第20話 善と悪

 師桐がいた教材準備室は、準備室とは名ばかりのただの物置だった。普段は生徒はもちろん、教師もめったにはやってこない。

 なぜこんな所に師桐がいたのか。教育実習で来た先生に与えられる場所がないほど、この学校は狭くはない。あえて師桐がここにいる理由は芒雁には分からなかったが、しかし邪魔が入らない、という意味では好都合だった。

「僕に人生相談? 芒雁君のお役に立てるでしょうか」

「ある奴が俺の友達を傷つけているんだ。傷つけると言っても体に危害を加えるわけじゃない。ただ眠りから覚めなくするだけ。方法はわからないけど。なぜ犯人はそんなことをする?」

「それは生徒達が大勢欠席している話ですか?」

 芒雁と師桐はジッと相手の反応を伺っていた。

 芒雁は確信していた。この事件の犯人は師桐だと。しかし何せ夢の中での話だ。物証がない。

 芒雁は探りを入れるため、そしてあわよくば師桐がボロを出すのを期待して、ここを訪れていた。

「私にはその犯人については何も言えませんが。一般論としての善というものについて少しお話ししましょうか」

「善についてだと?」

 この突然の話題の跳躍。芒雁には聞き覚えがあった。

「一般論と言っても社会常識という意味ではありません。あくまで特定の何かを示唆する具体論ではない、という意味です。倫理についての問題に、ただ一つの正答など存在しない。これから話すのは僕が答えだと思っていることの一つです。この答えだって、前提状況によっては間違いになることだってある。そんなあやふやな話だと思っていてください。」

 師桐は慎重に前置いた。

「まず強迫神経症という精神病を例にあげましょう。今では強迫性障害と呼ばれていますが。例えば汚れてないか不安で手を洗わずにはいられないとか、忘れ物が不安で確かめられずにはいられない、といった病のことです。この障害を持った人と持っていない人の違いは非常に曖昧だと思いませんか? 誰だって手が洗いたくなる時はあるし、忘れ物が不安な時もある」

 師桐が挙げた脅迫性障害の症状は病だと言うこともできる。しかしその人のパーソナリティ、個性だと言うこともできる。物覚えが悪い、手が不器用だ、滑舌が悪い、人見知りをする。似たような話は枚挙に暇がない。

「この両者の境界線は何なのか。それは『社会が許容できるか否か』なのです。もし現在、強迫性障害で苦しんでいる方がいるとして。その人が普通の生活を送る上で、何ら苦しむことのない環境を社会が用意することができたなら。その人はもはや病人ではない。しかし実際に脅迫性障害という言葉が存在するということは、我々の社会は病であるとしているということ。人間の社会が許容できる人間の多様性は、我々が思うよりも少ないのです」

 それは極論であり理想論であると芒雁は思ったが、今は口を挟まないようにした。

「別の例を挙げましょう。過去の天才、偉人の中にはその業績を、生前まったく評価されなかった人が多くいます。死後その功績が認められるのは、過去の社会がその人を受け入れるだけの器がなかったことに他なりません」

 高校の生物の教科書でお馴染み、メンデルの法則で有名なメンデルはその功績が認められるまで、彼の死から十五年を必要とした。

「何も昔の話だけではない。自閉症やサヴァン症候群などの、現代では精神疾患と捉えられる気質を持った人達がいます。彼らの中には一分野で天才的な能力を発揮することができる人がいます。驚異的な記憶力を持っているとか、何十年も前のある日が何曜日なのかを瞬時に計算してしまうなど。ですが社会は彼らを病気だとしてしまっている。凡人には不可能なことを可能にする能力があるのにも関わらず」

 師桐が言うような能力を持つ人間を紹介するテレビ番組を、芒雁君は見たことがあった。ただバラエティ番組だったので、どこまでが本当で、どこまでが番組の『ヤラセ』なのかはイマイチ分からなかったが。

「何が普通で何が異常なのか。何が善で何が悪なのか。それを決めているのは社会であり、社会を構成するマジョリティーです。マイノリティーは常に迫害される立場にある」

 師桐は目をつぶり、感慨深そうな顔をする。

「長くなってしまいましたが。私が芒雁君に言いたいのは、その犯人の行動やその意味を理解できなくても。ただちに悪だとは限らない、ということです。なぜなら芒雁君が悪だと思った理由は、未熟な社会観や倫理観に基づくものなのかもしれないのだから」

「そいつが悪事を働いているのは明らかなんです。己が目的のために、何人もの人を傷つけている」

「実は被害者だと思っている人が悪事を働いていて、その人は罰を与えようとしているだけかもしれない。大事の前の小事、必要悪だと割り切っての行動かもしれない。もしくは一見傷つけているように見えていてもそれ自体が救いなのかもしれない」

「師桐先生は犯人の肩を持つつもりなのか?」

 師桐は大仰に手を振ってみせた。

「いいえ。視野を広く持て、と言いたいだけです」

「傷ついているのは俺の知り合いばかりなんだ。少なくとも俺には、彼らがあれほどの罰を受けるほどの罪を犯したとは思えない」

 芒雁の脳裏にはさつきと、弥生の顔が浮かんでいた。他の欠席している生徒にしたって、根っからの悪人など一人もいない。

「それでは他の可能性なのでしょう」

「……」

「……」

 芒雁がまったく納得していなかったので、師桐は観念したかのようにため息をついた。

「芒雁君はその犯人とやらを意地でも捕まえるつもりですか?」

「はい」

「生徒達が大勢欠席している件については、既に警察が捜査していると聞いています。彼らにまかせておけばいいじゃありませんか。もし芒雁君が捜査上重要な情報を持っているのだとしたら、彼らに報告すれば良い。そうすれば、別にあなたは悪を見逃したことにはならない。義を見てせざるは勇無きなり、とは言われないでしょう」

「最終的にはそうするかもしれません。けれども自分でできる範囲のことはやりたいと思っています」

「危険かもしれない」

「覚悟の上です。それに……」

「なんでしょうか」

「俺は先生の言う、未熟な社会で育った人間で。俺自身も未熟で視野の狭いガキかもしれないですけど。目の前で悪だと思えることが行われていたら、それを社会や自分のせいにして見逃すことは絶対にしません。そして俺の力でどうにかできるのなら。全力で阻止します」

「……いい心がけだ」

「失礼します」

 芒雁は教室を出て行った。芒雁がいなくなった部屋を師桐はじっと見続ける。

「思ったよりも成長が早い。やはり、殺すしかないか」

 その師桐の声はとても残念そうだった。

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