第七章 霊符
異変はつづいて起こった。
その日、山歩きから戻ったのは、朝の七時をすこし回ったころだ。住まい兼用のマンション事務所につき、入り口ドアのノブに手をかけ右に回すとドアが開いた。出かけるとき鍵をかけ忘れたらしい。近くへ用足しにゆくときなど、たまに忘れることがある。
――またやったか。
歳のせいとは思いたくなかったから深く考えず、二重ドアの内側のノブに手をかけようとしたとき、内側のドアの上に妙な紙が貼ってあるのに気がついた。短冊ふうの白い紙に、ミミズがのたうったような文字とも絵ともつかぬおかしなものが描かれてある。
――なんだ、このいたずら書きは?
ふと思ったが、それ以上気にとめなかった。
けさは空がすっきりときれいに晴れわたり、朝焼けが目にまぶしかった。アルコール断ちにも慣れ、からだが軽く感じられるくらいに体調もよかった。
――よし、きょうは山の上まで、たてに登ってやろう。
なだらかなマラソンコースとはまったく異なり、急坂だ。十メートルも行かないうちに、たちまち心臓が激しい鼓動を開始した。ひと脚ごとに、ひっしに息をつき酸素を補給する。汗が吹き出し滴り落ちる。坂道は石段だ。しだいに脚がもつれて転げそうになり、たまらず立ち止る。そんなことを四、五回もくりかえし、ようやく頂上にたどりついた。
小山とはいえ、頂上は頂上だ。市内を眼下に一望し、小さな征服感をかみしめつつ、反対側から山を下りる。
帰宅の戻り道で感じる疲労度は限界に近かった。思考回路のネジがひとつ抜け落ちていたにちがいない。脚を引きずるようにして戻ったさきのできごとだったが、意識に留めなかった。
シャワーを浴び、朝食をとるころには、すでに異変のことは忘れていた。
思い出させてくれたのは王くんだった。
午後、出先からの帰りしなにちょっと立ち寄った、という感じで王くんが顔をのぞかせた。そして事務所にはいるなり、ソファーの上に放り投げてあったいたずら書きを見て、素っ頓狂な声を出したのだ。
「わっ、これどうしたんですか。福地先生、これ霊符じゃないですか」
「ああ、それかね」
わたしはパソコンから目を離さず、レポートの文章を打ち込みながら、いきさつを話した。王くんの声がしだいにこわばってくるのが感じとれた。
「ほかに変なことはなかったですか。盗られたものとか、荒らされたものとかは」
出入り口のドアは二重扉だが、遠出するとき以外は外側しかロックしないことを王くんは知っていた。内側のドアの上に紙が貼られていたということは、故意に外側のドアを開けられたと見ていい。そうでなければ外側のドアの上に紙を貼ればすむことだ。外側のドアロックを忘れたか、あるいは侵入者に鍵をはずされたにちがいない。内側のドアはロックされていないから、事務所のなかまで入られた可能性は高い。
王くんに指摘され、あわててわたしは立ち上がり、あちこち心当たりの場所を確認してみた。荒らされた形跡はまったく見当たらなかった。
「ドアの鍵をもっているのは、ほかにだれですか」
車の運転を任せている身内どうぜんの
王くんが霊符について説明してくれる。
「これは道教でいう霊符です。神符とか呪符あるいは御札といって、古くから伝えられてきたものです。神仙が地上の山岳や河川の情景を上空から文字絵のように写し取ったもので、願いごとを薄い小さな紙に書いて水につけ、それを呑むと神霊のご加護とありがたい霊験があると信じられています。『長生不老丹符・保長命符・開運符・除不浄符・富貴符』など、人の悩みを解消し、望みを成就させ、運命を一変してくれる神仙の摩訶不思議な妙験が得られるのです」
王くんはここまで一気に説明してくれたが、耳で聞いただけでは聞き取れず、なんのことか分からない。霊符についてはあとでゆっくり聞きなおすことにする。
「だとすれば、ドアに貼ってあったこの霊符のもつ意味はなんだろう」
「この文字柄の雰囲気からすると、おそらく『老君入山符』のひとつでしょう」
「なんだって、ロウクンニュウザンフ?」
「ええ、太上老君が伝えたとされる登山のお守りで、山中で起こる災難から身を守ってくれるのです。『抱朴子・登渉篇』に詳しく記されています」
登渉とは、山に登り川を
「そうした災難を避けるためには吉日を選び、精進潔斎して、昇山符を帯びてゆけと、注意していますが、その昇山符というのが、この入山符のことなのです」
「なんで山登りのお守りなんかを仰々しく貼り付けていったんだ。しかも留守の事務所に忍び込んでまでして」
「おそらく警告でしょう。みだりに山に近づくと、なにが起こるかわからないぞという、なかば脅しを込めた警告です」
「警告だって? だれがいったい、なんのためにだ」
わたしにはまったく心あたりがない。だとすれば王くんにか。
「あるいは警告以上のものかもしれません。福地先生を巻き込んだ、ぼくにたいする宣戦布告状です。この入山符を身につけて、堂々と正面から羅浮山に参られたし、もはや雌雄を決すべきときである、と読みとれます」
王くんはしばらく口を閉ざしていたが、やがて決心したかのように立ち上がり、わたしに向かって深々と頭を下げた。かつてないことだ。
「よけいな心配をおかけしてはならないと思って、これまで先生には黙っていました。でもここまで露骨に挑戦された以上、いつまでも隠していては、かえってご迷惑をかけることになりかねません。正直に申します。これはぼくにたいする挑戦状です」
「なんだって、きみにたいする挑戦状だと」
わたしはあっけにとられて、王くんの顔をのぞいた。
王くんは悪びれた様子もなく、しっかりと正面からわたしの顔を見つめ返し、かえって微笑んでみせた。
ここで、さきほど書き残した霊符の内容を改めて記しておく。
「長生不老丹符」は、道を志せばかならず成仙する霊符
「保長命符」は、長寿を保証する霊符
「開運符」は、運勢を打開する霊符
「除不浄符」は、一切の
「富貴符」は、金運をもたらす霊符
老子は長寿の人だ。生まれ落ちるまで母の胎内に七十二年いた。そのため、生まれながらにして白髪で、口がきけた。周にいること三百余年、西の関を越えて崑崙の山に登ろうとした。
老子の面貌は、顔色が黄白で、眉美しく、額広く、耳長く、眼は大きく、歯並びは疎らで、口は四角く、唇が厚かった。老子は恬淡無欲で、長生だけを勤めとして、世俗の風に染まらなかったから、顔も名も知る人はまれだった。
西の関の関守に
老子は徐甲という下男を雇っていた。日当百文の約束だったが、まだ一文も払っていなかった。徐甲は総額七百二十万文の支払いを要求して関守に訴えた。じつに二百余年分の一括請求だ。関守の尹喜は訴えを聞いて大いに驚き、老子と直接対面させた。
老子はしずかに徐甲をたしなめた。
「徐甲よ、おまえは『太玄清正符』のことを忘れたのか。とうのむかしに死んでいたはずのおまえが、こんにちまで生きてこられたのは霊符があればこそではないか。おまえを生かすために『太玄清正符』を与えたのはこのわしだ。感謝されこそすれ、文句をいわれる筋合いはない。目的地の安息国(ペルシャ)に着けばまとめて黄金で支払うと、はなからいってあったろう。それをおまえはなぜ待てないのだ」
「いやだ、安息には行かねえ。いますぐこの場で、耳をそろえて払ってもらいてえ」
やにわに老子は徐甲のまえに立ち、顔を押さえつけて、徐甲の口を地面に向けて開いた。そのとたん徐甲の口から、朱色の墨痕鮮やかな『太玄清正符』が吐き出されたのだ。たちまち徐甲の肉体はこそげ落ち、一体の骸骨になってしまった。
尹喜は徐甲を哀れに思い、「生き返らせてやってください」と老子に叩頭して頼んだ。未払いの給金はじぶんがかわって支払うとも確約した。
老子が徐甲に霊符を投げつけると、たちまち徐甲は甦ったが、なにがあったかわけが分からず、きょとんとした顔つきで周りを見渡している。
『太玄清正符』は、不老不死の霊符だ。赤みがかった朱墨を用いて書く。
尹喜は徐甲に二百万文をわたし、郷里に帰した。そしてあらためて老子にたいし師の礼をとったのだ。俗世の執着を離脱し、金も栄誉も投げ捨てて、老子の道に精進することを誓った。老子は一書を著し、尹喜に授けた。これが『道徳経』だ。
やがて尹喜はこの道を実践し、老子とともに西へ旅し、天上の人になったという。
『抱朴子』登渉篇にいう。
あるひと山に登るの道を問う。
抱朴子曰く、・・・・山には大小となく、みな神霊あり。山大なればすなわち神大にして、山小なればすなわち神小なり。山に入りて術なければかならず患害あり。あるいは疾病をこうむり、および傷刺し、および驚怖して安んぜず、あるいは光影を見、あるいは異声を聞き、あるいは大木をして風吹かざるに自ら
・・・・凡人の山に入るには、みなまさにまず斎潔七日にして、
――周身三五法とは、金丹篇にいう「丹を合わすには、つねに名山のなか、無人の地においてし、
『抱朴子 登渉の六』にいう。
抱朴子曰く、名山に入るには、甲子開除の日をもってし、五色の
九字は、呪力を持つとされた九つの漢字だ。災いから身を守るための呪文とされる。入山のさいの護身に必要なのだ。
人差し指と中指を伸ばし、ほかの指を丸めて手剣をつくる。
「臨」と唱え、空中で横線を引く。
「兵」と唱え、空中で縦線を下ろす。
「闘」と唱え、「臨」のときの下に横線を引く。
「者」と唱え、「兵」のときの右で縦線を下ろす。
「皆」と唱え、「闘」のときの下に横線を引く。
「陣」と唱え、「者」のときの右で縦線を下ろす。
「列」と唱え、「皆」のときの下に横線を引く。
「在」と唱え、「陣」のときの右で縦線を下ろす。
「前」と唱え、「列」のときの下に横線を引く。
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