第十五章 恵州事件


「どうです、思い出は甦りましたか」

 数日して、王くんが訪ねてきた。わたしは笑顔でかれを迎えた。

「ああ、すっかり思い出した。ふだん忘れていた婆まで出てきたのにはびっくりした。すごい効き目だ。こんどはおやじのことを思い出してみたい。もう一錠あったらぜひほしい」

 王くんはわたしに向かって深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。そのひとことをいただいただけで報われます。じつはこの回憶丸はすでに市販されています。特殊なルートを通じての通信販売ですから一般にはほとんど知られていませんが、好事家のあいだではけっこう評判になっているのです」

「へえ、それは知らなかった。それじゃ買わせてもらうよ。どうすればいいんだい」

 すると王くんはいつになく厳かな顔つきで、こうのたもうたものだ。

「福地先生だから申しますが、これは秘密です。けっしてほかではいわないでください。ほかに漏れるとたいへんな騒ぎになりますから」

「おいおい、王くん、いったいどうしたんだ。わたしが回憶丸を買うと、なにか大事件でも起こるというのかい。それとも不法な通信販売なのかい」

 わたしはわけが分からず、つい王くんを問詰する口調になった。

「そうじゃありません。買うも買わないもありません。福地先生はもう回憶丸の世話にならなくてもいいんです。回憶丸を飲まなくても、あることを思い出そうとすれば、念ずるだけでじゅうぶんに思い出せます。行こうと思えば時間や空間を飛び越えて、どこへでも自由自在に行くことができるのです」

 ぞくっと、背筋が冷えた。

「きみ、それって、いったい――」

「そうです。福地先生はすでに、生きながらにして尸解仙しかいせんになったのです。ふつうと違い、生きた肉体から魂が自由に抜け出しまたもとに戻るという簡易変則型の尸解仙ですから、他人の肉体を借りて再生・復活するというわけには行きませんが、ご自身の肉体が滅びない限り、過去・現在・未来、時空を超えて自在に飛翔し帰来することができます」

「あの羅浮山で岩のうえで寝ているあいだに、そうなったというのかい」

「そうです。もうお気づきでしょうが、あのとき浮遊していたのは先生の魂です。先生が動いてもほかの人の目には見えません。生身の肉体から魂を遊離させるには、行きたい場所や逢いたい人を一心に念じれば叶えられます。ただし、それをまたもとへもどして結合させるには、気の遠くなるようなエネルギーを消耗します。訓練と体力が必要ですからそうたびたび行なってはなりません。じっくり時間をかけてトレーニングしましょう。今回は回復するまで二日かかりました。ですから直行バスで広州までお帰りになったのは三日目の朝のことでした。ご自身で日常の行動はできても記憶に定着しなかったので、まったく覚えていなかったのです」

 王くんはとうぜんのことのように淡々として説明した。

 一方、わたしの頭は混乱していた。

「王くん。もしかしてきみは?」

「そのとおりです。わたしも尸解仙です」

「なぜ、その仲間にわたしを選んだのかね」

「ご縁があったからです」

「縁、とは?」

「夢でお父上に、訊ねてみてください」


 わたしの記憶のなかにあるおやじ像は、北海道の旭川に移ってからのものだった。指折り数えても、いっしょにいたのは十一年間でしかない。

 酒好きのおやじだった。記憶のなかのおやじは、いつも飲んだくれていた。そのくせ、家のなかで飲んでいる風景はまったく浮かんでこない。外で飲んでは、酔っ払って帰ってくるといった態だったのだろう。毎晩タクシーで帰ってきた。

 浪曲師広沢虎造の全盛期だった。酔いにまかせては清水の次郎長、石松金毘羅こんぴら代参をひとくさりうなってから、玄関だろうが、板の間だろうが、大鼾おおいびきをかいて寝てしまった。おふくろが布団や褞袍どてらをかけてやっていた。

 素面のときのおやじは、静かで口数が少なかった。小言を食らった覚えがない。

 わたしは高校のころから隠れて酒を飲みはじめていた。サッカークラブの友人を呼んで、いっしょに酒盛りをしたのが、酔ったはじめだった。このときは下の姉に見つかったが、内緒にしてくれた。クラブでは合宿や試合後の打ち上げで、平気で飲んでいた。許されることかどうかはべつにして、まだそんな時代だった、と弁明しておく。

「将来、なにをやりたい」

 たったいちどだけだったが、おやじから聞かれたことがある。

「べつに――」

 と無関心を装ったが、口がさきに動いた。

「シンガポールへ出て、貿易をやりたい」

 じぶんでも思いがけない発言だった。しかしおやじはまともに反応した。

「なんでシンガポールなんだ」

「東南アジア貿易の中心だと聞いたから」

「そうか、東南アジアで商売したいか」

 ほんとうのことをいえば、中国へ行きたかった。しかし当時の中国は外国人がかってに行ける場所ではなかった。おやじとの会話は、そこで途切れた。


 大学へ行くのに上京したきり、いちども帰郷しなかったから、おやじと酒を飲んだ記憶はない。おやじが亡くなったときは、まだ大学生のころだった。

 二日酔いで、布団をかぶって昼まで寝ていた。電報で、叩き起こされた。

「チチキトク、スグカエレ」

 そのころ一家は北陸の田舎へ戻っていた。そのまま出発していれば、死に目に会えたかもしれない。亡くなったのは、その日の真夜中だったからだ。

 しかし、わたしはふたたび布団を引っかぶって寝てしまった。


 夢を見ていた。夢のなかで、わたしはおやじと酒を酌み交わしていた。

「どうだ、もういっぱい」

 一升瓶をあいだに挟んで、静かに冷や酒を飲んでいた。

「からだはだいじょうぶか」

 おやじは内臓悪化で入院していた。

「良くもならんが、これいじょう悪くはならん」

「そうか」

 わたしにはどうにもならなかった。黙っていっぱい注ぎ返した。

「これからなにをやりたい」

 おやじが訊ねた。どこかで聞いたことのある科白セリフだと思った。

 こどものころの夢はとうのむかしに消えうせていた。学校をでたら、どこぞの会社の勤め人(サラリーマン)になるしかなかった。わたしは返事のかわりに湯飲みの酒をあおった。 

 おやじもいっしょになって飲み干した。無言の乾杯だった。

 おやじが、ポツリとつぶやくようにいった。

中国シナへ行ってこい。中国の南に羅浮山という山がある。その山の中腹に爺さんの骨が眠っている。掘り起こして供養してやれ。墓をつくって葬ってやれ」

 母方の爺はすでに田舎で亡くなっている。父方の爺さんかひい爺さんのことだろうか。

「どんな人だ。中国でなにをやっていたんだ」

「ほとんど無名だったが、偉い人だった。福地雄一郎という。中国で売薬をやっていた」

「バイヤク?」

 とっさのことで、連想がきかなかった。

 そんなわたしにかまわず、おやじは話しをつづけた。

「孫文の辛亥しんがい革命は有名だから知っておろうが、その十一年まえのことまでは知らんだろう。いわば孫文の革命戦争のさきがけとなる事件が起こった。恵州事件あるいは恵州起義といわれている。そのとき日本人としてただひとり加わり、清国軍と戦った男に山田良政という壮士がいた。その人を助けるために、爺さんは争いの渦中に飛び込んだ」


 夢の連鎖、とでも表現したらいいのだろうか。おやじとの夢のなかで提起された新しい話題が、おやじの語りでべつの夢に引き継がれたのだ。

 おやじとふたり、酒を酌み交わしながら、夢のなかでもうひとつの夢を、いつ果てるともなく、見ることになった。

 おやじは酔いが回ってきたらしい。はじめつぶやくような語りが、しだいに広沢虎造の浪花節語りに似通ってきた。ぺペンペンペン、三味線がはいる。

「話かわって、時代はさらにさかのぼること、七十年――」


 一九〇〇年、北で拳匪けんぴ事件が頻発した同じ年、南では恵州事件が勃発した。拳匪とは、当初、山東省で起こった反カトリック教会闘争を主導し清国官兵と戦った主体が、大刀会(神拳)や義和拳と呼ばれる宗教的武術団体であったところから、付けられた名だ。のちに両団体は合流し「義和団」となり、北京・天津など華北一帯で列強諸国排斥の暴力的抵抗活動を展開する。結果は、八ヶ国連合軍約二万による北京侵攻であり、多額の賠償金を要求されることになった。

 このとき日本は公使館区域を守るために、柴五郎中佐ひきいる一万人の将兵を出動させたが、果敢な行動と規律ある統率で各国の賞賛を浴びた。

 一方、深圳をはさみ香港に近接する広東省の恵州では、清朝打倒の革命を目指す孫文が、秘密結社三合会の鄭士良に働きかけ、挙兵をうながした。

 これが辛亥革命のさきがけとなる恵州事件あるいは恵州起義だ。この蜂起のさい、のちに中国国民党の党旗となる「晴天白日旗」が作られ、華南の大地に翩翻へんぽんとひるがえった。宮崎滔天とうてんをはじめとする多くの日本人が孫文に共鳴し、革命を支援した。山田良政もそのひとりだった。かれは日本人としてはじめて、中国革命の犠牲者となった。


「恵州のこと了りてのち数月。革命敗軍の将鄭弼臣ていひつしん君逃れ来る。胡服を脱して洋服を着け、辮髪を絶ちて散髪となるところ、あたかも別人を見るが如し。じつに人をして感慨に堪えざらしむ。かれまた一悲報を伝えて曰く、革命軍の恵州城に迫るや、日本の同志山田君来たり投じてこれを助く。而して軍を三州田さんしゅうでんに返さんとするに及んで、その踪跡を失す。じつに関心に堪えざるものありと、爾来二星霜、ようとして消息の聞くべきものなし。じつに人をして憂慮に堪えざらしむ。かれ支那に遊ぶこと多年、よくその事情形勢をつまびらかにす。性、温良にして寡言。志高遠にして熱切。恵州の事あるに及んで独り上海より馳せてこれに投ぜり。もってその志と気とを見るべきなり。かれそれいかなる天地に逍遥しつつあるか。願わくば健在なれ」


 革命の夢敗れ日本へ帰った宮崎滔天が、のちに自著『三十三年の夢』のなかで、「嗚呼半生夢覚めて落花を懐う」と往事を懐旧している。

「悟り来たればすべて夢なり。悟らざるもまた夢なり。夢の世に夢を逐うて、また更に新たなる夢に入る。唱わん哉、落花の歌。奏せん哉、落花の曲。武蔵野の花も折りたし、それかとて、嗚呼それかとて・・・・」


 恵州蜂起に先立ち、孫文は日本の援助で資金・武器・弾薬を調達しようとした。滔天ら日本の民間の有志がこれを支援した。台湾総督府民政長官後藤新平との交渉の使者に立ったのが山田良政だった。南京から上海へと拠点を移した同文書院の教授を辞して、台湾へ赴いたのだ。交渉は成立し、台湾総督児玉源太郎は武器弾薬の供与を約した。孫文は恵州蜂起を決意し、指示した。しかし約束した武器弾薬は革命軍に届かなかった。日本側が違背したのだ。たまたまこの時期、内閣が交代し、中国革命への積極介入から内政不干渉へと政策転換した。革命軍にたいする裏切り行為に違いなかった。

 これを恥じた良政は単身、革命軍に身を投じたのだ。しかし戦い利あらず、兵站の途を閉ざされた革命軍はしだいに劣勢を余儀なくされ、ついには清軍に撃破される。

 戦い敗れた良政は捕虜となり処刑された。あくまで身分を明かさず、中国人一兵卒として死に臨んだという。

 この一部始終に立ち会ったのが福地雄一郎だった。


「山田さん、山田さんではないか」

 鄭士良の恵州攻略の軍中で、良政は声をかけられた。

「おう、おぬしは福地くんではないか。ここで会おうとは思いもしなかった」

「わたしもそう思いますが、山田さん、ここは危険です。早く立ち退かれたほうがよい」

「いや、わしはこの戦で死ぬつもりだから、かまわんでくれ。それより、きみこそなんでここにいる。早く逃げたまえ」

 ふたりは津軽・南京・上海と、いたるところで旧知の仲だった。

「わたしの稼業は売薬だ。戦場だろうが墓場だろうが、薬が必要ならどこへでも行く」

「それにしても恵州でとは奇遇だな」

「この近くにある羅浮山で漢方薬剤を調達していたら日本人の噂を聞いたので、お役に立てるかもと思って出向いてきました。戦は不利です。無理は避けたほうがいい。いっしょに羅浮山に避難してください。羅浮山は清軍も容易に踏み込めない、天然の要塞です。ここはひとまず逃げ落ちて、羅浮山で再起を期してください」

 戦のさなかだった。ふたりは中国語で会話している。

「福地くん、悔しいではないか。日本政府が裏切った。中国人に面子が立たんのだよ。たとえわしひとりでもいい。革命軍のために、戦で暴れて死んでやろうと決意した。腹を切るかわりだ」

 良政は憤りのあまり、涙を流した。


「爺さんは良政の意気に感じ、そのあとも行をともにしたという。良政を死なせたくなかったからだ。なんとか翻意させ、羅浮山で逃げ延びてもらいたかった。しかし良政の意思は堅かった。清軍に捕まり、尋問されても中国人で押し通し、従容として死に就いた。のちに爺さんは形見にあずかった良政の遺髪を、弟の山田順三郎に手渡したという。順三郎もまた孫文を助けて中国革命に尽くしたひとりだ」


 弘前の山田家菩提寺・貞唱寺に良政の碑が立っている。碑文は孫文の手蹟だ。

「山田良政先生は弘前の人なり。庚子こうしうるう八月、革命軍恵州に起つ。君身を挺して義に赴き、ついに戦死す。鳴呼其人道の犠牲、亜州の先覚たり。身は湮滅いんめつすといえども、しかも其志は朽ちず」


 ――エイエイ、オウ

 ときの声で目が覚めた。真夜中だった。おやじが田舎で息を引き取った時刻だったらしい。

 おやじのいまわのひとことは、「オウ」だったという。

 喉に引っかかるように「オウッ」といってこときれたそうな。


 革命の夢破れ、浪曲師桃中軒牛衛門を名乗った宮崎滔天は、「幡随院長兵衛」のひとふしを浪花節で語った。

「親分頼む頼むの声さヘかけりゃ、人の難儀をよそに見ぬてふ男伊達、人にゃほめられ女にゃ好かれ、江戸で名を売る長兵衛でござる」

 滔天の浪花節が、おやじの虎造節「石松金毘羅代参」にかぶさる。

「江戸っ子だってねえ」

「神田の生まれよ」

「喰いねえ喰いねえ、寿司喰いねえ。飲みねえ飲みねえ、酒飲みねえ――」

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