エピローグ
後口上
不思議な夢を渡り歩く大冒険の後。目覚めた弥生は普通に学校へと登校した。
『フロイト』の夢を見たせいで心も身体も疲れきっていた。正直ズル休みをしてしまいたい衝動はあったけれども、さつきをはじめとした他の生徒がどうなったかが気になったし、何より芒雁の安否を確かめたい気持ちの方が圧倒的に勝っていた。
不安を抱えたまま、弥生は教室の扉を開く。扉の先にあった光景に理解が追いつかず、弥生はしばらくあぜんとした。
「な、なんで?」
弥生の目の前には、ぼーっとした表情で座っている芒雁がいた。どこも変わった様子はない。昨日別れた時のままの芒雁葉だった。
弥生はまずほっとしたが、徐々にムカついてきた。ちゃんと無事に戻ってこられるなら、なんで最後に「ゴメン」などと言ったのであろう。朝ベッドで泣いたのがまったく無駄になってしまった。
とりあえず八つ当たりしてやりたい。弥生はスタスタと芒雁の机へ向かうと、正面で芒雁を見下ろす。
「元気そうじゃない、芒雁君!」
弥生は芒雁の机を両手で叩く。語気も強めだった。私をこれだけ心配させたのだ。これくらい八つ当たりの内にも入らないだろう。
芒雁は一瞬ビクッと体を震わせた後、おっかなびっくり弥生の方を見た。
「……元気だけど」
小憎らしい態度と返答だった。やはり芒雁は芒雁のままなのだ。
「昨日のアレはどういう意味だったのかな? 意味深に謝ったりなんかして!」
芒雁は弥生の問いをしばらく考えていたようだが、やがて見せた表情は困惑だった。
「え、なん……」
困惑されると思わなかったので、弥生の方も返答に窮してしまう。なんとか別の質問をぶつけようとしたが、それが言葉になることはなかった。
「何、とぼけてるつもり、よね。それは」
「えーと」
芒雁はいよいよ本当に困ったという態度を見せる。
「……?」
ここまできて弥生は不審に感じる。芒雁が何かを誤魔化したり、隠したりしているようには見えない。それにどこかよそよそしい感じがする。さっき安心した分、逆に不安が襲う。
「……あとでいいから、芒雁君の知っていること。教えてもらえる?」
昼休み中、芒雁君から話を聞くことができた。
だがそれを説明する前に、昼休みまでの間で分かったことを先に述べておこうと思う。
まず眠りから目覚めた生徒の何人かが、学校に来ていた。登校してきた生徒がまだほんの一部なのは予想通りだった。
全員が目覚めたのだとしても、長い時間眠っていた人や元々体の弱かった人は、やはり回復に時間がかかるのだろう。
それでも元の平穏を取り戻すまでそれほどの時間はかからないだろう。
そしてもう一つ。師桐先生がいなくなっていた。
登校していないとか行方不明とかではなく、いやある意味行方不明なのだが、存在そのものが消えてしまっていた。教育実習の先生来ているという事実すら消滅してしまっていたのだ。
「はあ、師桐先生? そんな先生聞いたことないわよ。深刻な男日照りで妄想と現実の区別がつかなくなってるんじゃないの?」
牡丹姉さんに師桐の事を尋ねてみたが、無駄にからかわれるだけだった。芒雁君と同様に、牡丹姉さんもとぼけているようには見えなかった。
妄想と現実の区別がつかないと言われるのは仕方ないが、彼氏がいないことまでイジられる所以はないので、牡丹姉さんにはとりあえず蹴りをかましてチャラにすることにした。
他の先生や生徒も、誰も師桐先生のことを覚えていなかった。
さて肝心の芒雁君である。彼の話によると、彼はここ数日の記憶を完全に失っているとのことだった。
朝起きたら、日付が記憶の中での昨日から数日経っているので、芒雁君本人も当惑したとの事である。
ここ数日の記憶がないので、当然夢の世界での出来事や、生徒が大勢欠席したことも覚えていなかった。
「このことで弥生は何か知ってるの?」
と逆に聞かれてしまう始末だ。いつものふてぶてしさからは想像もつかないほど、しおらしくなってしまっている。
芒雁君はあの夢の最後に、人格ごと記憶を削り取ってライセンスを封印すると言っていた。ジョハリの窓に倣えば、ライセンスを認識している自分にあたる窓を閉めるということだ。
記憶がないことや、気力が失われてしまっていることは、おそらくその後遺症なのだろう。
師桐は少なくとも半数以上の人格を削らなければ、ライセンスは封印できないと言っていた。人格と表現したものが魂なのか、思考能力なのか、あるいは寿命なのか。私には分からないけれど、その影響が出たとしてもまったく不思議ではなかった。
大勢の生徒が昏睡していたこと、ライセンスのこと、そして夢の世界で二人で大冒険をしたことを芒雁君に説明するべきか少し考えたが、私は結局説明することを止めた。
芒雁君はここ数日間の記憶ごとライセンスを封印している。そして師桐先生ももういない。私が口を開かなければ、芒雁君がこの事実を知ることはないのだ。ならば、ことさらに説明する必要はない気がした。というのも、仮に一つ説明してしまえば、最終的に生徒が大量に欠席していた原因が『フロイト』の暴走による昏倒だということも、説明しなければならなくなるのは目に見えていたからだ。
大勢を昏睡させたことは、たしかに芒雁の罪には違いない。起こってしまった事実は、過ちはなかったことにはできない。けれども今さら知ったところでどうしようもないし、それに彼は既に十分すぎるほどの罰を受けている。そして『フロイト』が失われた今、悲劇が再び起こることもないのだ。
償いが済んだ罪はもはや罪ではない。
というわけで。
「さあ? 私が知ってるわけないじゃない」
などと思い切り愛想笑いを振りまきながら、とぼけることにした。
芒雁君はしばしの間、首を傾げて不思議そうに考えていたが、「そうか」と一言いい、それ以上の追及は諦めた。芒雁君はそのまま自分の席へ戻っていく。
今の彼に必要なものは平穏と休息だ。
芒雁君お疲れ様。芒雁の後ろ姿を見ながら、弥生は心の中でそう思った。
師桐先生はいなくなり、芒雁の記憶は消え、他の人はなにがあったのかすら知らない。
「あー、なんか。全部リセットってカンジだなぁ。結構がんばったんだけど、私」
椅子に座りながら、弥生は後方へ大きく伸びをした。伸ばした手が、誰かにぶつかる。
「なーに? ずいぶんお疲れみたいじゃないの」
牡丹姉さんだった。
「うーん、ちょっとね。最近がんばってたんだけど、その努力が報われなかったというか何というか。試合に勝って勝負に負けたというか」
「良く分からないけど。それもいいんじゃない? 若いうちの苦労は買ってでもしろってね」
「……牡丹姉さん。あなた一体いくつなの? セリフが親戚のおばちゃんみたいなんだけど」
牡丹姉さんはホホホ、と笑って誤魔化した。そこだけ見ても年増くさい。
「そういえば芒雁のことなんだけど。さっき弥生と話してたわよね?」
弥生はうんざりした。牡丹姉さんのいつものハイエナモードである。
より面倒なのは弥生以外の人は皆、ここ数日の記憶が失われていることだ。逆に言えば、弥生だけが覚えている状態ということ。弥生自身と周囲で、事実の齟齬が生じていることだ。
牡丹姉さんの頭の中ではどこまで関係が進行してることになっているんだっけ。
「あんた達、そんなに仲良かったっけ?」
牡丹姉さんから芒雁に関する記憶すっかりなくなっているようだった。つまり芒雁はただのクラスメート。それ以上でもそれ以下でもない。
芒雁と初めて話した日からの記憶がないのはなんでだろうと弥生は思ったが、すぐに納得した。師桐先生の授業を初めて受けた日だからだ。
「そういえば芒雁君と初めて話したの、あの夢の授業の日だっけ」
初めて話した日からの出来事がなかったことになっていることを再確認させられ、弥生はまた少し寂しくなった。
「え、何か言った弥生?」
「ううん。こっちの話。で、芒雁君がなんだって?」
「だから仲良かったんだっけ? 芒雁のやつ、さっきあんたのことを下の名前で呼んでたでしょ?」
「……え? あれ?」
そういえばさっきは弥生って呼ばれたような。あれ、でも最初に話した時は名字で呼ばれていた気がする。呼び名が変わったのいつからだろう。
「急に名前呼び捨てなんて、怪しいんだ~。何かあったんでしょ」
少なくても言えることは、記憶がなくなってもそれが与えた影響は無くならないということだ。気持ちは、想いは忘れてしまっても残り続けるのだ。
「……うん。芒雁君の記憶にはないんだろうけど」
弥生がまるで否定しなかったので、牡丹姉さんは一瞬ギョッとしたが。けれどもすぐに好物を見つけた顔をして、「ちょっと、どういうことなの?」とあれこれ聞いてきたけど、弥生は無視して芒雁の後ろ姿を眺めた。
弥生の中にある感情が芽生えていた。それを表現するふさわしい言葉を、弥生はまだ思いつくことができなかった。
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