第九章 抱朴子
「漢方ビジネスを学ぶのに最もすぐれたテキストは、『
「そうそう話がなかなかそこまでいかないから、じつはやきもきしていたんだ」
『抱朴子』はさいきんになって、わたしも読みはじめた。待ってましたとばかりに相槌を打ち、王くんの話に耳を傾けた。
「三世紀末から四世紀はじめにかけてというと、中国では魏蜀呉の三国志の時代はすでに終わり、西晋から東晋に移る時代です。朝鮮半島では高句麗が勃興する時期にあたりますが、では日本はというと、じつは歴史の空白期なのです。卑弥呼を継いだ倭の女王
いまから千七百年以上まえのことだ。高句麗広開土王や倭の五王の登場は、さらにもう少しあとになる。
「葛洪は後漢以来の名門の子に生まれましたが、十三歳で父を亡くし、貧窮のなか十六歳ではじめて『孝経』『論語』『易経』『詩経』や諸子百家の説を読んだといいます。読破した書はできるだけ暗証しようと努めたと『抱朴子』自序にあるくらいですから、努力家だったのでしょう。そのころから神仙思想に興味をもつようになりますが、それは葛玄とその弟子の鄭隠の影響があったからにちがいありません」
葛玄は葛洪の祖父のきょうだいで、父のおじにあたるから、大おじだ。かれは幻術師として有名な左慈の弟子だった。葛玄は左慈から煉丹法の秘伝を受けていて、それを弟子の鄭隠に相伝する。
葛洪は鄭隠に弟子入りし、廬江の馬迹山中で壇をつくって誓いをたててから、『太清丹経』『九鼎丹経』『金液丹経』と
「葛洪は師鄭隠を通じて大おじ葛玄の伝える煉丹術の秘方を学んだといわれています。ただ、それがどういったものなのかは、古書に記されたこと意外はよくわかっていません。抱朴子という号は、十八、九歳のこのころから名乗りはじめたようです。自分は素朴なものを好むのでこのように名乗ったという文章が、『抱朴子』の自序に記されています」
葛洪は多感な青年であったらしい。むさぼるように本を読んでいたかと思うと、ある日とつぜん書を剣にかえ、馬に乗って
二十歳のころ乱があり、江南が侵略されそうになったとき、葛洪は決然立って義軍を起こし、江南を救ったのだ。戦場でも有能だったらしい。
しかし結局は、書を棄てることができず、戦のあと、都中を駆けて読みたい本をさがしまわっている。その後、襄陽へ行き広州刺史となった
広州では、南海太守だった
「葛洪の探究心と行動力には、頭が下がる思いです。その時代、葛洪は『抱朴子』を書きはじめていますが、机上の空論に堕することなく、つねに実践をともなっています。『抱朴子』は煉丹術と仙人修行の実践テキストだといっていいでしょう。さまざまな丹薬の処方について具体的に書かれてあり、これらの丹薬を完成させて服用すれば、修行だけではおよばない不老長寿の境地にたどり着くことができるとしています。また一方で、凡人でも修行を重ねることによって仙人になれると励ましてくれています」
やがて王くんの説明は、葛洪の事跡を飛び越え、みずからが漢方ビジネスにかかわった経緯におよぶ。
「葛洪の書いた『抱朴子 仙薬』に、上薬以下、中薬、下薬など品種ごとに多種類の仙薬が列挙されています。形状、用い方、さらに具体的な薬効や霊験あらたかな実例が紹介されているのです。ぼくたちはこの本の記述をもとにああでもない、こうでもないといいあいながら、実験をくりかえし、試作を積み重ねてきました。過去の実践を現代のやり方におきかえて、研究開発してきたのです。その結果、再生に成功したものや、新たな開発にヒントを得たものなど、十分な手ごたえを感じた例は少なくありません」
漢方ビジネスにかかわるトラブルの発端がこの『抱朴子』にあるというのは、研究開発の過程で起こった仲間うちのトラブルのことらしい。秘方のすべてが書かれているわけではないが、少なくとも一千年以上におよぶ試行錯誤の結果が反映されている。
ビジネス化といっても研究開発が先行するから、一定の段階までは教育の期間が必要だし、共通のテキストにもとづくスタートなので、ヒントやアイデアも似通う。
共同研究のなかで、個人的な評価にこだわる人間が出てきた場合、その独創性を主張されるまえに、それまでにかかった経費の精算を優先したくもなる。実験に使う薬品材料も安いものではない。商業化の可能性が現実のものになりかけたさい、さまざまなトラブルが発生しがちなことは、容易に想像できる。思えば罪作りな書物ではある。
「ぼくは『抱朴子』のなかでも第十一巻仙薬の部分が好きで、こどものころからなんども読み返したものです。仙人に達しないまでも、不老長生の研究過程で、人間の持つさまざまな病気を治し、老化を克服するヒントがここに書かれているのではないかと思い、漢方ビジネスのアイデアにつなげられないか必死に考えました。たとえば
過去にあったであろう内部の人間関係のごたごたにはふれず、王くんは微笑さえ浮かべて、ゆっくりと鞄のなかから一冊の本を取り出し、わたしに見せてくれた。
それはぼろぼろにすりきれた古い『抱朴子』だった。
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