではないのだが、この筋肉の価値を理解してくれる女の子というのは、けっこう貴重だ。


――アスリートでもないのに、あんなに筋肉ばっか鍛えてるって、ないよねー


 というのが、現実世界において、俺周辺の女共の評価だった。キモいなんて言われるのはまだいい方で、あげくは、男に興味があるんじゃないか疑惑まで掛けられていたのだ。それがっ――


「やっぱり、ダメですか?」

 そのガッカリ感を表す様に、猫耳がペタンと伏せられる。ヤバイ。メチャメチャかわいい。

「いやっ。ダメな訳なくなくないって言うか……むしろ、いいんですか、というか……えっと、いいの?」

「はい」


――ああ、至福。神様ありがと~うっ、この世界に猫を創ってくれて。





「しあわせだなぁ……」

「いい加減、その緩みきった顔、何とかしろよ、鬱陶しい」

「えへへ」

 コリンの嫌味も、そよ風のように心地よく聞こえるって。しあわせって、こわいな~(棒読み)


 コリンの極寒の視線の中で行われた触りっこが、俺の心に大いなる癒しパワーを与えた後、俺達は遅い晩ごはんを済ませ、今はまったりと、ギルドの宿泊施設で就寝前のひとときを過ごしている。


 無一文で焼け出された俺達だったが、偉大なカンナ先生は、このギルドに口座を持っていて、そこには相当な額のお金が蓄えられていることが分かった。そのお陰で、俺達は服の汚れも、体の汚れも、あっという間に、魔法で元通りにしてもらえたし、美味しいごはんにもありつけ、シャワーも浴びて気分もさっぱり。という具合。もちろん、フェリシュカの治療もバッチリで、彼女はもうすでに、ベッドでかわいい寝息を立てている。


「……んで~?これからどうすんの?エリザベスちゃんの助言通りに、カランカルム山ってとこに行ってみる?」

 魔物との戦闘で、すぐに治せない程の深手を追ったのなら、カランカルム山の裾野にある温泉にでも行ったんじゃないかな、と言うのがエリザベスちゃんの見解だった。

 そこの温泉には、傷に良く効く魔泉が湧いてるらしい。

「別途料金掛かるけど、彼女、ガイドに付いて来てくれるって言うし」

 そう言うと、コリンがいかにも嫌そうな顔をする。

「あのきゃぴきゃぴした鬱陶しい空気を、この僕に我慢しろとか、何の冗談だよ」

「えー、だって魔法使いさんがいた方が、何かと便利でしょ?ノート燃しちゃったコリンくんは魔法使えないんだし」

「誰のせいだよ、誰のっ」

 そう――このお子様は、今はただのお子様に過ぎないのだ。つまり、力関係逆転ってことだよな。あえて言わないけどさっ。ぐふふ。

「あ~なんかムカつく。もう寝るしっ」

 少年は毛布を勢い良くかぶって、ベッドの上で丸くなる。そして数分もしないうちに、静かな寝息を立てはじめた。


――寝つき、はやっ。若いっていいなー。


 俺なんか、色々思い出しちゃって、今日はなかなか寝られなさそうだよ?


 こうして怒濤の異世界一日目は、幕を閉じたのだった。

















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