第四章 安期生と李少君


「ところで、王くん。ものは相談だが、仙人の修行をするといっても、ダイエットが直接の目的なんだから、できるだけ簡略化しても許されるよね」

 仙人修行講座をはじめた日の夕刻、わたしはおそるおそる王くんにお伺いを立ててみた。

「あっ、いいですよ。今回のはいわば前哨戦ですから、難しく考えずに、本格的な修行に入るまえの基礎体力づくりの期間と位置づけましょう」

 わたしの弱腰の思いに反して、王くんはあっけらかんとしたものだ。

「仙人といってもピンからキリまであります。昔から時代によってあるいは人によって、いろいろな呼ばれ方をしてきていますから、あまり深刻に考えないでください。仙人はもともと僊人せんにんと表記されていました。僊は軽く舞い上がる人のことです。山にうつって隠れ棲む山人やまびとの意味もありますが、いかにも軽やかに天翔あまがける人とイメージされていたのでしょう。生まれながらの先天的な仙人もいれば、修行を積んで苦労してなる努力型の仙人もいます。神人と真人の差です。天仙・地仙・水仙・尸解仙しかいせんという分け方もあります。このうち空を飛べるのは天仙だけですから、飛べなくても安心してください。上仙・高仙・玄仙・真仙・神仙・霊仙・至仙というランク分けもあります。トップの上仙と二位の高仙とのちがいは字面からは判断できません」

 王くんの説明を聞き、気がゆるんだわたしは、つい不用意なひとことを吐いてしまった。

「いや、なんとも複雑なものだ。さすがセンニンというだけのことはある」

 王くんはなにもいわずじっとわたしの顔を見つめていたが、やがてがっくりと首うなだれ、気落ちしてしまった。わたしの下手な冗談には付き合っておれぬという風情だ。

「いやいや、それはそれとして、羅浮山とかかわった仙人のことも聞いておきたいな。葛洪のことはなにかの本で読んだことがある」

 照れ隠しと失地回復をめざして、わたしはにわかに話題をかえた。この作戦は功を奏し、王くんはどうにか気を取り直してくれたようだ。

「ああ、それなら、しっかりまとめてありますから、いつでもお話しできますよ」

 はつらつとこたえた。若い人は落ち込むのも早いが、回復が早くて頼もしい。


「葛洪も書き残していますが、羅浮開山の祖とされるのは安期生あんきせいです。秦代の人ですが、千載翁せんざいおうと呼ばれています。千年生きた仙人だったという伝説の持主です」

「千年とはすごいねえ」

 ふたたびだじゃれが飛び出そうになったが、喉元でぐっとこらえ切り抜けた。

 秦初に三、四十歳なら唐末のころまで生きられる。想像を絶する話というほかないが、かの葛洪は『抱朴子・対俗』篇中で、「安期生・陰長生は、みな金液半剤を服するものなり。その世間(人界)に止まること、あるいは千年に近くして、去りしのみ」と嘆じている。

「周の霊王のころというと安期生の出る五百年ほど前にあたりますが、当時すでに羅浮山は得道成仙つまり仙人修行の山として、多くの人に知られていたといいます」


 一説に、「周の霊王のとき、浮邱ふきゅう公あり、南海(いまの広州)人なり。王子晋とともに嵩山にのぼる。のち羅浮に赴き、得道する。よってその地を浮丘とする。南海県に浮邱山あり。羅浮朱明洞天の門戸となす。伝授した浮邱丈人じょうじん(丈人は長老にたいする敬称)はこの地において得道せり。周代すでに羅浮仙山はあまねく世人の知るところとなり、さらに得道成仙を求めるものの向かうところとなる」

 とある。

 ちなみに還丹せんたん金液を丸ごと服すれば、みごとに昇天し天仙となる。もし事情があって、いましばらく人界に留まるならば、半分だけ服する。金液半剤を服するとは、そのことをいう。残りの半分は、昇天成仙するときのためにしまっておけるのだ。


 古来、中国には不老長生を願う神仙思想があった。仙山の奥には、穀物を食べず、不老長生の術を修め、変幻のことを行い、風を起こしたり、天に昇ったりする仙人が棲んでいて、不老長生の霊薬を作っているという伝説が生まれた。

 不老長生の霊薬の究極は、丹薬(金丹)作り、すなわち煉丹術だ。

 この煉丹術は、伝説の世界だけに存在する架空の産物ではない。過去から現在にいたるも、多くの人々によって現実に継承されつづけている伝統技術なのだ。


「羅浮に遊ぶもの、安期生にはじまる」という。秦代の方士安期生は羅浮山で遊学修錬し、十二節の菖蒲を服食し成仙したと伝えられている。「羅浮開山の祖」説が生まれた由縁だ。

 安期生こと鄭安期は、いまの山東諸城にあった瑯邪ろうやの阜郷の人だ。東海のあたりで、薬を売って生業としていた。人びとは安期先生あるいは千載翁といって長寿を敬った。

 秦の始皇帝が山東巡遊のおり接見し、ともに語ること三日三晩におよんだといわれている。安期生の名を慕うこと久しい始皇帝が、長生の法について教えを請うたのだ。接見後、始皇帝は黄金や玉璧数千万を賜った。ところが安期生は、阜郷の宿を去るにさいし、これらをそっくり置いていった。そして赤玉のかた(履物)一足のみを返礼としていただき、「のち数年して、愚生を蓬莱山に訪ねられたし」との書状を残していった。そこで始皇帝は徐福や盧生ら数百人の方士を使者として、渤海の東方にあるという蓬莱山へ海路遣わしたが、だれもみなゆきつくことができなかったという。そのつど嵐にあって、空しく引き返したのだ。

 蓬莱山は天涯地角にあるわけではない。渤海の東の海上にある。その存在はまれにではあるが確認されている。はじめは雲につつまれた海上に漂うように望見できる。手を伸ばせば届くかのような近さに思える。しかし近づくとたちまち風が起こり、波が立ち、水中に没して消えてしまう。とても上陸することはかなわないのだ。

 もともと蓬莱山は不老長生の仙薬をもつ仙人の棲む神山だが、じつは安期生のいう蓬莱山は、渤海中ではなく、広東の山中にある羅浮山のことだった。

 すでに述べたが、羅浮山とは東海の島にある蓬莱山の一峰が分かれ、海中に浮かぶ浮山となって流れ着き、南方の羅山と合体したという伝説にもとづく命名だ。

 世に神仙境を蓬莱という。蓬莱山にはあまたの仙人がおり、不死の仙薬がある。そこは白一色に彩られた白日の世界なのだ。純白の禽獣がのどかに寝そべり、宮殿は黄金や銀で飾られ、白光を放っている。俗人は清廉潔白のなかでは生きられない。だから近づくと上陸を拒否され、船を引き離されるのだ。得道羽化した神仙と純粋無垢の童男童女、そして一芸に秀でた匠と素朴な農牧漁民のみが上陸を許される。

 羅浮山は終日雲霧が垂れ込め、あたかも海中の神仙境にいるかのように感じる。その情景は大海中の蓬莱山を思わせ、蓬莱山の一峰が海に浮かんで浮山となり、羅山と合体したという説にむすびつく。

 陸地の羅浮山もまた四百三十二峰ある高く険しい山嶺は、得道羽化した神仙以外の登頂を拒む。神仙を除いては、だれもこの山の頂までのぼることはできないのだ。

 ただし、規制は中腹や麓にはおよばない。羅浮を愛する人には開放される。羅浮に魅入られた朋友と認められれば、歓んで迎えてもらえる。


 葛洪の生きた時代から七百数十年の後、北宋を代表する詩人に蘇東坡そとうばがいる。晩年、嶺南の恵州や海南の地に流され、六十代の大半をこれらの地で送るが、羅浮山の麓に来て、荔枝れいし(ライチ)のためなら死ぬまで住みついてもいいと、老いてなお壮んな気炎を吐いている。傍目には不遇にみえても、羅浮山に魅入られた幸せなひとりだったのかもしれない。 

 蘇東坡に『荔枝を食す』という一首がある。亡くなる五年まえの詩だ。


  羅浮山下四時春  羅浮山下 四時しいじの春

  盧橘楊梅次第新  盧橘ろきつ 楊梅ようばい 次第に新たなり

  日噉荔支三百顆  日にくらう荔支の三百

  不辞長作嶺南人  辞せずとこしえに嶺南の人となるを


 蘇東坡は葛洪を「わが師抱朴老」と敬い、葛洪ののこした煉丹炉に「葛洪丹竈たんそう」の四字を揮毫した。またみずから酒を醸造し、羅浮山にちなんで「羅浮らふしゅん」と命名したことでも知られている。享年六十六。


 安期生の開山にはじまり、はやくも秦漢のころには、羅浮山は各地の方術士が夢寐むびに求めて止まない至福の地となり、仙を訊ね、仙を修める至聖の地になっていた。

 安期生が羅浮に南遊した話は、古説にみえる。安期生はつねに李少君りしょうくんと南の羅浮行をともにする。李少君は、「安期生は仙者にして蓬莱に通暁している」といった。そのじつ羅浮は蓬莱の一部だったのだ。


 漢の武帝のころといえば、紀元前二世紀から前一世紀末にかけての時代だが、李少君という方士がいた。斉の臨淄りんし(山東淄博しはく)の人だ。神仙術に通じていることで知られており、ことのほか武帝に気に入られていた。求めに応じ武帝にまみえ、こう述べた。

「わたしはかつてたびたび羅浮山にのぼり、安期先生より煉丹術の極意を伝授されました。不老長生の丹薬を煉る神仙の秘術にございます。かまどを祀れば鬼神を降し、鬼神を降せば丹砂たんしゃ(硫化水銀)を化して黄金とすることがかないます。その黄金で飲食の器をこさえて食事をすれば、長寿を保つことができ、やがては天翔ける飛仙となって天界へと導かれるのでございます」

 また、こうもいった。

「長寿を保ち、仙人となる秘訣を存じております。丹砂を(化学変化させて)黄金にし、そして、できあがったその黄金を服用すれば仙人となって天界へ昇ることができるのです。わたしは以前、東海を遊歴したおり、安期先生という仙人に出会い、瓜ほどの大きさの天上界のなつめ(ふつうは親指の爪ほどの大きさ)をいただいて食べたことがあります。それがわたしの長寿の秘訣です」

 武帝は喜んで少君をもてなし、丹薬を煉成させた。

 不老長生の丹薬の完成を、武帝は恋にこがれる少年のように、胸躍らせて待ちこがれた。

 この感情を持続するだけでも、確実に十年は若返る。

 一夜、武帝は夢を見た。夢のなかに李少君があらわれ、ともに連れ立って嵩高山にのぼった。その途次、中腹あたりに来たとき、天上からの迎えがあり、李少君だけが召されたところで目が覚めた。

「よもや李少君は自分をみかぎって、ひとりで昇天しようとしているのではないか」

 胸騒ぎした武帝は、いそぎ近侍を李少君のもとに奔らせ安否を問うた。はたして李少君は重体で病の床に伏せていた。武帝は大慌てで見舞いに駆けつけ、丹薬のありかを突き止めようとしたがときすでに遅く、李少君は息絶えていた。

 期待が大きかった分、失望も大きい。李少君の死後しばらくは、腑抜けのようになっていた武帝だったが、気を取り直して冷静に考えてみると、疑問がわいてきた。

 あれだけの長年月生きつづけた仙人が、そうかんたんに死ぬものだろうか。不審に思ってふたたび近侍を李少君の府邸にやって、遺体を調べさせた。棺はまだ埋葬されていない。

 棺のなかをあらためると、はたして遺体はもぬけの殻になっていた。蝉の抜け殻のように、衣服だけがそのまま残されており、遺体はどこにも見あたらない。

 うろたえて報告する近侍を前にして、漢の武帝は、はたと気がつき膝をうった。

「シカイセンとは、このことか」

 シカイセンは、尸解仙と書く。シは尸、屍の原字で、人があおむけに寝た象形だ。尸には、かたしろ(形代)の意もある。祭りのとき心霊のかわりに据える人形ひとがただ。

 屍を解く、つまりぬけがら(肉体)を残してさきに魂だけ抜け去り、のちに蛻を遷去(引越し)する。蛻はかたしろにすぎない。その後、天界と人間界をいつでも自由に往来し、必要に応じ何歳のときの姿であろうと好きに選び分け、再生(復活)するのだ。

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