第37話 お別れ

決着はついた。あとは芒雁が発動している「フロイト」を解除すれば、元の世界へ、日常へと戻ることができる。弥生は安堵のため息をついた。

「これで、終わったんだね」

 未だ人ならざる姿の芒雁は目を瞑りながらゆっくりと首を振った。

「いや、まだだ」

「まだって……。まだ何か?」

 芒雁自分の胸に 手を当てる。

「弥生はこの姿を見てどう思う?」

「どう、……って」

 弥生は改めて芒雁の姿を見る。

 獅子のたてがみ。熊の爪。そして蛇の尾。

 白を基調とした体は黄色い光をぼんやりと放っており、どこか厳かな雰囲気があった。

 いくら芒雁だとはいえ、異形の姿のそれは敵意がないことはなぜかはっきりと分かるのだけれど。それでもどこか近寄りがたかった。この感覚には心当たりがあった。どんな人だって一度は感じたことがあるだろう。一言で言うならそれは……畏怖。

 何も言えずにいた弥生を気遣ってか、芒雁は弥生の答えを待たずに話し始めた。

「まるで化け物だ」

「違う!」

 弥生はとっさに否定の言葉を叫ぶ。しかし考えはまとまっておらず、何がそうなのかを説明する言葉は出てこなかった。けれども、とにかく率直な感想だった。

「たしかに姿は人間じゃないかもしれないけど……。芒雁君は芒雁君じゃない。そう、それに。これは夢なんだから。別にそんな姿だからって気にすること……」

 そんな弥生を寂しそうに見つめながら、芒雁はゆっくりと首を振る。

「これが普通の夢でないことくらい、弥生も分かってるだろ。これは『フロイト』が作り出した深層心理の世界。その人の本性そのものだ。だからこんな姿の俺は文字通り身も心も化け物、人間じゃないんだ。ライセンスっていうのは、そういう力なんだ」

 芒雁は師桐の方へと向き直る。

「それにいくら無自覚だとはいえ、弥生や、八ツ橋さつき、他の大勢の人達を傷つけた。俺は今の社会では裁くことのできない罪を犯したんだ。」

 芒雁の姿を師桐は黙って見ている。

「償いはしなくてはいけない。だから俺は『フロイト』を封印する」

「えっ!?」

 弥生は驚きの声をあげる。

「そして師桐の『ソクラテス』もだ。ライセンスはこの世に存在していい力じゃない」

 師桐も声こそ出さなかったが、弥生と同じ顔をしていた。

「そ、そんなことができるの?」

 芒雁は弥生の言葉にうなづくと、右手を広げ、上に向けた。

「多分可能だ」

 芒雁の右手が淡く光ったかと思うと、まるで右手から「生えて」くるように小さな箱が姿を現した。

「箱……?」

 それは芒雁が、自分の夢の世界で獏の本性を隠していた小箱だ。あの時は箱に封印されていた獏に、人格を侵食され大変な目にあった。芒雁はそのことを弥生に簡単に説明した。もっとも後半の出来事はその場に居合わせていたので、弥生も知っていたが。

「獏には苦労されられたが、獏は『フロイト』の力の根源の一つだったんだ。箱の封印を解くことで、俺はこんな姿になってしまうほどパワーアップできた。……じゃあ、その逆も可能だろ?」

 弥生は、はっとする。これが芒雁君の言っていた、師桐を救うための秘策。

「しかも今度は獏だけじゃない。ライセンスを認識する自分ごと封印する」

 先ほど師桐は言っていた。認識の問題だと。感じることのできないものは、存在しないも同然なのだ。例えば芒雁の夢の中で見た自分の可能性のように。弥生がその存在を認めるまで、芒雁にはそれを感じることができなかった。それはつまり芒雁にとってはないも同然のもの。つまりライセンスを認識できなくする暗示を自らにかけることで事実上、その力を封印することができる。

 師桐は始めここそ驚きの表情で芒雁の説明を聞いていたが、やがて余裕の笑みを浮かべた。

「できるのか。お前にそんなことが」

「今の俺は『フロイト』の力のほとんどを掌握できている。さっきも言ったが不可能ではないはずだ」

「可能か不可能かの話をしているんじゃない。お前にその覚悟があるのかと聞いているんだ」

 師桐は高を括っていた。こいつにはそんな覚悟はないと。ライセンスを封印するということが何を意味するのか分かっていないから、こんなことが言えるのだと。

「獏はお前の深層心理だ。そして表層心理のうちそれを認識する部分。これらを合わせるものが芒雁葉という人間を形成するものの何割を占めていると思う? 決してわずかではない。少なく見積もっても半数以上だ。それらを削り取って無事で済むはずがない。精神崩壊、植物人間になることだって十分あり得る。それでもやれるのか?」

 しばしの沈黙。それを勝機と見た師桐はさらに畳み掛ける。

「まさか僕のライセンスだけ封印するなんてことはしないよなぁ? 自分一人だけがライセンスを使って甘い蜜を吸うなんて、芒雁ともあろうお方がするはずはないよなぁ」

 それは完全に挑発だった。こう言ってしまえば、弥生という第三者がいる手前、芒雁は少なくとも師桐一人だけ断罪することはしないはずだ。そしてリスクを承知で自分に自殺まがいの行為ができるはずがない。よって芒雁はライセンスを封印することを思い留まる。それが師桐の計算だった。

 芒雁は少しの間、師桐を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「それでも、封印する」

 芒雁の答えに、師桐は再びぎょっとする。

「バカな! 貴様、正気なのか!?」

 芒雁は悠然と師桐を見つめていた。

「お前のライセンスは他の人のライセンスを目覚めさせることだけど。お前自身はどうやってその力を手にいれた? きっとお前は自然に身につけたんだ。違うか? お前はライセンスを手に入れた時、何を感じた?」

 芒雁が言う感情。超能力を手に入れ、それを持つ者が世界にただ一人だと知った時の感情。

「前にお前は俺に聞いたよな。もし今のこの地球に知的生命体がたった一人でやってきたとしたら、我々人類はどのような行動に出ると思うって。お前が自分がそうだと思ったから、俺にこんな質問をしたんじゃないのか?」

 虐殺される。師桐はその時そう答えた。

「ライセンスホルダーであることが、寂しかったんじゃないのか? 本当は普通でいたかったんじゃないのか?」

 師桐は何かをこらえているようだった。

「は……」

 そしてその後。

「ははははははははははは!」

 堪えきれなくなり大笑いをした。

「え、な、なん?」

 弥生は師桐が突然笑い出したので困惑する。

「はははっは。寂しい? 何を言い出すかと思えば。ははははは」

 ひとしきり笑うと、師桐はすっと真顔に戻った。

「寂しい、か」

 芒雁からその言葉を聞くまで、師桐は自分が寂しいと感じているなど思いもしていなかった。だがすぐに納得できたのは薄々は感づいていたからかもしれない。

「ライセンスは封印するべきだ。それが救いになるだろう。お互いにな」

  師桐は観念したようだった。芒雁には何の打算もない。ただ芒雁自信を含め、師桐を救おうとしている。小細工はもはや、無意味だった。

 師桐の問いは無視し、芒雁は再び弥生の方を向く。

「弥生とは、ここでお別れだ」

「……え」

「ここは師桐の深層心理世界だ。師桐の『ソクラテス』を封印することでこの世界にどんな影響が出るか分からない。そして俺の『フロイト』を封印してしまうと弥生が無事に帰れるかが分からない。だから、今ここで。お別れだ」

 弥生をログアウトさせようと芒雁が構える。そのあとの弥生の動作はほぼ反射的だった。その動きを制するために弥生は芒雁に抱きつく。芒雁の腰辺りに手を回し、ぎゅっと押さえつけた。

 芒雁はそんな弥生を静かに見つめていた。

「芒雁君、死んじゃうつもりじゃないよね? ちゃんと帰ってくるよね?」

 芒雁は弥生の行動に少し驚いていたが、やがて自分の獅子のような爪で弥生を傷つけないように、そっと弥生の頭に手を乗せた。

「大丈夫。明日ちゃんと会えるさ。学校で」

 お菓子の夢の中で芒雁が言った言葉と同じだった。つい昨日聞いたばかりなのに、胸が締め付けられるほど、ひどく懐かしい。

「ホントに?」

「ああ」

 芒雁君の言葉が芒雁君に触れている所から伝わってくる。

「約束だからね」

「ああ」

 弥生はゆっくりと芒雁から離れた。芒雁は再び構え直す。

「弥生」

「ん?」

「ゴメンな」

 それと同時に視界が暗転し、師桐の世界から弥生は切り離された。



 弥生は目を覚ますと、がばっと上半身を起こした。

 カチ、カチ、カチ……。

 時計が動く音だけが、静かに部屋に響き渡る。

「なに……?」

 弥生は掛け布団ごと膝を抱える。

「最後のゴメンは、なによぉ……」

 弥生は布団に顔を押し当て、泣いた。

 時計の針だけが、いつもと変わらず時を刻み続けていた。

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