第十四章 回憶丸
気がつくと自宅のベッドのうえにいた。腕時計は止まっていた。
身を乗り出してカレンダーの日付を確認した。日めくりは出かけた日のままだった。携帯電話は充電不足で切れていた。固定電話で梁小姐に日付を訊ねた。三日経っていた。羅浮山の山中からここまで、どこをどうやって帰ってきたものか、まったく記憶がなかった。
夕方近くになって王くんが顔を見せた。さすがに、まずわたしの容態を気遣ってくれた。
「どこも具合の悪いところはありませんよね」
「何日寝ていたものか、寝すぎで頭がボーとしている以外はだいじょうぶだが、いったいいつ帰ったのか、記憶がまったくない。きみが連れ帰ってきてくれたのかい」
「いえ、ぼくはいま帰ってきたところですから。福地先生はあの翌日、ご自身で帰られましたよ。ぼくが長距離のバス停まで、お連れしましたが」
「ふうん、そうだったかい」
それでもまだわたしには納得いかなかった。
むかしから泥酔しても家にはもどる習性があった。といっても日本にいたころの話だ。中国では外で泥酔するわけには行かない。
二日酔いの翌朝、よく女房にこぼされたものだ。
「酔っ払ってわけが分からなくなるまえに帰ってくるか、いっそどこかホテルで泊まってきてください。真夜中に、おれのうちはどこだ、女房出てこい、などと怒鳴られては、ご近所に迷惑だし、恥ずかしいでしょ。第一、車に撥ねられたり、引ったくりにあったりしたらどうするんです」
ごもっともではあるが、身も蓋もないご指摘だ。わたしはひたすら小さくなって、ただただ目のまえの嵐が吹き去るのを待つばかりだった。もっともそういう日に限って、迎え酒という絶好の妙薬があり、同僚から誘われるまま、あるいは自ら欲して、酔生夢死の世界にふたたび身をゆだねるのがつねだった。そんなことが何回かつづくとさすがに愛想尽かしされ、ついには女房から三下り半を突きつけられる破目になった。あいにくかすがいとなるべき子もなく、稼いだ金はすっかり女房に渡してあったから、なんのトラブルもなく離婚した。もはや日本に未練はない。わたしはふたたび大陸にわたった。一時帰国以外、二度と戻ることはない。すでに中国で永住することを覚悟していた。
五十にして天命を知る。わたしが広州へ出てきた年だ。
かくいうノーテンキなわたしだが、まったく無神経というわけでもない。ひとつだけ、人並みに気がかりに思うことが残っていた。
三十年まえ、はじめわたしは北京に住んだが、まだ正規の長期滞在ビザの取得が難しい時代で、かってに長期の滞在は許されなかった。そこで奥の手を使うことにした。結婚後まもなく二年留学した女房を拝み倒して、留学を終えた先の大学で日本語教師をやってもらい、大学から長期の就労ビザを出してもらったのである。本人も中国が気に入り異存がなかったから、お互いの便宜が合致した。わたしはといえば家族の滞在ビザで、大学の構内にある専家楼(ゲストハウス)のなかの女房の部屋に転がり込むかたちだった。さしずめヒモか厄介者の態だった。
改革開放がはじまって間もないころで、自由業に近いわたしのような存在はめずらしかった。開放といってもすべて開放されているわけではなく、水面下では昔ながらの厳しい拘束が残され、暗黙の了解のもと表面的な自由で満足するほかなかった。
商社や銀行、大手のメーカーなどが真っ先に進出してきてはいたが、活動はつねに規制され、少しでも目立つ行動をとると、尾行がついて証拠を押さえられ、退去勧告されることもあった。その希少価値的存在のわたしは、その間隙を利用して、文字どおりのニッチ分野に食い込もうと目論んだのだった。
戦前なら、その手の日本人はいくらでもいた。戦後も高張り提灯を持つ新中国の共鳴者はいくらもいて、かれらが健在なら、新入りの出る幕はないとよくいわれた。それが、文革の崩壊から改革開放の潮流のなかで、きれいさっぱり洗い流され、わたしのような中間世代がほとんど姿を消してしまっていたのだ。
日本からの中小企業の工場や駐在事務所の進出ブームは、まださきのことになる。
十年先をにらんで、中国に注目する企業が、虎視眈々、乗り込む機会を窺っていた。中国もまた経済特区についで、沿岸地域の経済開放に乗り出していた。そのころのわたしは、大連から海南島まで、月の半分は北京を離れて沿岸各地を走り回っていた。
女房は女房で、教師のかたわら京劇に入れ込み、稽古に観劇に大忙しの日々を送っていた。単調な歌謡曲なら一、二回聞いただけで覚えられるという音感と、難解な古文調の京劇の歌詞を諳んじることのできる記憶力はかなりのもので、さすがの北京人ですら脱帽するほどの特技といえた。歌唱力も群を抜いていた。家で発声練習しているとき、女房が高音でうなると、窓ガラスがビリビリ音を立てて振動したものだ。
劇場や劇団は市内の中心にあり、住まうのは市郊外の大学街、自転車で片道ほぼ一時間の距離だ。劇場の開演時間は遅いから終演時間も遅い。バスはとうに終っている。大学の車が使えるときはいいが、そうでなければ自転車で往復することになる。
わたしも何回か付き合ったが、坂らしい坂がなく、車道がだだっ広い北京の路は、天気さえよければ絶好のサイクリング・ロードだ。まだ車も少なく、夜でもほとんど街灯のない時代だった。自転車にもライトはついていない。真っ暗闇のなか、ほおを風で切って自転車を走らせるあの快適さは、いまとなってはほとんどユートピアの世界に思える。
ただし、冬のさなか、あるいは土砂降りのなかの一時間はつらい。
ことに厳冬期は凄まじい。厚手のズボンや重ねたズボン下を通して、寒気が脚の肌を刺すのだ。マスクをしないと鼻が曲がるくらいの痛さを感じる。北海道育ちのわたしにして、かなりハードなものがある。豪雨のなか、自転車で一時間走ると、びしょ濡れはびしょ濡れだが、からだの芯まで冷水に打たれた感じがする。真夏ならいざ知らず、季節によってはこれもつらい。それを女房はこなすのだ。
秋口、雨の降りつづくなか、女房は三日連続で自転車観劇を敢行し、四日目に熱を出したことがある。午前中、受け持ちの講義があり、朝から出かけようとしたので、さすがに引きとめ往診を依頼した。二日間、おとなしく寝ていたが、翌日の夕方、切符があるからと、また出かけようとした。
「やめとけ」と反対したが、どうしても見たい演目だというので、大学の車を頼み、わたしも同行することにした。
演目は、「
力は山を抜き 気は世を
時に利あらず
骓逝かざるを
京劇、わたしもけっして嫌いなほうではない。のめり込むほどの
その天候不順時の自転車観劇が原因だったとはいわないが、北京にいたその時代に、女房はいちど流産していた。
朝方、腹を抱えてうなりだしたので、急いで病院へ駆け込んだ。開門まえから長蛇の列だ。電話で知り合いを呼び、外来救急の手配を頼んだ。外国人病棟に入院し、手当てを受けた。胎児はすでに腹のなかで死んでいた。三ヶ月だったという。
「ごめんね」
病室に入ったわたしから目をそらし、女房はつぶやくようにいった。涙ぐんでいた。
翌日、わたしはひとり帰国した。仕事の予定が入っていたのだ。
「いいのか。行くのをやめてもいいんだぞ」
「ありがとう。でも、いいから日本へ行ってきてください」
つねになくしおらしく見えた。
女房は活発な
――感傷に溺れる暇があったら、好きに仕事をして。
そういわれている気がした。じじつ、わたしは仕事に熱中していた。中国の改革開放期は、無手勝流のわたしを、無条件で受け入れてくれた。アイデアがつぎつぎに沸き起こり、手がけた仕事はことごとく当たった。当時のわたしは煉金術の存在を信じ、じぶんが煉金術師でもあるかのような錯覚に陥っていた。
もどったとき、女房はさっぱりした顔つきになっていた。
「どうした?」
開口一番、わたしは訊ねた。処置をきめずに行ったのだった。
「病院に頼んで処分してもらった」
女房はあっさりと答えた。わたしは顔をそむけた。
「
女の子だったのか。そのときほど女房をいとおしく思ったことはない。
水子供養もなにも考えなかった。ただ、わたしの心のなかだけで悼み、鎮魂すればそれでよい。いまでもときおり思い出すことがある。そのときどき、華子は歳なりに育っていってくれている。
――はたしてそれでよかったのだろうか。
気がかりというのは、そのことだった。
中国の北に大地震があった年、政府の要人があいついで亡くなった。後ろ盾を失って失脚するものがあれば、
中国の人々はまだ素朴で、謙虚だった。恐れを知っており、分をわきまえていた。日本人はその対極に立っていた。恐れを知らない倣岸な態度で、あたりを睥睨していたものだ。当時の自分が、そうでなかったとは、けっしていい切れなかった。
八十年代末尾、六月四日の天安門事件で、状況は一変した。世界中が中国への援助、投資から手をひいたのだ。当て込んでいたいくつもの国際入札が、すべてご破算になった。わたしの煉金術は、遠き雲間に霞となって消し飛んでしまった。
「瞑想工房での話しは覚えておられますね」
二、三十年ぶりの追憶は、王くんのひとことでふたたび闇の世界に閉ざされた。
「漢方ビジネスのことだね。よく覚えているよ」
羅浮山の瞑想工房のなかで、王くんが新薬を手にして処方と効能を説明してくれた、その記憶はある。
「あのときわたしは、きみからもらった丸薬を飲んだのだろうか、それとも、まだ――」
いいかけたまま、わたしはふたたび夢ともうつつともつかぬ世界に引きこまれていた。
わたしは北海道育ちだが、生まれは北陸だ。小学一年のとき旭川へ移ったので、こどものころの思い出といえば旭川のほうに軍配が上がる。思い出そうと思えばいくらでも思い出せるから、回憶丸の世話になるまでもない。
貴重な実験薬だ。わたしはあえて北陸の田舎を選び、そこでの生活を懐古してみようとした。六十年まえの世界を引き出そうと目を閉じ、静かに想念を集中した。
一瞬、音と光が遮断された。わたしは真っ暗闇のなか、奈落のそこへ転げ落ちていった。叫び声は出しても聞こえず、目を開けてもなにも見えなかった。いつのまにかわたしは空中を浮遊していた。やがて、想念の世界にも、音と光が甦った。
田舎の町に鉄道が敷かれた。田んぼの真ん中を二両連結のジーゼル列車が走った。こどもたちは喚声を上げて、列車のあとを追った。いちばん遠くのほうまで走った子が勝ちだった。年長の子にはかなわなかった。年長の子がおとなに見えた。
秋になるとたわわに実った稲穂が風にそよぎ、立山連峰の麓は黄金色に耀いた。野菜も果物も豊富にあった。畑や林のなか、いや庭にだって栗や柿やイチジクの木があったから、好きなだけもぎ取って食べることができた。
現金が必要なのは、紙芝居の酢昆布代だけだった。世の中は金ヘン景気に沸いていた。道ばたに落ちている釘や針金を拾ってきて中学生の元締めにわたすだけで、一回分の紙芝居代になった。銅線をまとめると映画館に行けた。こどもたちは歩いているときも、地面から目を離さなかった。
おふくろは一日中、針仕事をしていた。朝から晩まで仕立て台のまえに正座し、和服を縫っていた。かけっぱなしのラジオがときおりうなったり、ピーピーいったりしても、知らん顔をして、けっして手を休めなかった。食事のときと、裏の畑の世話で坐を立つ以外、おふくろは指定席から離れなかった。
あるとき山火事があった。隣の村の山が燃えたのだ。朝方のはじめは紅い点にしか見えなかったが、炎はどんどん広がり、昼を回るころには、ばちばちと樹木の燃えて弾ける音が近くに聞こえ、熱を帯びた風が火の粉とともに吹き込んできた。呉服屋から高価な反物をあずかっている。おふくろは反物をかかえて呉服屋へかえし、
――早くおとなにならなければ。
いちばんチビのわたしは殊勝にも、思ったことだった。
終戦後、三年ものあいだ樺太に抑留されたおやじと長女の婿、それに長男の兄の三人は抑留を解かれたあとも、そろって北海道にいて、不在だった。
火事は翌朝になって消し止められたが、これを機会に、おやじを頼って一家は北海道へ移ることになった。
津軽海峡をわたる連絡船に乗るまえ、真っ白になるまでDDTを振りかけられた。白髪頭の集団は連絡船の畳の上席をあらそって、港の乗船通路を駆け走った。
旭川の雪は、北陸ほど深くは積もらなかったが、いつまでも消えなかった。
おふくろの針仕事は旭川に行ってもつづいていた。季節のかわるつど、米と魚と果物が北陸からとどいていた。いまと違い米の味には天と地の差があった。北陸の米はうまかった。おかずがなくとも米だけで食べられるくらいに、うまかった。
北陸に絞ったはずの追憶は、いつのまにか引越し先の北海道に移っていた。はなしのつづきに引きずられたものか。
なんという映画だったか海洋映画の影響で、水中銃がはやった時代があった。いま思えば、きわめて危険な手製の銃だった。パチンコのゴムの弾性を利用して、木の棒の背にしつらえた
産卵のため、まだ石狩川に鮭が遡ってきていた時代のことだ。こどもらは手に手に水中銃を持ち、映画の主人公よろしく石狩川の川辺へ殺到した。鮭が群れをなして遡ってくる。銛をぶっ放す。おもしろいように鮭が引き揚げられた。
水中銃は、まもなく学校で禁止になった。路面電車が脱線する事故が頻発し、警察が出動する騒ぎになったからだ。
われわれの手製銃はことごとく没収された。
北海道では冬、長靴を履く。こどもらは雪のなか、足切りチャンバラで合戦をした。細長い竹の棒を持って、長靴を切りあうのだ。多少力を込めても、長靴と厚手の靴下が保護してくれるから、けがをすることはない。その週に観た上映映画をまねて、たとえば白鳥党と
「みたか
おふくろが唄をうたい、声を出して笑うのをはじめて聞いたのは、北陸の田舎でのことだった。爺が亡くなった。中学生のわたしだけを連れて、おふくろが弔いに帰った。
葬式が終わり、集まった人々はそれぞれ去った。翌日、婆ひとりが残された。外で遊んで帰ってみると、居間でコタツにくるまりながら談笑する声が聞こえた。
婆をかこんで、おふくろやら近所のおんな衆が、みかんの皮を剥いて食べながら、トランプをやっていた。ときおり喚声が聞こえる。話の様子ではどうも婆抜きをやっているらしい。ジョーカーを引くたび、引いたほうも引かれたほうも大騒ぎだった。
おふくろが婆からジョーカーを引いた。わっと叫んでおふくろも婆も笑いころげた。つられて仲間の婆どももいっしょになって笑いころげた。家中に喚声が轟いた。
「みんなして寂しさをこらえてたんだっちゃ」
覗きにきたとなりのおっちゃんが、つぶやいて帰っていった。
負けたものが歌を一曲うたうきまりらしい。涙を出して笑いころげていたおふくろが、眼をこすってなにか古い唄をうたいだした。婆の時代のはやり唄らしい。婆の手拍子でみんなが唱和した。そんな光景を、わたしは部屋の隅でぼんやりとながめていた。
婆はそれからまもなく九十五歳で亡くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます