第六章 金丹派
季節が移り本格的な夏になったが、早朝はまだ爽やかで、山歩きにさほど影響はない。ただ半時間も早歩きでせっせと脚をはこぶと、からだがじわじわ熱を帯び、春先の二倍三倍の汗が滴り落ちる。山道をひとまわりするあいだに、手ぬぐいがぐっしょりと汗を吸って膨らんでくる。ある異変に気付いたのは、そんなころだった。
道の途中で小用が我慢できなくなった。早朝とはいえ山歩きに勤しむ同好の士は結構いるから、人目をはばかる必要がある。そこで道を外れて石垣のかげに隠れる。
小用を済ませ、やれやれと至福のときを満喫しつつ、もと来た道へ戻りしな、なにげなくふと見上げると、道の脇で不自然に身をかわそうとする男の姿が目についた。「同類か」とも思ったが、小用をしに上った風もない。
――あとをつけられていた!
小用の現場を押さえるための尾行とは考え難い。まさか公安ではあるまい、と否定してはみたが、ありえないことではない。以前は気がつかなかっただけで、これまでずっとつけられていたのかも知れなかった。
夏だというのに思わず背筋に冷や汗が出た。北京にいたころ以来、久々の体験だ。改革開放直後の八十年代初期は、まだ外国人は珍しく、目ぼしい人士への尾行や電話盗聴はなかば公然と行なわれていた。自由とは名ばかりの厳戒体制下、治安維持は国家の最優先課題だったから、許可された範囲内でのみ行動せよという、一種の警告だった。しかし、それからすでに三十年たっている。いまさら警告でもないだろう。第一、わたしはしがないビジネス・コンサルタントにすぎず、ジャーナリストではない。
早速、王くんに話し、意見を聞くことにした。
「なんとなく素人っぽいですね。公安ということはないでしょう」
王くんは、尾行者自体の存在を否定しなかった。
「
ひったくりにあった人のはなしは、よく聞いている。携帯電話はバスのなかでなんどか盗まれたことがある。気をつけるに越したことはない。
「外国人だと見られると、国宝級の骨董や掛け軸があるだの、古銭やら宝玉やらを国外へ持ち出してくれないかだの、いかがわしいことをいってくる人もいますから、誘いに乗らないように注意してください。それから羅浮山のことは、親しい人以外にはあまり話さないでください。中国人は宝石や黄金が大好きですから、丹砂だの
「そうだね、うかつなことはいわないように、気をつけよう。ところで、丹砂といえば硫化水銀のことで、これを化学変化させて黄金にかえたものが金丹だといわれると、つい煉金術を連想してしまうが、それでいいのかい」
「
そのとおりだと、王くんは断定した。
「葛洪は金丹の術をもって仙道の極みであると、喝破しています。『丹砂はこれを焼けば水銀となり、積変してまた還って丹砂となる。ゆえに人をして長生せしむ』。丹砂は年月をかけて変化してまた還元する。これが
「たいへんな技術だよね。ひとりやふたりでできる仕事ではない。何代にもわたって積み重ねられた成果にちがいない。漢の武帝のような権力者に知れたら、根こそぎ奪われかねない。それを秘匿して次世代につなぐというのも、困難なことだったろう」
わたしは舌を巻いた。製法特許が認められた時代ではない。
「むろんそれぞれが生涯の大事として一族を引きつれ、人に知られない深山幽谷に隠れ住んで、製法の研究に没頭し、その成果は秘方として軽々しく伝えることはなかったのです。羅浮山の系統でいえば、葛洪につながる流れは金丹派といえますが、秘方を相伝された人の名前をあげればこうなります」
王くんはひと息ついて、手にした市販のミネラルウオーターを飲んだ。ボトルのラベルを見ると「羅浮鉱泉水」とある。このあたりでは見かけない銘柄だ。地元でしか売っていない水ではないか。
「羅浮山へいってきたのかい」
「ええ、まぁ」
王くんに訊ねると、あいまいな返事をした。
「ぜひとも聞きたいね、そのはなし」
わたしの気持ちは、すでに煉丹術に飛んでいる。
葛洪は『抱朴子』に記している。
「むかし左元放(左慈)、天柱山(安徽西南)の山中において精思して、神人これに金丹仙経を授く。漢末の乱にあいて、あわせ作るにいとまあらずして、地を避け来たりて江東に渡り、志、名山に投じてもって斯道を修めんと欲す。余が従祖仙公(葛玄)、また元放よりこれを受く。およそ太清丹経三巻および九鼎丹経一巻・金液丹経一巻を受く。余が師鄭君(鄭隠)は、すなわち余が従祖仙公の弟子なり。また従祖よりこれを受ける。しかれども家貧しうして、もって薬を買うなし。余、親しくこれに
王くんはノートに漢字で、それらの人名を書き連ねた。
「左慈→葛玄→鄭隠→葛洪」
左慈から葛玄、鄭隠を経て葛洪にいたる直系の師伝だ。
固有名詞というのは、地名も難しいが、人の呼び名も難しい。ある程度の経験や知識がないと、読むことはできないし、聞いてもだれのことか分からない。そこへゆくと漢字というのは、まことに便利な符牒で、音は違っても基本的にだれのことか、ひと目で判断がつく。ただしいまは、簡体字という中国独特の省略文字があるから、できるだけ繁体字という日中両国共通の漢字に置き換えてもらわねばならない。
すでにご存知の向きにはよけいなことだが、前述した範囲内で類推が困難と思われる簡体字をいくつか羅列し、彼我の差を明確に示してみたい。カッコ内が簡体字だ。
羅浮山(罗浮山)、広州(广州)、竜王(龙王)、飛雲頂(飞云顶)、盤古(盘古)、関羽(关羽)、蘇東坡(苏东坡)、鄭隠(郑隐)。
「葛洪は『抱朴子』金丹篇で『われ養性の書を考覧し、久視の方をよせ集むるに、かつて読みあさりしところの篇巻は、千をもって
王くんは、世にも奇っ怪な話を、淡々と語ってくれた。わたしはといえば、かえすことばもなく、ただただ謹んで拝聴するのみだ。
「葛洪がいうように仙道の極意が還丹と金液にあったとしたら、その製法はどんなもので、どうやって伝えられたのか、はなはだ興味のあるところです」
はからずも王くんの口から本音が飛び出した。なるほど詳しいわけだ。ただの興味だけではないだろう。その存在に確信をさえ、抱いているかのような口ぶりではないか。
「じつは葛洪の『抱朴子』にはその製法が記されているのです。たとえば、九丹のうち七日で仙人になれる丹華についていうと、金丹編にはこうあります。かいつまんでいうと、まず玄黄を準備しておいて、次に雄黄などを適量用いて作った六一泥という泥状の物質を混ぜて溶かし、三十六日間煮ると、丹華ができあがります。玄黄というのは、青黒い天の色(玄)と黄色い大地の色(黄)をした物質のことで、天地、宇宙を表します。華麗の飾(美しい色)という意味もあります。天然の丹砂から夾雑物を取り去ったあとの、精純で美しい丹砂のことだと思います。金液についてもまた、具体的に記載された資料が残されているのです」
抱朴子曰く、金液は、太乙の服して仙せしところのものなり。九丹より減ずることあらず。これを合すには、古秤(昔のはかり)の黄金一斤を用い、あわせて元明・龍膏・太乙・旬首・中石・氷石・紫遊女・玄水液・金化石・丹砂を用いてこれを封じ、百日にして水となる。
「ぼくもこれにしたがって化学実験を試みました。もちろん『抱朴子』だけでは不十分ですから、『太清丹経』『九鼎丹経』『金液丹経』なども合わせ参考にして、現代化学の原則に基づき、古書の行間を補って実験したのです。ただしこういったやり方は、ぼくの独創でもなんでもありません。昔から多くの科学者が行なってきたことであり、現在も中国科学院に引き継がれてきているのです。中国では、たとえ神話や伝説であっても研究対象として真剣に取り上げられています。ことに書物で残されている場合には、徹底的な解析が施されます。荒唐無稽のひとことで無視したり抹殺したりすることはありません」
王くんは『抱朴子』に記された用語を現代語に訳して説明してくれたが、硫化砒素だ、明礬だといわれても、さっぱり見当がつかない。猫に小判ならぬ、福地に仙薬だ。
要するに、効能の程度はべつの詮索として、紛れもなく仙薬は再現できる、ということだ。とすれば、過去においてもとうぜん成功例はあった、と見てよい。
「葛洪は晋代の人です。後漢が滅び、三国から魏晋南北朝ときて隋唐につながりますが、葛洪が『抱朴子』のなかで明らかにするまでは、この煉丹術は秘方としてけっして表にでることはなかったのです。さきほど、左慈から葛洪にいたるひとつの相伝ルートを示しましたが、じつは他にも金丹派の相伝ルートがありました」
漢末、左慈は戦乱を避け、北から南の東呉に移ったが、左慈以前、江南にはすでに馬鳴生→陰長生→魏伯陽という九鼎丹法を伝えるべつのルートもあり、外丹黄白師として知られる狐剛子もいた。黄白術は銅合金(薬金・薬銀)を作り出す方法だ。狐剛子は、左慈の師とも、葛玄の師ともいわれる。また金丹派神仙道教は天師道とも関係があり、張陵とその弟子も九鼎神丹や太清金液神丹を伝承していたという。
「話が複雑になって分かりづらいですから、できるだけ単純にまとめましょう。いまここでは羅浮山にかかわる人たちだけを、まず列挙してみます。中国のそれも嶺南という地方の史書や説話からのまとめですから、出典がどうの、事実関係がこうのといったことには、目をつぶっていただき、ぼくの話としてお聞きください」
千年も二千年もまえの話だ。司馬遷のように古老からの伝聞というわけにはいかない。王くんの話の多くは、古代の説話や伝説をまとめた書物からの引用に違いない。直接じぶんで調べたものもあろうし、人から聞いた話もあるだろう。
「ああいいよ、細かいことまで気にしないで、話してみて」
お互い学者でも専門家でもない。物好きに毛の生えたていどの好事家のたぐいだ。人いちばい無責任なわたしは、あとさきかまわずかんたんに同意した。
「羅浮山が金丹派の重要な拠点として、代々秘方を受け継いできたとするもうひとつべつの説もあります。安期生は羅浮で隠遁し、太清神丹を修煉、成仙します。仙人となったのです。そしてじぶんのあと、
馬鳴生、あるいは馬明生ともいう。斉国臨淄の人。本名は
いわゆる「金液丹法」とは、つまり『太清神丹経』あるいは『太清丹経』のことだ。これは左慈が葛玄に授けた金丹派の重要な経典のひとつであり、馬鳴生が太清夫人なる師より金丹派の正統を受け継いだことを説明している。やがて馬鳴生は金丹半剤を服し、「白日昇天」した。葛洪は馬鳴生を「師にしたがい、笈を負うてあらゆる苦労をいとわなかった」
と高く評価している。
陰長生、(河南)南陽新野の人。後漢中期の和帝皇后の曽祖父であったという。馬鳴生が得道したことを聞き、請うて弟子入りした。貴門の出自にかかわらず、下僕としてつかえたのだ。同時期、師事したものがべつに十二人あったが、馬鳴生は十余年間、まったくなにも教えなかった。長生をのぞき他の弟子がことごとく去ったのち、馬鳴生は「まこと道を会得したるは、そなたのみじゃ」と、はじめて師説を示した。
かくて馬鳴生は陰長生ひとりをともない、(四川灌県西南の)青城山中深く分け入り、黄土を煮て黄金に化す神技を実践し、『太清神丹経』を長生に授けたのだ。
長生は師のもとを去り、はじめ武当山の石室で修煉し、さらに羅浮山に入り、鉄橋峰でなおも修煉をつづけた。ほどなくして長生は羅浮山中で朱霊芝に遭遇する。両名は道を一にする同志だった。朱霊芝は陰長生に「竜虎大還丹法」を伝授した。
陰長生は極め付きの霊薬ともいうべき丹薬を完成させた。これを服用すれば成仙昇天は間違いない。ところが長生自身はその半分のみを服用し、地仙に留まったのだ。
さらに大量の黄金をつくって病める貧しい人びとに施し、この世にあって三百年、四川の平都山で得道昇天した。享年百七十との説もあるが、金丹派の伝承者だ。
のち、この神丹法は羅浮青霞谷で修煉する蘇元朗に受け継がれ、その後も羅浮の修行者によって代々相伝される。
羅浮に深くかかわる仙人のひとりに朱霊芝がいる。朱霊芝は大宛人の子孫だ。安期生から金丹の秘方を伝授され、のち北谷へ移り住む。朱霊芝は青精飯方を会得し、青精先生といわれた。日に九食を食べることができ、その一方で、一年中食べなくても空腹感に襲われることがなかった。かれは妻子を棄てて南下し、羅浮山に隠遁し、太清神丹を修煉した。九鼎に成功してからは、日にひとつまみ服するだけで、三十年ものあいだ飢えることがなかったという。顔色は童子のようで、年齢は千歳と伝えられている。
五色の鳥は赤竜芝を服す。朱霊芝もまた赤竜芝を取って食べていた。それで霊芝と名乗ったのだ。のちに白日昇天して去った。
朱霊芝の居所は羅浮の伏虎岩にあった。後世の人は朱子庵と呼んでいる。
安期生のあと羅浮山にかかわる人に
桂父は象林の人だ。漢代の象林県は、のちの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます