第36話 秘策
芒雁を斬った瞬間、師桐から笑みがこぼれる。性欲の発散にも似た快感。生存本能が満たされていく感覚。師桐は切ったあともその余韻に浸る。だがその幸せも束の間だった。
師桐はその異変にすぐに気づく。斬った芒雁の断面はマンガのベタでも塗ったかのように真っ黒だった。その黒がうごめいている。
芒雁の決定的な何かを断ち切った実感があった。やつは死んだはずだ。なのに芒雁はまだ動いている。
ずるり。芒雁の体の断片から明らかにそれよりも大きな物が這い出てくる。
「……お前か」
師桐の前に現れたのは芒雁の世界で芒雁から出てきた、あの獏だった。
「芒雁め。はなから僕と心中するつもりだったのか」
芒雁の下半身から影が飛び出す。獏のシルエットを描いた影は鞭のようにしなり、師桐へと襲いかかった。
師桐は獏の殺気を感知し、空中へ逃れようと跳び上がる。だが影の速さは師桐のそれを遥かに凌駕していた。獏の影は口を大きく開けると牙をきらめかせ、持っていた刀ごと師桐の下半身と右腕を食いちぎる。
一瞬の出来事だった。
「ぐあ……」
空中で師桐を喰い千切った獏は悠々と地面に降り立つと、師桐から食いちぎった部分をぐちゃぐちゃと咀嚼した。
師桐はすぐに再生を試みるがうまくいかないようだった。
「『フロイト』に否定されたものは存在できないというわけか。『フロイト』が食したのだから。同じものがもう一つ存在することは『フロイト』が許さない……!」
獏が獲物を狩る体勢で師桐ににじり寄る。その姿はライオンにそっくりだ。
「芒雁め。主人格と獏たる人格をあらかじめ切り離していたか。どうりで先ほどまでの芒雁に何の手応えも感じないわけだ」
グモモ、と獏が返答するかのように唸った。
「勝負は引き分けか」
ハハハと高笑いしながら、師桐はゴボリと血を吐いた。
「それもまあいい。僕はこうして食われるが。芒雁、お前だって主人格は死に、その獏のような本性でこれからを生きていくのだからな」
「させない」
一陣の風が吹いた気がして、師桐は振り返ろうとする。ふ、と目の前が暗くなり師桐の前に何かが立ちはだかる。三桜弥生だった。
「みさくら……」
「私は芒雁君をこのままにはしない。そして師桐、あなたを芒雁くんに殺させやしない。それが私の、そして芒雁君の願いだから」
弥生は握りしめていた手を開き、獏の方へと向ける。その手には真っ白に光る小箱が握られていた。獏へ近づけると箱は一層輝きを増し、獏はたじろいだ。
「『フロイト』を恐れないで。自分を信じるの」
弥生が持っていたもの。それは芒雁本人には見ることのできなかったもの。ジョハリの窓の"hidden-self window"の向こう側にあるもの。芒雁の世界にあった「芒雁の可能性」の一つ。弥生は箱のフタをゆっくり開けていく。
箱の中からあふれる光が獏の黒い体を白く塗りつぶしていく。その光の中で、醜い四つ足の獣は徐々にその輪郭を変化させていった。一方で箱の光は弱くなっていく。
光はどんどん小さくなっていき、最後はただの空箱になった。一方で残された獏の体は白く、今までのような禍々しい雰囲気は感じられなくなっていた。獏がのっそりと立ち上げる。獏はもう四つ足ではなくなっていた。
「……心配かけたな。弥生」
獏は声を発してはいなかった。弥生の心に直接語りかけている。
「……芒雁君」
弥生が芒雁と呼んだそれは芒雁であり、獏であった。芒雁の夢の世界や先ほどまでのように、獏と芒雁は別々の存在ではない。
二つは統合されていた。
二本足で立つその姿は人間と同じであったが、体格は先ほどまでの獏同様とても大きい。全身は白銀の毛に覆われていて、顔には獅子のごとき、たてがみがたなびいている。そして背には大きな羽が生えていた。その姿は神々しく、見ているだけでため息がでそうになる。
師桐が天を仰ぎつつ嘆息する。
「獏は伝説上の生き物だ。しかも鵺やキマイラと同じく不定形の存在。昔の絵巻に姿が描かれてもいるが、河童や人魚などのように、はっきりとした姿が認知されているわけではない。
つまりな。気持ち悪い姿だと想像した人には気持ち悪い姿が。美しい姿だと想像した人には美しい姿に見える。何度も言うようにどう見えるかは認識の違いなのだ。芒雁、お前が夢喰いの能力をどう認識しているか。その姿を見るだけで一目瞭然だ」
師桐には既に敵対する気持ちはなく、どこか晴々とした顔は満ち足りているようだった。
「これがキミの秘策か」
芒雁の秘策。それは師桐が予想したとおり自分を分けておくことだった。芒雁は自分を主人格と、『フロイト』を忌むべき存在として認知している獏たる副人格に分けた、と師桐は考えた。
しかし芒雁はさらにもう一つ自分を分け、弥生の持つ箱に封じていたのだった。それが三つ目、『フロイト』を受け入れた獏たる自分だった。どちらも獏だが、『フロイト』の受け止め方がまったく異なっているのはその姿を見れば、それこそ文字通り、「一目」瞭然だった。
師桐は獏に体の大半を食いちぎられ、もはや自由に動けなくなっていた。
「博打を打ったものだな。いくら主導権を黒い獏や箱へ移していたとしても、今まで主人格だった存在を殺すことになるんだぞ。ヘタをすれば精神崩壊しかねないし、上手くいったとしても人格変容が起きることになる。恐怖はなかったのか?」
芒雁は表情をまったく変えず、弥生にしたのと同じように師桐の心へと直接語りかける。
「それが師桐、お前の最大の勘違いであり、敗因なんだよ。お前が斬った俺は主人格なんかじゃない」
「なんだと?」
「黒い獏、あれがきっと俺の大部分を占める存在なのだと思う。理性などない、自分の欲求を満たすことが行動原理である存在。そして俺の理性を司っていたのが、弥生に預けたあの箱に閉じ込めた俺。いや、閉じ込めたのではなくあの箱で守っていた……かな」
「あの箱に入っていた芒雁とは一体……?」
「これが本当の芒雁君」
既に空き箱になった箱をなおも大事そうに抱えて弥生が一歩前へ出る。
「少し触れるだけで傷ついてしまう、デリケートな自分。そんな自分をさらけ出して生きていくことなんてとてもできないから。だから人は本当の自分を守るための殻となる人格を作り出すの。それは社会性とか協調性と呼ばれるもの。あるいは……」
ペルソナ。ジェンダー。表層心理。それを指す言葉は無数にあり、しかしどれも正確ではない。
「三桜弥生。お前にはそこまで分かっているのか。芒雁のことを」
「殻の人格を作り出すことって何も芒雁君に限ったことじゃない。多かれ少なかれ、みんな猫をかぶって生きている。だから分かるのは当然」
とはいえ、認識している人はそこまで多くはないだろう。弥生は認識せざるを得ないような出来事が昔あったから分かるだけだった。あえて断定したのはハッタリだった。
「師桐先生、あなたは違うの?」
「……」
師桐は強い人間だった。他人の意図を読むことができ、そして期待に合った人間に自分を作り変えていくことが容易にできた。しかしそれができない、芒雁や弥生みたいな人間もいる。
「俺一人で辿り着けたわけじゃない。自分の深層心理の世界に行き、獏を見せつけられ、そして弥生が俺も知らない俺を見つけてくれたからこそ、俺は変わることができたんだ」
「そして殻に守られた本当の芒雁を認識し、芒雁が捨て身で預けることができる人間がいたことこそが、僕の敗因なのかもしれないな」
師桐はそう言いながら、弥生の顔を見る。負けたにも関わらず、その顔は晴れやかだった。
「芒雁葉。完敗だよ」
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