第二章 仙人修行


 わたしがはじめて中国の地を踏んでから、はや三十年あまりになる。

「改革開放」というが、鎖国状態から開放されてまもなくの北京・天津を訪れたのが最初だった。唐山大地震後の復興いまだしの天津は、半壊の薄汚れた街に見えた。そして北京は平たくだだっ広い、雑踏の街だった。人の多さと自転車の洪水に圧倒された。

 やがて上海・西安・廈門アモイなど色合いの異なる都市をいくつか経巡ったすえ、広州に落ち着いた。二十年まえのことになる。

 北の北京とちがって南の広州には、住んでいて圧迫感がない。まったくとはいえないにせよ、比較的自由な生活行動が許される気がする。目と鼻のさきに香港があり、好きなときにいつでも往来でき、大陸とは違った空気をぞんぶんに吸うことができる。東京へは飛行機で片道四時間、思い立ったらその日のうちに、まっすぐ帰れる安堵感もある。

 中国南方、五嶺の南を嶺南れいなんという。広東カントン広西カンシー海南ハイナンなどを包括する地域だ。この嶺南だけで、人口約一億四千万人、面積約四十四万平方キロ。優に日本の規模を超える数値だ。うかうかと中国滞在期間の大半をこの嶺南、ことに広州を中心とする珠江デルタ一帯で費やす結果になり、このさき、よそへ移る気は失せた。ましてや還暦を過ぎ、いまさら日本へどのつら下げて戻れよう。

「どうやらここがついの棲家となりそうだ」

 百平米そこそこの住まい兼用マンション事務所でわたしはつぶやく。このところやたらひとりごとが多くなっている。

 十五年まえ、わたしはここ広州で、日系の華南進出企業向けにコンサルタント事務所を立ち上げた。工場進出にさいしての事前調査からはじまり、場所が決まれば、会社登記・税関合同・各種許認可手続きの申請、さらには機械設備・原材料の輸入通関、できあがった工場の現地オペレーションのコンサルまで手がける。専門技術者・高級管理経験者・財務会計有資格者・通訳・工員といった工場要員の募集やすぐにも必要な消耗材・部品・治工具の現地手配など仕事はいくらでもある。

 多少なりとも事前にしっかり検討をしたうえで進出してくるならまだしも、多くの企業は時勢に押され、乗り遅れまいと息せき切って駆け参じた感がある。さればこそ、さてやっては来たものの、聞くと見るでは大違い。付け焼き刃のにわか勉強はほとんど役に立たず、右も左も分からず途方にくれる、といった態の中小企業の社長や工場長がほとんどだったから、かれら相手のよろず相談引受けで、夜昼かまわず、かき回されてきた。

 それでも元気のあるうちはまだいい。毎日、出たとこ勝負で押したり引いたりやりあって、夢中で突っ走っている分には、ささいな行き違いなんぞは酒の一杯も飲めば、消し飛んでしまうから問題は長引かない。これが、本社と現地のあいだに立って、にっちもさっちも行かない泥沼状態にはまってしまうと悩みどころではなくなって、要注意となる。

 まれにではあるが、精神的に落ち込まれると手に負えない。対人関係に支障を来たし、中国人不信に陥ってしまう。あるいは対人恐怖症というのもある。食事ものどを通らず、そこいらじゅうが不潔に見え、わけの分からぬ圧迫感に襲われる。部屋に籠りがちなだけの症状ならまだ救いはあるが、出社拒否症や酒カラオケ依存症にまで発展すると、やがては本社へお引取りを勧告する破目になる。

 コンサルといってもわたしの場合、それほど高尚なものではない。

 さまざまなトラブルはあってもなんとか乗り切り、ひととおり仕事の段取りがついたころから、ゴルフだ、カラオケだと、遊びの相手もしなければならない。はじめの一年目こそ重宝がられるが、二年目には閑古鳥だ。財務や税務の継続的コンサルならまだしも、場当たり的な便利屋稼業で使われると、当の本人が現地に慣れてしまえば用はなくなる。


 過去なんどか会社勤めをしたこともあったが、ほんらい自由業志向で、どちらかといえば気ままかってなことをやって暮らしてきた。いきおい仕事にあぶれることのほうが多かったから、いっとき儲かったとしても貯えはほとんど残らない。

「自由に生きることの代償さ。武士は食わねど高楊枝ってね」

 強がってうそぶいてみても、人はほめてはくれない。ほんらい人の評価というものは、ふところの軽重、財布の厚みで決まるものらしい。

「いずれ霞でも食って長生きしてみせるさ」

 ひとりごとをいったつもりが、コンサルタントの相棒である王くんに聞かれてしまった。

「えっ、霞を食って仙人やりますか!」

 たちまちはずんだ声でけしかけられた。わたしは軽い冗談のつもりで気楽に答えた。

「仙人か、なってもいいかな。でもこの体型じゃ、相手にしてもらえないだろう」

 太鼓腹をさすり、王くんのまえで四股を踏んでおどけてみせた。

「どすこいっ」

 相撲甚句の掛け声よろしく、鉄砲突きで王くんをおそったものだ。さすが博識の王くんもこれには面食らった様子で、

「なんですか、なんですか」

 を連発し、怯えてあとずさりしたが、すぐ真顔にもどり、こんどは本気でわたしの説得にかかったのだ。

「体型など気にする必要はありません。修行ひとつでいくらでもスリムになりますよ」

 スリムのひとことが、気に入った。

「多少なりとも痩せられるなら、やってみる価値があるな」

 このところ医者からは、うるさいほど注意を受けている。

「肥満は大病のもとです。すこしはその気になって体重を減らさないと、いまに成人病で泣くことになりますよ」

 すでに痛風が出ている。重度脂肪肝と診断されている。高血圧の測定値はときに危険水域に達し、すでに警報は鳴りっぱなしだ。高脂血症も異常の一歩手前でかろうじて踏みとどまってはいるが、糖尿病の発症リスクは高いと威されている。

 すべての原因は肥満にある。肥満の改善は目下の最重要緊急動議である。さすがのんきな性格のわたしでも、無視するわけにはいかなかったから、王くんの「仙人修行でスリムに」の提言を、「渡りに船」と飛び乗ってみる気になった。

 問題は条件面での折り合いだ。はなから厳しい条件つきだと長つづきしないから、やるだけ無駄だ。せめて半年くらいはつづけられそうな無理のない条件が望ましい。

 王くんはこともなげにいう。

「かんたんです。仙人修行というと、むかしはかなり厳格でしたが、いまはマニュアル化されてとても楽になりました。難しいことばでいうと、『辟穀へきこく法・胎息たいそく法・導引どういん法・煉丹れんたん法・房中ぼうちゅう法・存思ぞんし法などの実践学習』、これに尽きます。少し分かりやすく説明すると、穀物を食べないで松の実とかキノコなど野生の食物だけで過ごす食餌しょくじ法、生命活動の気を摂取する独特の腹式呼吸法、からだ中の血脈の流れを活発にする柔軟体操、みずから服用する金丹などの仙薬の材料を見分け調合して煉成する製薬法、それからセックスコントロール法、身体各部位に存在する神と対話する瞑想術、これがすべてです。修練六法といいます。これらの実践を通じて、身体を鍛え、仙薬を服用し、精神を陶冶とうやするのが修行です。その人の身体、精神の状況に応じて、毎日すこしずつ進めますから、まったく無理はありません。たとえば福地先生のばあいは、その出張ったおなかを多少なりとも引っ込ませるために、早朝一時間の山歩きからはじめます。心臓に負担のかからない早歩きていどで十分です。食事については、量を減らすことからスタートします。空を飛んだり、姿を消したりする修行は、年齢的に無理ですので、このさいあきらめてください」

「うん、うん。それなら無理なくやれそうだ。それでひとつお願いすることにしよう」

 汽車の切符でも頼むように、いとも気楽に引き受けたものだ。

「ところでものは相談だが、酒はどうなんだろう。ワイン程度なら勘弁してもらえるかな」

 気楽ついでに、軽い気持ちで確かめた。

「だめです。福地先生のことですから、ワインがよければブランデーもいいだろうというにきまっています。このさい、思い切って禁酒を決断してみてください。ただ適量の薬酒なら許されますから、禁断症状が出そうになったら、薬酒でしのいでください」

 寝耳に水のはなしだった。うかつにも禁酒条項が包括されていることを忘れていた。すでに季布きふ一諾いちだくならぬ福地の一諾を発してある。いまさらあとには引けぬ。わたしは涙を飲んで不承不承同意したが、その返事は未練たらしく投げやりなものになった。

「わかった、わかった。酒をやめて、千年でも万年でも生きてやるわい」


「ご承知のとおり仙人になるためには、むかしなら言語に絶する、それは厳しい修行が課されたものです。でもそんなのは、現代では通用しません。いまではすっかり簡易化されて、だれでも修行できるように合理的に改善されています。目的も、仙人になるためだけではなく、美容や健康のためという利用の仕方も可能です。いわば深山幽谷の秘密のベールに包まれた霊山でだけ許されたかつての仙人修行が、いまや町の公民館や公園まで下りてきて、メニューも豊富に一般大衆化されたということでしょうか」

 王くんによる仙人修行講座開講の弁である。週末の土曜日早朝、トレーニングウエアに着替えた王くんとわたしは、近くの公園に集合し、仙人修行講座の第一日目を開始した。先生ひとり、生徒ひとりのささやかなスタートだ。

 夜明けとともに三々五々公園に集まった他のグループも、太極拳やら、社交ダンスやら、それぞれのグループ活動をはじめている。

 わたしの目的は減肥チェンフェイ、ダイエットにある。とりあえずの数値目標を三ヶ月で五キロ減少と軽めに設定した。百七十センチの身長で、体重は九十キロを越えている。ひと目で分かる肥満体だ。最終目標は一年後、二十キロ減の七十キロ。

 ――いまにみておれ!

 大願成就の期待に押され、わたしの胸は高鳴った。

 基本トレーニングは、公園のさきにある小山への早歩きだ。一時間ほどかけて往復する。走る必要はない。ふつうの速度より早めに歩き、たくさん汗をかけばそれでいい。


 この講座のひと味工夫された味噌というか特徴は、基本トレーニングに修練六法の座学を加えたところにある。修練六法を学び、その実践を通じて身体を錬磨し、仙薬を服用し、精神を陶冶する。テキストは、葛洪の『抱朴子』。仙人は無理としても、せめて『抱朴子』にある不老長生の奥義に触れてみようというのだ。

 仙薬には、六百種といわれる漢方薬草のなかから約千種の症状にあわせ、解明実証された処方のデータベースがある。それをもとに、王くんが選りすぐり、わたしの体質にあわた漢方ブレンド剤を試すことにする。

「わたしの調合した漢方のオリジナル作品です。なん種類か試してください。老化抑制と同時に生活習慣病の予防にも効果があります。老化と生活習慣病ー福地先生が現実に抱えておられる、危険な兆候がまさにこれです。たとえば先生は夜中にたびたびトイレに起きますが、これは頻尿といって、前立腺肥大症の警鐘です。放っておくと腫瘍になりかねませんが、前立腺改善の薬酒があります。先生はよく、口が渇いて目がしょぼつく、集中力がなくなった、ときどき頭がボーっとする、眠れない、足がだるい、疲労感がいつもあるなどといって老いを嘆いておられますが、じつはこれは高血圧症患者の症状なのです。放置しておくと腎機能疾患・心筋梗塞・脳卒中・心臓衰弱などを引き起こします。漢方薬には心臓や脳の血管を広げる血行促進の働きや、体内の油やコレステロールをとって、血管機能を回復する働きがあります。体質にあった漢方のブレンド剤をご用意しましょう」

 図らずもわたしが吐露した医者の警告をもとに、すかさず王くんは対応してみせる。かねがね中国人の漢方好きは承知していたが、王くんの知識分野の広さにも驚かされた。

「それから痛風に、重度脂肪肝、高脂血症、もうほとんど成人病の総合商社じゃないですか。よくもまあここまで、無神経にやってこられましたね。糖尿病にならなかったのが奇跡のようです。先生は酒の肴に、アジやイワシ・サケ・サンマ・ホッキ・ホタテなど魚介類がお好きで、よく召し上がっておられたから、それがよかったのかも知れません。でもご安心ください、これからは酒の肴に頼らずとも、漢方ブレンド剤で、それ以上の効果をもたらしてみせましょう」

 ――いかん! このプロジェクトは、王くんのペースではじまろうとしている。

 内心あせったわたしに、王くんの追い討ちのひとことが放たれる。

「適度な運動と睡眠と食事、これらをきちんととってゆけば、無駄な脂肪は落ち、筋肉がついて、体がしまってきます。暴飲暴食をつつしみ、規則正しい生活をすれば、ダイエットを意識せずとも、肥満は自然に改善されます」

 自信に満ちた笑顔で、わたしを励ましたもうたのだ。

 ――撃ちてしやまん。

 わたしのテキはあくまで肥満であって、王くんではない。悲願達成の暁まで、わたしは王くんの軍門に下り、日々これ摂生につとめる。悲壮な決意を新たにしたしだいだ。


 以下、修練六法を簡述する。前述した王くんの説明に付け加えるといい。

 辟穀法・・・・辟は避の借用字。穀を避く、五穀断ちを前提とする。五穀は米・きび・麦・あわ・豆のこと。これを食べない。不老長生の絶対条件。松の実・キノコなど野生の食物だけを食す食餌しょくじ法。目的は人の死因の元凶を除き、心身を浄化するためだ。

 胎息法・・・・生命活動の気を摂取する独特の腹式呼吸法。腹のなかで深呼吸する。内気ないきを摂取する「服気」と、内気を循環させる「行気・練気」に大別される。まず、「調息ちょうそく」法をマスターしてからはじめる。

 導引法・・・・身体の屈伸運動を中心に呼吸法などを取り入れた養生長生法のこと。大気を導いて体内に入れる養生法。血流循環の活性化を図る柔軟体操で、不老長生の心身を作る。外気呼吸法と内気呼吸法がある。

 煉丹法・・・・霊薬製造法。究極は金丹だが、不老長生の仙薬は一般疾病の治療に役立つ。あながち荒唐無稽ともいえない。

 房中法・・・・「接して漏らさず」を身上とするセックスコントロール法。

 存思法・・・・三百六十とも三万六千ともいわれるが、身体のあらゆる部位に宿る神々と対話する瞑想術。


「辟穀法か、なかなか難しそうな漢字がならんでいるね。なになに房中法? もしかしてベッドテクニックのことかね。うん、これならいけそうだ。相手はじぶんで選べるのかね」

「いけません。神聖な不老長生の修練に、すこしでも浮わついた気持ちがあっては、大けがをします」

 ベッドでけがをしてはかなわない。わたしは口を慎むことにした。

「いろいろな本にさまざまな説明がしてありますが、表現が難しく、抽象的でよく分からないところも多いです。それはそれとして文字で眺めるにとどめ、ここでは実践の場として、実際にやれることだけを実行します」

「酒をやめたうえに五穀断ちで、ご飯と味噌汁に納豆の朝飯まで禁止されたんでは、やっていけるものではないわな」

「おっしゃるとおりです。ぼくも味噌汁に納豆は大好物です。やめる必要はありません。せいぜい量を減らすことを心がけてください。煉丹法もここではむりです。いずれ設備のそろった工房をご紹介します。房中法は場所をかえて、ごじぶんでかってに研究してください。存思法というのは、ぼくもよく知りません」

 王くんの説明がやや投げやりになってきた。ぐうたら生徒相手にまともに講義するのがめんどうになってきたのだろう。

 むりもない。ここはひとつ年の功でわたしが引き取って、解説をつづけることにする。

 要するに王くんの仙人修行講座の趣旨は、『抱朴子』をベースにして内容をよく吟味し、書かれてあるやり方にしたがって、実際にやってみようということだ。どうやればいいのか分からないような、ややこしい表現のものはこのさいカットする。無理なく実行できるものから優先的に試してみよう、というのだ。


 まず、胎息法だ。『抱朴子』内篇序文校註に、胞胎のなかにあるがごとく深呼吸する修煉法とある。胎児の深呼吸をまねるのだ。

 鼻と口で呼吸するのではなく、腹のなかで息をする腹式呼吸だ。それも、ゆっくりと時間をかけて行う。鼻から息を吸って、じゅうぶん腹のなかにため、いったん休止し、その状態で百二十までかぞえ、少しずつ口から吐きだす。そのさい、吸う息はできるだけ多く、吐く息はできるだけ少なくするように気をつける。目標は、「千かぞえるまで」。

導引法もおなじ『抱朴子』内篇序文校註にある。「屈伸・俯仰ふぎょう・行臥・倚立いりつ躑躅てきちょく(足踏み状態)・徐歩じょほ(ゆるやかに歩む)・吟唱・呼吸などの動作により、血気渋滞し、百関のびざるとき、これを調和通達せしむる術。身体軽挙するにより登仙とうせんの法となす」

 柔軟体操・筋肉運動・冷水摩擦・血行摩擦・屈伸運動など、実行可能な運動で、これには、現代流に改編された「八段錦導引法」という方式がある。

 息を吸ったり吐いたり、歯をかみ合わせたり、両手を首の後ろで組んで左右の耳の上を叩いたのち首を回したり、脊椎を揺らしたり、口中で唾液を集め飲み込んだりする運動だ。立式と坐式、ふたつの方法があり、王くんが採用したのは坐式だ。

 王くんはそれを、実際にやって見せてくれた。


「導引というのは養生法のひとつですが、皮膚を摩擦したりマッサージしたりして、人の身体内部の生気や血液の流れを良くします。筋肉や関節を無理なく動かすと、もっと効果が出ます。少し慣れてから取り入れます。はじめはまずあぐらをかくか、足を投げ出して坐ったままで、摩擦とマッサージを行ないます。両手の親指から小指まで、温かく感じるまでまんべんなく押したりこすったりしてください。手が終ったら足の指も同じように揉んだり叩いたり、マッサージしてください。次に下腹の運動です。下腹に手をあてて腹をへこましたり、膨らましたりします。ゆっくりやったり、素早くやったりしているうちにからだが温まったように感じます。そうしたら次は、肛門です。括約筋をぎゅっと締めたり緩めたり、何回もくりかえします。こうしたあいだもよく手をすり合わせて、暖かくしておくことを忘れないでください。そのつぎです。肩から首にかけて右手を後ろに回して、左側をよく揉みます。右が終ったら左の手です。左右の手を交互に回して、まんべんなく揉んでください。それから首の運動です。ゆっくりと右に回します。つぎに左です。おなかで一二三四、四拍子、二二三四、三二三四と三からはじめて九二三四と九までかぞえます。はじめは十二回、慣れてきたら三十六回です。九二三四までかぞえてひとつの区切りにします」

 王くんの導引指導によるとこれはいわば準備運動で、手足からはじまり、顔の前面や側面さらには頭部、耳の下、顎の下の各部に移り、首から肩、そして胸・胃・へその回り・肋骨・わき腹・下腹と、ほとんどからだの全体にわたってまんべんなく揉みさすりマッサージするのだ。


「さあ、それではいよいよ坐式八段錦に移ります。難しい名前がついていますが、いまは省きます。第一段階から第八段階まで、八通りの運動をします」


「第一段です。あぐらをかいて坐ります。手をまえで組み、力を抜きます。ゆっくりと深呼吸します。鼻から吸って、口から吐き出します。静かに、ゆっくり、何回もくりかえします。つぎに歯を噛合わせます。三十六回噛んでください。両手を頭の後ろで組みます。手のひらで後頭部を暖めてください。左右の耳を手で覆ってください。人差し指のうえに中指を重ね、中指を弾いてください。中指で後頭部を叩くような感じです。左右交互に二十四回ずつ叩いてください。それから手を後ろで組んだまま、首を左右に回し、戻してください。回すとき息を吸い、戻すとき吐いてください。数回くりかえします」


「第二段です。もとの姿勢に戻ります。脊椎を揺り動かします。腹から腰にかけて時計回りで二十四回、ゆっくり揺れて動かしてください。終ったら反時計回りで二十四回、くりかえします」


「第三段です。舌で口のなかの唾液を集めて飲み込んでください。両手を頭の後ろで組んで、手のひらで左右の耳のうえを交互に三十六回ずつ叩いてください。終ったら、しばらく息を止めてください」


「第四段です。手のひらを背中に回して腎臓のあたりをマッサージします。これを三十六回くりかえし、しばらく息を止めます」


「第五段です。右手のひじを曲げ、手の甲を背中に当てて、肩から腕を、轆轤ろくろを回すように、三十六回ずつ連続回転させます。右手が終ったら、左手の甲を同じように背中に当てて、轆轤の連続回転を、三十六回ずつ行ないます」


「第六段です。まえの轆轤回転を両手で行ないます。両手を後ろへ回し、三十六回、連続回転させます」


「第七段です。両手を頭上で組みます。指を組んで、手のひらをうえに押し上げ、身体を伸ばします。このとき息を吸って、肛門をキュッと絞めます。つぎに全身の力を抜いて、手のひらを頭のうえまで下ろして、息を吐きます」


「第八段です。坐ったまま足を伸ばします。両手をかぎの形にして前傾し、伸ばした両足の土踏まずをつかみます。つかんだら上体を起こして手を離します。これを十二回くりかえします」


「第一段から第八段まで終ったら、もとの姿勢に戻って、眼をつむり、静かに呼吸を整えます」


 王くんが説明しながらやって見せてくれた。わたしもその要領をまねてついていった。ふだん動かさない部位は、まねるのが精一杯で、まだ運動になっていないが、温まるほど腹をさすっているうちに、なんとなく効果があるのではないかと期待するようになったからおもしろい。

「何回もやっているうちに慣れてきます。じぶん流儀でかまわないので、とにかく続けてください。就寝起床の前後でもいいです」

 王くんがしきりに励ましてくれている。いまいちピンとこないが、いずれまたということにして、第一日目を終了した。

 早朝の山歩きは明日からはじめることにする。

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