第十一章 葛洪
約束した時期、八月になっても王くんは事務所に姿をみせず、連絡もなかった。
アポイントを外すなど、かつてないことだった。なにかあったのではないかと気にはなったが、わたしのほうから連絡する方法はなかった。かれは特定の固定電話も携帯電話も所持していなかった。あるいはわたしには知らされていなかった。たまに来るかれからの連絡は公衆電話かららしく、用件だけ手短に伝えるとすぐに切れた。住まいを訊ねても、広州市内だというだけではぐらかされていたから、住所も知らない。
――まあ、そのうちになにかいってくるだろう。
日時を明確に約束したわけではないので、深刻に考えるまでもなかろうと楽観し待つことにしたが、しばらくするとそのことさえも忘れてしまっていた。
なんと、読書に没頭したのだ。まえにも述べたが、朝の三、四時起床はすっかり定着し、日本語訳『史記』『抱朴子』にあわせ、中国語の『葛洪評伝』まで頭から読み出したものだ。中国語は学生時代いらいの勉強といえる。はじめのうちは、ほとんど一字ごとに辞書を引いたが、しだいに回数が減ってきた。『抱朴子』のほうも、訳本とはいえ漢文の読み下し調だ。そうとう読みづらいが、がまんして読んでいるうちに少しずつ慣れてきた。
わたしの読書スタイルは、一風かわっている。ベッドで寝転がって読む、なまくら流だ。読書にのめりこめた若いころなら、そのままの恰好でひと晩でもふた晩でも寝転がっていれたが、年とったいまではそうもいかぬ。五分もしないうちに寝入ってしまうのがオチで、十分もてば奇跡に近い。
そうした夢うつつのまにまに、それでも読み進み、三分の一もいったであろうか――
ある晩、夢にとつぜん葛洪があらわれ、わたしに語りかけたのだ。
中国語だ。いまの
久しいのう、お見忘れか。葛洪じゃ。抱朴子じゃよ。
それとも、はじめてじゃったかな。おぬしは、福地どのであろう?
いや、すでにどこかでお会いしているはずだが。あるいはわしの早合点で、お身内のどなたかと、見まちがえているのかも知れぬ。もしそうであれば、許されよ。
念のため、あらためて自己紹介させていただく。
姓は葛、名は洪、
老荘らの
若いころの号じゃ。我欲にとりつかれておったで、払いのけるにはそうとうな覚悟がいった。『抱朴子』は書名にも使うたが、三十五を越しても、欲はなくならん。形をかえて、さまざまな欲が生まれては消え、消えては生まれたものじゃ。
葛というこの姓については、かわっておるで、なじみは薄かろうが、あの諸葛亮、孔明の諸葛につながる一族だといえば、たいがいの人が了解しよう。本家より分家のほうがよほど有名になってしもうたが、諸葛氏の先祖はもともと葛姓じゃった。かれらが諸県(山東琅邪郡)から陽都(諸県の南西約百十キロ)へ移ったとき、そこにはすでに葛姓の一族が住んでいたため、これと区別して諸県の葛氏―諸葛と名乗ったのがはじまりだったと聞いておる。
またそれとはべつに秦朝末期、「王侯将相なんぞ種あらんや」の名言をはいて決起した農民蜂起の先駆者陳勝の配下に
陽都を根拠にしていたその本家の葛と諸葛の一族は、やがて「徐州の大虐殺」の難を逃れ、全国に離散することになる。その当時、陽都をふくむ琅邪は、蘭陵のある東海などとともに徐州に組み込まれていた。その徐州各地で数十万の男女が殺され、犬や鶏まで姿を消してしまうという凄まじい殺戮がおこなわれたためじゃ。
さよう、曹操めの仕業よ。陶謙という徐州の
曹操というのは「治世の能臣、乱世の奸雄」などと呼ばれ、若いときからとかく注目されておったが、いささか常軌を逸した激しい感情の持主だった。もっとも、わしが生まれる九十年もまえの話じゃで、直接会うたことはない。もし血気盛んな若いころに出会うておれば、一族の怨みを晴らすべく、わしも曹操に立ち向かっていたかもしれぬ。なんのわしとて若いころには、そのくらいの無謀な覇気を、持ち合わせておったわ。
わが祖師の
左慈というは、方技に通じた稀有な術士よ。天柱山(いまの安徽西南、長江の北約九十キロ)で修行し、占星術や
曹操が捕り手を総動員して捜索すると、羊に化けたり、変装したりして遁走する。せっかく捕まえて牢内に閉じ込めても、いつのまにか牢の外に抜け出しているといった具合で、所在・変化とも自由自在だ。牢の格子戸なぞかんたんにすり抜けられるし、壁ですら通り抜けることができる。あげくは切り殺しても、実は藁人形だったりして、
左慈はといえば、葛仙公といわれた弟子の葛玄に、
さんざっぱら曹操を翻弄したあげくに、仙人となって人界から姿を消したとあっては、文句のつけようもないし、追いかけようもない。まあ、おみごとといっておこうか。
――どこまで話したかな。いやいや、曹操のことになると、わしもつい興奮して、話の脈絡がつかなくなってしまう。話をもどす。一族離散のことじゃった。
孔明の一家でいうと、父親の諸葛
秦漢四百年の統一が瓦解し、中国がふたたび分裂と混乱の局面を迎えようとしていた時代だ。意図して分散したと思うてもらってよい。知れたこと、乱世に生き残りをかけた、一族の分立作戦よ。安閑としておったら、一族もろとも皆殺しにされかねん。そんな厳しい時代に、あえてみずからの激しい決意を示したわけだ。たとえ三国に分かれても、いずれか一国にひとつの血統を残せば、一族としての再起に賭けることができる。
当時、諸葛一族には優秀な人材が輩出し、世間ではかように喧伝されておった。
「蜀はその竜を得、呉はその虎を得、魏はその
魏にいった諸葛誕の評価がやや低いのは気の毒だが、他のふたりの人気・実力が傑出していたから、その分、割を食ってしまった。
ん? おぬし、なにかいいたそうな顔をしておるな。
「ならば葛一族はいかがしたか」、そう問いたいのであろう。
そうさなあ、歴史の表舞台は諸葛一族に譲り、われらは陰に徹した。その分、人に知られることもなく歴史の裏面に埋もれてしまったが、まれに事実が世間に甦ることもある。ま、いまはそれだけいうにとどめておこう。
世もだいぶ更けてきたようだが、腹は空いておらぬかな。
なんの遠慮はご無用。いけるくちであろう。
わしか。適当にやっておるで、わしがことは気にせずとよい。
竹葉は中国語で
夢で酒を勧められ、飲むまえに目が覚めた。せめてひとくち飲んでおけばと悔やんでもあとの祭りだ。あれこれ言い訳を考えて、飲酒の正当化の理由捜しに没頭していた。禁酒の誓いが、どこかへふっとんでしまっていた。
その日を皮切りに、葛洪がたびたび夢に出てくるようになった。
夢のなかのわたしは、葛洪の古い友人らしい。
「たとえ夢であってもよい。こんど勧められたら、目が覚めるまえにぜったいに受けて飲んでやる」
その執念が、おなじ葛洪の夢を見つづけさせたのかも知れぬ。
わしの出自は丹陽
ところで、琅邪が神仙道発祥の地のひとつであることは、おぬしも聞いて知っておろう。神仙道、不老長生の神仙方術は、古くは、秦始皇帝の時代にさかのぼる。だとすれば、あるいはわが一族は、琅邪へ先祖帰りしたのかも知れぬ。
父葛
第三子じゃったでふたりの兄がおり、こどものころから見よう見まねで倣っていたから、覚えは早かった。数年を経ずして、たちまち兄の域を超えてしまった。じゃが、わしはそれだけに飽きたらず、こののち嶺南にまで赴き、南海太守
はじめて嶺南へまいったは二十四歳、まだ若かった。修行はきつかったが、向学心に燃え、煉丹術の追求に青春を賭けておった。
嶺南は、五嶺山脈の南、晋代には広州・交州といわれた広大な地域のことじゃ。南海郡から西へ、蒼梧郡・桂林郡など(いまの広東と広西の中北部)を広州と呼び、合浦郡(いまの広東
そんなわしをどう見込んだものか、鮑靚師がむすめ御をわしの嫁にくれた。
生まれた年は、あたかも晋の武帝司馬炎の十九年目にあたる。司馬炎はわしが八歳のときに亡くなったが、その翌年から十六年間大乱がつづき、その十年後に晋朝はいちど滅ぶ。
のちの歴史では、この王朝を西晋と呼んでいる。大乱は八王の乱だ。
大乱が収束した年、わしは二十四歳じゃったが、その四年まえ、わが師鄭隠が門人五十余名を引きつれ霍山に隠遁した。
鄭隠師は、齢八十を超えて、なお白髪は漆黒にかわり、面体は紅潤だった。強弩を引き、山を登る足先に乱れはなかった。日に百里を歩行し、いちどに二斗(いまの二升)の酒を飲んで酔わず、灯火で細字が書け、視力は少年に勝った。気力はまだ旺盛で、体力も充溢しておった。わしは霍山まで師を見送ったが、隠遁には参加しなかった。
若気のいたりというやつじゃ。乱世に背を向けて、人里離れた奥山にこもり、修行と称して命を永らえることが、未練なことのように思えたのだ。身を挺して大乱のなかに飛び込み、乱軍を征討することこそ世をただす
師は黙ってわしを許してくれた。そのころわしはまったく思いもしなかったのじゃ。鄭隠師が、方術士をたばねて天下の乱を収める人界の陰の総帥であったということを。
鄭隠師は入山にさいし、「江南は、遠からず
この年は、天災地変の多い年での。夏に昼間彗星が見え、異変を予告した。秋に黄河流域に大洪水が起こり、さらに地震の追い討ちにあった。
おりしも揚州一帯で、張昌の武将
しかし、戦が終れば官途に未練はない。生まれてこの方、本の虫だったこのわしが、いっとき槍を専らにし、本を手放したのだ。その反動は大きかった。戦が終るや、たちまち槍を放り出し、乾いた土が水を求めるように、夜昼かまわず、夢中になって万巻の書を読み漁った。珍本・
しかし時勢は、そんな個人の身勝手を、許してはくれなかった。天下大乱の兆しは、八王の乱後、百余年にわたる五胡十六国の興亡を経て、わしが尸解したのちの話しじゃが、ついに南北朝の分裂にまで拡大することになる。中国の分裂を収めるには、隋唐の統一まで待たねばならない。
中原は久しく留まる地にあらず。そう見てとったわしは八王の乱収束の年、広州刺史
しかし数年も経ぬうちに嵇含刺史は害に遭う。寄る辺を失ったわしは、やむなく郷里丹陽へたち返らざるを得なかった。
家郷で隠棲しておった二十年間、暇をもてあますということはまったくなかった。煉丹術と薬物学の研究に没頭しておったでな。この間、朝廷からは出仕せよとの催促がいくどもあったが、わしは肯んじなかった。じつは研究のかたわら家業に精を出していたで、とても忙しく、出仕に応じる暇などどこを探してもあるはずがなかったのじゃ。
家業は製薬と売薬といえば、お主も思い当るであろう。ことにわが家の
のち
わしは眷属郎党を同道し、ふたたび嶺南へ赴いた。最初に広州へ来たのは、二十四歳のときだったが、二度目はすでに四十八歳になっていた。任官は名目に過ぎなかったから、広州刺史の
羅浮山は古くは秦代すでに、方士鄭安期・李少君らの人々が訪れていることでも知られている。わしは
ここ羅浮山を
五十一歳を境に、わしの消息は世間から消える。
羅浮山に籠ったきり、世間とは隔絶してしまったで、無理もない。
妻の鮑姑とは始終、念波を
ともあれ、それから何十年後になるか、わしは尸解仙として肉体を離脱し、永遠の魂魄を得た。わしが思うには八十一歳のときじゃった。じぶんでも、そろそろ潮時かなと思案しておったで、迷いはなかった。決心して七夜目に、
鮑姑には、どちらがあとさきになるか分からぬが、あの世でもよろしく頼むといっておいた。もちろん無事に再会をはたし、いまもむかしとかわらず仲睦まじく暮らしておる。
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