第五章 尸解仙


 王くんに肩をたたかれ、はっと眼がさめた。居眠りをしていたらしい。

 春の日の昼下がりだ。てきどな疲労が、心地よい眠りを誘う。

「なれない朝の山歩きで、お疲れなんでしょう」

 もったいなくも、いたわりのおことばまでちょうだいした。

「これで一週間ですね。来週から早歩きのスピードを上げましょう」

 前言とりけし。いたわりどころか、テキはいたぶりにかかっている。

 仙人修行と称して、減肥(ダイエット)のために早朝の山歩きをはじめた。

 春先だ。朝の五時半、南国の東の空がしだいに白みはじめるころ、住まい近くの小さな山までゆき、山腹のゆるやかなマラソンコースを徒歩で一周し、戻ってくる。所要時間ほぼ一時間半。確実に一万歩をこえる道程だ。けっこう汗をかく。気温の高い日などは、シャツが汗まみれになり肌にべとつくほどだ。

 山といっても高さ二、三百メートルくらいの丘にすぎないが、コンクリートの建物と道路に囲まれた都会の片隅に、そこだけ頭をもたげた緑のオアシスの風情がある。ほどよい地点に、ほどよい高さで立っている。草木は豊かで枝葉をひろげ、都会の喧騒をさえぎってくれる。鳥が活発にさえずる。心なしか空気に味わいを感じる。眼下に人家をみわたし、頭上に雲をながめながら歩く。路傍から細ながいトカゲが飛び出し、踏まれまいと息せき切って駆け抜ける。虫を追って燕が目の前をかすめ飛ぶ。ひと回りするうちに太陽は東の空にしっかと腰を据えている。

 当初は歩くだけで手いっぱいだったが、なれるにつれ周囲をみわたす余裕ができ、目にしたものからの連想で、ふと回想にふけることもある。日本の思い出が多い。「山道を歩きながらこう考えた」、漱石が頭に浮かぶ。芭蕉を気取って、五七五をひねる。

 「初夏や 木々の緑の 日々に濃し」、「のどけくも 一望千里 風わたる」

 縦にのぼる道もある。こちらは急傾斜だから、四、五倍もきつい。心臓への負担は半端ではない。二、三度試したが、やめにした。仙人になれなくとも、減量できればそれでよい。歳を考え、安全第一、弱気に徹することにした。

「それでいいんです。無理してはいけません。とにかく歩くことです。走る必要はありません。汗をかくほど歩くこと、いっしょうけんめい歩けばいっぱい汗が出ます。無理ない範囲で意識してスピードを速めるよう心がけてください」

 お褒めにあずかっているのか、けしかけられているのか定かではないが、わたしにとって王くんは、またとない絶好の仕掛人だ。

「はいはい」ではなく、「はい」とひと声、わたしは王教練コーチの指図にしたがった。

 こうして、得がたい若い友人の叱咤激励のもと、わたしの仙人修行はスタートした。


 一方、羅浮山にまつわる王くんの解説もしだいに熱を帯びてくる。話が長くなり、細かくなっても、いやな顔ひとつ見せず、質問にもていねいに答えてくれている。仕事として調べてもらっていることではない。あくまで余技、余暇の範疇にすぎない。

「王くん、きみの該博な知識にはほとほと感心しているが、この知識の源泉はいったいどこにあるんだろう」

 いちど、わたしは訊ねたことがある。

「ええ、むかし学生時代に勉強したことがありますし、いまでも好きで『史記』や『列仙伝』『神仙伝』といった書物を、ときおり手にとって読みかえしています。ことに羅浮山の歴史は、自分の生活史の一部でもありますから、興味をもってあたっています」

 王くんは遠くを見つめる目で、こう答えたものだ。

「きみは羅浮山の出身かね」

「出身ではありませんが、いささか縁がある、といったところでしょうか」

 縁者なら自分のルーツ探しで研究していてもおかしくない。

「ふーん、そうかね」

 不得要領ながら、わたしはそれ以上訊ねることをはばかった。


尸解仙しかいせんとか尸解とかいう話が出ているが、いったい人間が再生するとはどういうことなんだろう」

 知識がつくにつれ疑問もわいてくる。

「どうして、どうして」

 年甲斐もなく、幼児の口癖がわたしにも移っている。

「葛洪については、いずれ詳しくお話しする機会もあると思いますが、その葛洪が神仙を三つに分けて説明しています。前にも話した天仙・地仙・尸解仙という分けかたです。『抱朴子』に『上士は形を挙げて虚に昇る、これを天仙という。中士は名山に遊ぶ、これを地仙という。下士はまず死してのちにもぬく、これを尸解仙という』と記しています。分かりやすくいいかえると、みごとに昇天を果たす天仙、昇天こそできないが長期にわたって地上で生きつづける地仙、いったん仮死状態で肉体から離脱した精神がのちに再生する尸解仙、ということになりますか。そしてさらに李少君の死について、『いま少君は、かならず尸解せるものならん』と断定しています。そして漢の武帝には、天帝太乙が李少君だけ誘って、自分を置き去りにしたとして、『夢のごとくんば、少君はまさにわれを捨てて去らんとす』といわせて、ひがませています」

「漢の武帝は秦の始皇帝と違って、身近に少君をおいて日々接していたのだから、仙人になれなかったことの落胆はひとしおだったと思うが、少君はなぜ武帝を見放したのかね」

「武帝には仙人になるだけの資質はない、と見限られたのではないでしょうか。少君は尸解したあと武帝の夢のなかにあらわれ、こう告げたといわれています。『陛下は老百姓ラオバイシン(民衆)の心を知ろうとはなさらず、かれらの生活を顧みようとはなさらない。ご自身のみ奢侈にふけ、享楽をお捨てになることができません。戦をこのみ、兵を狩りだし、情の趣くまま、人の命をもてあそんでおられる。遥かな戦場には故国に帰れない戦死者の魂がさまよい、仕置きの場では流血の刑が行われています。こうした治世をなさっていては、丹薬を飲んで天に昇ることなどかなわぬことです』。かなり痛烈な武帝批判ではありませんか」

「金や権力では仙人の資格は買えない、なかなか人間味のある話じゃないか」

 知ったようなことをいって、わたしは話を引き取った。


 タバコはやめてから三十年以上たっている。いまさら吸いたいとは思わない。酒のほうはやめて一週間になる。禁断症状が出るほどのアル中ではなかったから精神状態に変化はなかったが、夕食についやす時間が極端に短くなり、手持ちぶさたで困った。

 かといって、夜の街を徘徊しだすと元の木阿弥だと思い、やることがなければさっさと床につく。就寝時間が早ければ、起床時間も早くなるのが自然の道理というものだ。

 歳のせいだけではなく、朝の三時、四時にはもう目覚めている。早朝からテレビでもないから本を読む。いつのまにかしっかり読書の習慣が身についていた。王くんのちなみにならい、『史記』や『抱朴子』などの訳本を日本からとりよせ、読みはじめたのだ。金や権力では買えない貴重な習慣かもしれなかった。

 そして、王くんに感謝しつつ五時半になると、わたしは短パンに運動靴のいでたちで、いそいそと山歩きに向かっていた。


 黄帝はまず世を治めた。そののち登仙の日を予知し、臣下に別れを告げた。やがて亡くなり、橋山(陝西北部)に葬られた。すると山陵が崩れたので棺をあらためると、棺のなかは空で遺骸はなく、ただ剣とくつだけが残っていた。

 黄帝は首山(山西)の銅を採り、かなえを河南霊宝西荊山のふもとで鋳った。鼎ができあがると、あごひげを垂らした竜が黄帝を迎えに来た。黄帝が竜の上に乗ると、臣下のもの七十余人も黄帝にしたがって竜に乗り、ともに天上に向かって去ってしまった。残されたほかの臣下はみな竜のひげを握って、ついていこうとしたが、竜のひげは抜け、地上にとり残されてしまった。かれらは抜け落ちた竜のひげと黄帝の弓をかき抱いて号泣した。

 後世、鼎を鋳ったことにちなんでその場所を鼎湖ていこといい、その弓を烏号おごうとよんだ。烏号とは、烏乎ああと号泣することで、のちに黄帝の弓をさすようになった。


 漢の武帝の側室に鈎翼こうよく夫人がいる。斉の人で、姓は趙、趙夫人ともいう。生まれつき手の指を握りしめ、けっしてひらこうとしなかったのを、武帝がひらかせたので拳夫人の異名もある。なんとひらいた手のなかから、玉でできた帯鈎おびがねがでてきたのだ。武帝、晩年の寵姫となったが、逸話はさらにつづく。

 鈎翼夫人が皇子をもうけたとき、武帝はすでに六十をこえていた。皇子は七歳で即位する昭帝だ。武帝は己の死期をさとり、幼帝の即位を予断したとき、心を鬼にして夫人を獄に送った。

「国が乱れるのは、君主が幼く、母后が若いばあいだ。呂后の轍を踏んではならない。天下国家百年のためにこらえてくれい」

 わが子と引き離された夫人はひっしに許しを請うたが再会かなわず、雲陽宮で憂悶のうちに死ぬ。夫人の遺体は仮に納棺され、安置されていたが、一ヶ月以上たっても眠っているかのような状態で、冷えも硬直もせず、腐臭どころか芳しい香りが十里四方にただよっていたという。

 やがて武帝が崩御し昭帝が即位したあと、埋葬のため棺をあらためると、遺体はなく刺繍した絹のくつだけが残されていた。

 昭帝が帝位を継いで九十五年後、前漢は滅び、簒奪者王莽が「新」朝を建てる。


 昭帝から三代あとの成帝のとき、郎中の谷春が病を得て亡くなった。家人は悲しみ、喪に服したが、納棺しても死体は温みをたもち、冷たくならない。それで棺の蓋には釘を打たないままで、土をかけずに埋葬した。

 ところが、三年後のある日、衣冠を整えた谷春が県城の城門の上に坐しているではないか。県城は大騒ぎとなった。家人も驚いて現場に駆けつけ説得したが、谷春は家に帰ろうとしない。すでに死んだはずなのにと、ふしぎに思った家人は埋葬した場所で棺を開けてみた。棺のなかには、衣服はあったが遺骸はなかった。

 それから谷春は、城門の上で三晩泊まったのち長安にゆき、北の光門の上に立ち、大勢の人びとが驚くのを尻目に、ひとり太白山へ去ってしまったということだ。

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