第十六章 売薬さん
こどものころの思い出に、四角い紙風船がある。
ひらぺったく折りたたんである紙風船の空気穴に口をつけ、フッーと空気を入れてふくらませてから、ポンポンと手で突いて跳ね上げて遊ぶ、こどものおもちゃだった。
売薬のおっちゃんが、「ぼく、お土産だよ」といって渡してくれた。
きれいな絵柄の紙風船だ。注意しないとすぐに破れてしまう。
「ヒィ・フゥ・ミィ・ヨォ・イッツ・ムゥ・ナァナ・ヤァ・コッコ・トォ」
ついた数をかぞえるのが楽しい。
あねたちに交じっていっしょに遊ぶが、年少のわたしがいちばん下手くそだった。
「だめね、チビは
はじかれて悔しい思いをしたものだった。
売薬のおっちゃんは風呂敷で包んだ大きな柳行李を背負ってくるから、遠くからでもひと目で分かる。遊んでいても途中でやめて、いそいで家のなかに駆け込む。踏み台に乗ってたんすの上においてある薬箱を下ろして玄関先へはこぶ。売薬のおっちゃんは五段重ねの柳行李を開けて薬の紙袋を見繕っている。売薬のおっちゃんは薬もはこぶが、
売薬のおっちゃんは、家庭常備薬の配置販売人だ。こどもはおっちゃんと呼ぶが、ふつうは売薬さんで通っている。毎年きまった時期に訪問し、飲んだ分だけ集金して、薬を補充する。使わなかった古い薬は、新しいものと取替える。「先用後利」という後払いの置き薬だから、いざというとき便利だし、使った分だけの負担だから無駄にならない。
売薬さんは大きな帳面を開いて、出し入れの明細を記録する。「
北陸出身者なら全国どこへ移っても、次の年までにかならず訪問を受ける。わたしの家でいえば、北海道に引っ越した翌月にはもう売薬さんの訪問を受けている。
「あれ、売薬さん、ようきてくたはれた」
おふくろが縫い物の手を休めて茶の接待をする。時期にあわせて自家製の漬物も出す。ニシン漬けはことのほか好評だった。
売薬さんは見聞が広いうえに、話し上手だ。ニシン漬けに舌鼓を打ちながら、世間ばなしをひとくさり語ってくれる。おふくろは、「そいがですちゃ」としきりに相槌を打っては、売薬さんの話に聞き入っている。
売薬さんは東京の秋葉原という電気街で、色のついた街頭テレビを見たという。それはそれは美しい総天然色だったので驚いた、と興奮気味に語ってくれた。
カラーテレビのことだが、わたしにはまったく想像できなかった。北海道ではまだ白黒しか見たことがなかったからだ。色つきといえば、赤緑青の三原色を縦に三本色分けしたプラスチックの透明板をテレビ画面のまえに張って、カラーテレビといっていた記憶もある。
やがて売薬さんは立ち上がり、ふたたび柳行李をかつぐと、
「ぼく、しっかり勉強するんだぞ」
わたしの頭をなでて、去っていった。
日本における医薬品商い、いわゆる薬種商は、十五世紀なかばの室町時代にはじまったとされる。越中では十六世紀なかばに薬種を営む唐人座ができ、十七世紀初期ごろから丸剤や散剤の専業商があらわれ、販売から製薬へと発展していった。
十七世紀なかば、加賀藩から独立した富山藩は、小藩なるがゆえの財政難に苦しみ、打開策を模索していた。第二代藩主前田
富山の薬では、
反魂丹・・・霍乱・胃痛・腹痛に効能がある。「反魂」とは、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味がある。
六神丸・・・動物性生薬を中心に配合された民間薬、
万金丹・・・五倍子・麝香などを練り固めて長方形にし、金箔を押してある。解毒・気付けに用いる。
熊の胆(月の輪熊の胆嚢)・・・胆汁を含んだままの熊の胆嚢を乾燥したもの。苦味が強い。利胆・消炎・
正甫公伝説といわれるものがある。
元禄三年(一六九〇年)、江戸城において福島・三春藩主秋田輝季が、苦悶の色を顔に浮かべ、昏倒した。たまたま居合わせた正甫公は周囲を制し、おもむろに印籠を取り出した。かねてより印籠には大事に備え、越中富山の反魂丹を忍ばせてある。
「ささ、これを」
反魂丹を数粒口に含ませ嚥下させた。みるまに腹痛はおさまった。
「なんと、薬効のあらたかなることよ。前田殿、ぜひにもわが藩にお分けいただきたい」
諸大名は正甫公のもとに殺到し、反魂丹を所望した。諸藩が自らの垣根を取り除き、富山の売薬の藩内流通を求めたのだ。これがきっかけとなり、諸国行商の道がひらけ、反魂丹をメインに製薬業が発展、藩財政は好転した。
富山藩は漢方薬の製造において、各種原料の入手経路の開拓に努めた。徳川の鎖国社会にあって、輸入の道に活路を見いだしたのだ。
江戸期における富山の行商ルートは、日本海の西回り航路の形成にともなって活性化した。東北と北陸、北陸と瀬戸内海・関西・九州など諸地域との物流と人的交流が頻繁に行われ、富山売薬はこの海上ルートに乗って全国展開の緒についた。原料輸入・製品搬送・販路開拓・定期訪問などの利便性が高かったのだ。また飛騨街道を通じて一部は陸路美濃へ抜け、さらに一部は甲斐を経由して甲州街道沿いに江戸へ達した。両地をむすべば太平洋沿岸への道がひらかれ、全国展開が可能となる。
明治以降、一八八六年、輸出売薬が開始された。日清戦争後、大正にかけて、伸張は目覚しく、中国・アメリカ・インドなど世界各地に進出した。大正のはじめ、日露戦争の前後にはピークに達したといわれる。
福地雄一郎は、この富山売薬が大陸に進出する先鞭をつけたひとりだ。
きっかけは平凡だった。十八歳から東北ルートの開拓を任されていた雄一郎の得意先に津軽の名門山田家があり、前任者から引き継いだ。薬を担いで訪ねると、若いのに健気だと家族どうぜんに扱われ、食事をふるまわれたりした。そんな席で長男の良政や末弟の順三郎と知り合ったのだ。まさかこれが生涯の縁のはじまりとは、思っても見なかった。
良政の父浩蔵は明治維新後、漆器授産会社を設立、津軽塗りを普及させたことで知られている。良政は雄一郎よりふたつ年上だったが、歳が近かったので、なじむのも早かった。
なにより良政には学問の素養があり、かねてより中国大陸に雄飛の志を抱いていたので、若い雄一郎は惹きつけられた。津軽在留中、雄一郎は足繁く良政のもとへ通った。中国事情を聞き、片言の中国語を学んだのだ。さらに良政が庭先で鍛錬する棒術の古武道を教わった。神道夢想流
杖と太刀の組形だから、太刀も学ぶ。寸止めの稽古だ。杖も太刀も、ひと振りすれば空気を切る音が出るくらいに上達すれば、実戦とかわらぬ稽古になる。
「つねに実戦に対応することを想定して、気合と
良政の親身な指導のもと、雄一郎は熱中した。行商のあいまも杖と太刀を離さず鍛錬につとめ、三年目に入ると、良政が舌を巻くほどに腕をあげた。
「この杖術は、宮本武蔵と互角の試合をしたといわれる夢想
「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも外れざりけり」
「傷つけず 人を
黒田藩を脱藩した勤皇の志士、
余談だが、平野はつぎの和歌も残している。
「わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙は薄し 桜島山」
革命の連携を志し薩摩にわたったが、先方の藩内事情で退去せざるを得なかったときの歌である。心意気と同時に悔しい胸のうちが秘められている。
良政は二十二歳のとき上京、水産伝習所に学んだ。いまの東京海洋大学だ。
翌年には、北海道昆布会社に就職し、上海支店で勤務することになる。四年後、二十七歳のとき日清戦争勃発、職を辞し、陸軍通訳官として従軍する。
この間、ふたりは連絡を絶やさなかった。良政が雄一郎を大陸に誘ったことは想像に難くない。日清戦争後、雄一郎は漢方薬剤の買付けを旨として、上海へ出る。
売薬ルートの開拓もとうぜん念頭にある。江蘇省一帯をくまなく歩き、南京に近い鎮江では葛洪の郷里である丹陽の
一方、良政は活動の範囲を広げ、海軍省嘱託として北京に赴く直前、東京で宮崎滔天と出会い、その二年後、孫文の知遇を得ている。
恵州起義の前年だった。
わたしは、思いがけない人の出迎えを受けた。
出張先の貴州から帰って降り立った広州空港の国内線出口で、梁小姐と一緒にわたしを出迎えたのは、鄭志竜だった。
久しぶりに中国へ帰っていたが、王くん経由で梁小姐からわたしの消息を伝えられたという。ふたたび日本へ戻る
「わたしになにか御用でも」
王くんから、三合会に属する武術家だと聞いていたので、つねになくわたしは、やや身構えて対応した。
「福地さん、とおっしゃいましたね。王さんから、福地雄一郎さんのお血筋につながるかただと伺っています」
「詳しくは知りませんが、曽祖父にあたる人です。あなたはいったい――」
唐突なあいさつを受けて、わたしは平静さを失った。
「むかし羅浮山の道観で道士をしていました。じつはわたしの曽祖父が、やはり羅浮山で道士をしており、福地雄一郎さんと懇意にしていただいておりました。恵州起義でともに戦ったご縁です」
鄭志竜と名乗った男の曽祖父は、孫文に促され恵州で蜂起した三合会鄭士良ゆかりの一族で、鄭壮志という。恵州起義の顛末は三合会関係者によって語り継がれたが、鄭壮志と羅浮山とのかかわりのなかで、はからずも雄一郎の存在がクローズアップされている。
鄭志竜は、鄭壮志いらいのいい伝えだがと断ったうえで、ひとつの話を切り出した。
恵州の蜂起は失敗に帰し、鄭壮志は雄一郎について羅浮山に逃れた。行動をともにした三合会の仲間数名はほどなく山を降り、ふたたび革命に身を投じたが、鄭壮志は羅浮山に留まり、雄一郎から中草薬の製法と処方を学んだ。中草薬への関心を深めると同時に、雄一郎の生きかたに共鳴したからだという。
革命以外に救世済民の道のあることを知ったのだ。
臆病者と罵られたがじっと耐え、道観に籠って道士の修行をはじめた。ときに薬草採りで山中にはいるや、ひそかに武術鍛錬することを忘れなかった。武術へのこだわりを棄てきれなかったのだろう。まれに雄一郎と連れ立ち、山を降りることもあった。
雄一郎は日本と同様、「先用後利」の配置薬行商をつづけていた。羅浮山から行くに便利な広東・湖南・江西・福建にかけての都市や農村に特定の訪問先をもうけ、毎年同じ時期に訪ねては、配置薬の交換をおこない、さらには中草薬の見分け方や調合の仕方まで指導していたのだ。訪問先が農村のばあい、戸別の家庭を訪ねるというわけにはいかない。庄屋や
雄一郎の行く先々、人々はかれの到着を待ちわびていた。
農繁期を避けた訪問予定日が伝えられると、仕事がなければ朝から日がな一日待つものもいる。長期に患うものは数日まえから泊り込みで待機している。広い集会場ではない。すでに満杯だ。そこへ前触れとともに雄一郎があらわれる。村の外れまで迎えに出ていたものたちで、行列ができている。なかに入りきれない人たちが外に溢れる。一年ぶりの再会だった。
「やあ皆の衆、息災でおられたか」
あいさつもそこそこに、患者の診立てがはじまる。愁訴にもとづき脈をはかり、眼底をしらべ、舌を診る。処方を記して助手に渡す。助手は文字の分かる村の若い読書人(インテリ)だ。そのつど指導をつづけているので、年を重ねるごとに知識を高め、医者のいない農村部では貴重な存在になっている。いずれかれらが村行政の新たな担い手になる。
二、三日かけて全員を診おわると、助手をつれて庄屋や村長の屋敷に移る。助手はそこの子弟であったりするから、意思の疎通にこと欠かない。村人の健康状態が逐一伝えられ、安心もし、対応もとられる。とりわけ流行病の発生には気を尖らせている。
庄屋や村長の自家用にも常備薬が配置され、世間話しのなかで天下の趨勢が語られる。
太平天国の記憶がまだ残っており、革命の動きには敏感だ。鄭壮志は羅浮山の道士として紹介されており、雄一郎と行をともにする限り、怪しむものはいない。
やがて雄一郎は村をあとにし、次の訪問先へと向かう。別れを惜しんだ村人が、県境まで見送ってくれる。
「ありがとう。また来年来てくれよう。待ってるよう」
「またくるぞう。それまで元気になあ」
感激した鄭壮志がいつまでも手を振って、それに答えている。
「福地雄一郎は偉い男だ。売薬はじぶんの商売だからといって謙遜するが、だれにでも真似できるものではない。毎年たったの一回であっても、その訪問がどれだけ村人たちに力を与えていることか。それはこどもらの態度を見ればよく分かる。診たてのあいだもこどもらは雄一郎にまとわりついて離れない。雄一郎の書く中草薬の処方を、魔術でも見るように覗きこんだり、各地の見聞譚をせがんだりしている。雄一郎は少しも迷惑がらず、上海や広州、ときには東京の話をして聞かせ、革命の意義を分かりやすく教えていた。こうしたなかから新しい人間が育っていったのだ。それは本来われわれが自らなすべき仕事ではなかったか」
曽祖父鄭壮志の話を語る鄭士竜のことばが、感動で震えていた。
「その時代、革命に次ぐ革命で、白昼の市街戦さえめずらしくなかった。たまたま長沙の町に入ったとき、発砲事件の現場に出っくわした。銃をもった革命派の男が数人民家に立て籠もり、家のものを人質にとって解放を迫っていた。家のなかからはこどもの泣き叫ぶ声が聞こえている。取り囲んだ政府の軍隊がかまわず突入しようとした」
「待てっ!」
大声で、雄一郎が制した。
「こどもの声が聞こえないのか。わしにまかせろ」
見れば、五段重ねの柳行李をかついだ旅の商人だ。杖を突いているだけで武器は手にしていない。
「きさま、賊の一味か」
先頭の兵のひとりが、やにわに銃剣を突き出した。
身をかわしもせず、雄一郎は手にした杖を下から跳ね上げた。銃剣は男の手を離れ、宙に飛んだあと、大地に突き刺さった。男は手首を押さえ転げまわっている。
「よろしいか。くれぐれも、お手出し無用」
杖を片手に、柳行李を担いだまま、雄一郎は民家の門をくぐった。
ほどなく家のなかからなにかが倒れる音がして、やがて、こどもを抱いた雄一郎がゆっくりと出てきた。
つづいて数人の男女が飛び出してき、そのうちひとりの女がこどもを引き取った。女はこどもと一緒に泣きじゃくりながら、雄一郎を拝んで、なんども礼をくりかえした。
「革命党の名を騙ったただの押し込みだ。捕縛されよ」
政府軍に告げるや、雄一郎はその場を離れた。
鄭壮志がなかに入って確認すると、四人の賊が土間に倒れて、声にならない悲鳴を上げていた。瞬時の間に一本の杖で、銃を持った四人を叩き伏せたのだ。じぶん自身、武術の心得のある鄭壮志だけに、雄一郎の手並に舌を巻いた。武術に関しては、これまでそぶりにもみせなかったからだ。これ以後、鄭壮志はいぜんにもまして雄一郎に傾倒した。
一方、社会情勢は日一日、悪化の状況をたどっている。
そうしたなかでも民衆は生きつづけなければならない。子を育て、親を扶け、家を守らなければならないのだ。十人、二十人の病は治せても、ひとつの村、ひとつの町を戦火から守り、人々の生活を維持して行くことは容易なことではない。
無力を実感し鄭壮志が頭を抱えたとき、雄一郎は静かに諭した。
「わたしの名は福地だが、わたしを信じろとはいいません。洞天福地を信じてください。信ずればかならず報われます。いつの日かじぶんたちの住む地域が洞天福地にかわる。ひたすら信じましょう。そして実現に向かって努めましょう。じぶんひとりの力には限りがあっても、生涯に百人の人を救うことは可能です。百人を救い、その百人がまた百人を救えば、一万人が救われます。その一万人が動けば大きな力になります。諦めてしまえば、たったひとりの人も救うことはできません。まずひとりからはじめる。毎日そう思って行動すれば、悩んでいる暇などなくなります」
そういって雄一郎は微笑んでみせた。またこうもいったという。
「あなたたち三合会も、おなじ考えではありませんか。三合とは、前身である天地会の天・地・人、三者の合一を表したもの、あるいはこの広東の大地をあまねく潤す河川、東江・西江・北江の三江が合流し、珠江となって南海に注ぐ、だから三合会と名づけたとも、名前の由来を聞いております。人と人がお互いに助け合って、地域のため国のために力を尽くせば、いつの日か願いごとはかならず達成できます。けっして諦めず、信じつづけることが大切なのです」
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