第十三章 瞑想工房


 王くんはさきに立ってどんどん歩きだした。はじめのうちこそまだしも道があったから、衰えたとはいえ山歩きで半年鍛えたわたしのにわか健脚は、かろうじて王くんのあとについていけた。それが登るにつれ、しだいに道がなくなってきたのだ。下草を踏みつけ、竹やぶを掻きわけ、顔にかかる木枝を払いのけて、ひたすら進むころには、うつむきかげんで王くんの足もとを追うだけになっていた。

 二時間も歩いただろうか。森林が切れ、翳っていた日が天上に甦った。視界が一気にひらけたのだ。とつぜん王くんは立ち止り、振り返った。

「福地先生、見えますか。あそこがぼくの製薬工房です」

 指差した前方には大きな岩盤が屹立し、そのかたわらに小さな茅葺き小屋がうずくまっていた。文字どおりほうほうの態で、這うようにして岩壁をよじ登った。さきに着いた王くんがうえから手を差し伸べてくれた。

 岩盤のうえに立つと、はるか遠方まで森林に覆われた山々が波打って見える。背後もまた天までとどけとばかりに切りたった懸崖だ。深遠なる羅浮山のど真ん中にあたる。

「これはいい!」

 わたしは岩の上に大の字になって寝そべった。王くんもそれとなく、となりへ腰を下ろした。わたしの頭の上に立って見おろすようなことはけっしてしない。見上げた男だ。

「ここへ来ると、天上界にいるような気になるから不思議です」

 王くんがポツリと漏らしたひとことを子守唄替わりに、もうわたしは寝息を立てていた。きょうは昼間から歩き詰めでずいぶん疲れている。はじめてきた場所にかかわらず、百年もまえから親しんできた岩場に思える。王くんに見守られ、恐れるものはなにもない。

 清らかな空気と大自然にかこまれた空と陸とのあいだに寝そべって、悠々と疲れを癒すことができる。いつのまにかわたしは、じぶんの寝息を聞いているじぶんに気がついた。

 ――はて、なんだろう、これは?

 さきに岩場を下りた王くんが、手を振って茅葺き小屋へいざなった。

 わたしは、寝ているもうひとりのわたしにはかまわず、岩場から飛び降りた。しかし草むらに足はとどかず、ふわりと宙に浮いて、王くんのあとにしたがっていた。

 太陽は頭上にあるが、足もとに影はなかった。


 茅葺き小屋にはむしろが敷いてあり、粗末なベッドと作業台が目についた。作業台のうえに、古書と乾燥した草花やきのこ類、そして鉱物の欠けらが乱雑に積まれている。奥の厨房には大きなかまどがすえつけられてあり、窓が開け放たれている。竈は小屋の裏手にもみかけた。大小さまざまな形状の竈やかなえ背戸せどの一角を占めていたのだ。

「ここがぼくの製薬工房です。むかしは人が詰めて、煉丹の実践をやっていましたが、いまはもうだれもいません。かわりにときどきぼくが瞑想しに来ます。瞑想するだけで過去が甦り、新しい発想が生まれるのです。この小屋はなんどか建て直されましたが、葛洪が二十代ではじめて羅浮山にかまえた煉丹の庵のあとです。新たな製薬工房にするさい、例の三合会系の道士だった人たちに支援してもらったのです。小屋を建て直したり、竈を修復したり、薬草を集めたり、ずいぶん多くの人たちに協力していただきました。いまも薬草の栽培や採集で、お世話になっていることにかわりありません」

 いい終えると、王くんは古書を一冊手に取った。

「この本は葛洪の『抱朴子』ですが、このなかには葛洪のすべてが詰まっています。神仙のこと、金丹のこと、仙薬のこと、養生のことなどあらゆる項目が網羅されているのです。しかし大都会にいて、本の字面だけを追ってみても、なにも見えはしません。金丹はおろか、葛根湯さえ作れません。それがこの場所へきて、あらためて読みなおすと、変哲もないただの文章が動き出し、たちまち過去の現象を目のまえで再現し、煉丹の作業工程をみせてくれるのです。ぼくもはじめは実践にこだわり、じぶんで丹を煉る実験作業に熱中しました。しかしすべて失敗でした。原料の丹砂は希少で、しかも高価です。信頼されたスポンサーがなければ、とうていできることではありません。幸いなん人かの好意的なスポンサーに恵まれ、余裕をもってあたりましたが、それでも結果が出せません。仏の顔も三度といいます。失敗が重なると、スポンサーの尊いほとけがお仏頂面ぶっちょうづらになり、やがては悪鬼羅刹あっきらせつの形相にかわります。そんな体験をくりかえしているうち、あることに気づきました」

 王くんはわたしを見ていない。自問自答で回顧しているのだ。わたしは小屋の隅に浮かび、黙って王くんの回顧に耳を傾けている。

「葛洪は『抱朴子・極限篇』で、神農のことばを借りて、『百病癒えずんば、いずくんぞ長生を得んや』と断言しているのです。不老長生をいうまえに、常見病チャンチェンビン(日常よく見られるふつうの病気)を治さなければならない、といっているのです。秦の始皇帝と漢の武帝といえば、不死薬にこだわり、それを手に入れるためには惜しまず大金を投じた帝王ですが、ふたりとも結果は惨めでした。始皇帝は五十歳で亡くなりました。こどものころから病弱で、ぎゃくにその年までよくもったという説もあります。漢の武帝は西王母から成仙の極意を授けられたにかかわらず、『淫乱・殺伐を戒めよ』という戒律を守れず、地仙にすらなれませんでした。これはいったいなにを意味しているのか。金や権力をもってしても、不老長生は買えぬ。日ごろの養生が、健康のもとであり、なにより長生きの秘訣だと、あたりまえのことを教えているのではないか」

 王くんはわたしのほうに眼を向けた。しかしその視線はわたしを捉えていない。王くんにも浮遊するわたしは見えていないのだと感じた。

「このことを現代のぼくたちに置き換えると、どういうことになるか。ぼくは考えました。現代人で千年も万年も生きたいと思う人は、まずいないでしょう。でも平均寿命がずいぶん延びたので、百年くらいなら生きたいと思う人は、かなりいるはずです。ただそれも元気なればこそで、からだが動き、あたまが働くうちなら、という条件つきだと思います。元気に働き、楽しく遊び、美しく健康に生きる。持病があっても治療ができて、制限つきでも動けるなら、まあいい。人には体質というものがあるから杓子定規にはいかないが、太りすぎも痩せすぎも極端なのはいけない。倫理だ道徳だと聞き飽きた、たまには歳を忘れ、若いころに戻っておもいきり遊んでみたい。手術をしないで、美しくなる方法がないものか――人それぞれに目的は異なっても、生命や生活にともなう願望のない人はいないでしょう。薬膳・健康食品・ダイエット食品・抗がん剤・媚薬・精力剤・発毛促進剤・育毛剤・漢方美容美肌化粧品など、中草薬の処方を応用した漢方ビジネス。これをぼくは葛洪の『抱朴子』から学んだのです」

 そこまで話すと、王くんはバッグからある薬を取り出した。

「ここで漢方ビジネスの、ひとつの例を示します。これは特殊な中草薬で回憶丸かいおくがんといいます。人の記憶を蘇らせる丸薬です。この記憶というのは自分自身の体験でもいいし、願望や想像であってもかまいません。人から聞いた話、あるいは書物から得た知識もとうぜん含まれます。まったく記憶にないことは復元できませんが、断片的な記憶をいくつかあわせ、全体像に近づけることは可能です」

 小屋のなかで王くんが新薬を手にして処方と効能を説明してくれている。

 わたしは小屋の片すみに浮遊したまま、夢を見ているような雰囲気のなかで王くんのはなしを聞いていた。王くんのはなしは確かに伝わっている。しかしその声に音はなかった。音はなくとも、意思は通じているのだ。

「この回憶丸を飲むさいの注意です。記憶の対象を一点に集中させてください。人でもいいし、事件でもいいですが、あれもこれもではなく、ただ一点に記憶の対象を絞って集中させ、念じてください。思い出のなかにどっぷりと浸ってください。そして丸薬を口に含み、飲み込んでください」

 そのとき薬を手渡されて、飲んだのか飲まなかったのか、わたしに記憶はない。しかしその後、過去の思い出がひんぱんに蘇えるようになり、じぶん自身で驚いている。なかには、これまで知らなかった過去の事実さえ追体験できたから、なおのことだった。

 

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