第18話 デカルト劇場(後)
さつきの病室の前まで来ると、弥生は目をギュッとつむり、いつものおまじないを唱えた。既に気持ちは落ち着いていたが、念には念を入れるためだ。
部屋の入り口をくぐりさつきのベッドを見る。芒雁の予想通り、さつきが目を覚ましていた。
さつきは上体を起こし、窓の外を眺めている。ここからでは後ろ姿しか確認できなかったが、姿勢良く背筋を伸ばしている様子を見るに元気そうではあった。ただ数日前に学校で見たときよりも、ずいぶんと線が細くなってしまったようだ。肌も一段と白くなり、目に見えてやつれているのが分かった。
以前見舞いに来た時のように母親がいるかと思ったが、今は一人のようだった。
「さつき! 良かった。目を覚ましたみたいね」
弥生はさつきの元へと駆け寄る。
「弥生ちゃん、待ってたよ。窓から弥生ちゃんの姿が見えたからそろそろ……」
弥生の方へ振り向きながらそこまで言いかけて、さつきはギョッとした。
「弥生ちゃんどうしたのその顔! もしかして泣いてるの?」
「え、ウソ。私泣いてる?」
弥生は目を手で拭った。別に悲しくはなかったが、目からは涙が零れていた。弥生の視界は涙でぼやけていた。今に始まったことではない。学校を出てからずっとだ。落ち着いて考えればすぐ自分が泣いていることくらい気づけたはずなのに、さつきに言われるまでまるで自覚できなかった。気持ちを切り替えて落ち着けたと思っていたのは自分だけで、本当はパニックで泣き続けていたのだろう。
「目も鼻も真っ赤じゃない! かわいそうに……」
さつきは弥生へ駆け寄るために、ベッドから飛び出そうとしたので、弥生は慌ててさつきを制止した。いくら眠っていただけとはいえ、何日も飲まず食わずで寝たきりだったのだ。点滴で栄養補給はしていたかもしれないが、身体が弱っているのは間違いない。
「あ、さつきは無理しちゃダメ。私は大丈夫だから。ちょっと落ち着けば、きっと」
弥生はさつきのベッドの隣に置かれたスツールに腰掛けた。
さつきが心配そうに見ている中、弥生はいつもの自分になろうと心の中でおまじないをとなえる。私は女優。どんな役でもこなせる女優だと。
「弥生ちゃん、もし良かったら何があったか話してみて。相談に乗るよ」
「大丈夫だって。むしろさつきの方が病み上がりで弱ってるんだから、自分の心配をしなくっちゃ」
弥生は普段の二割増しくらいで笑ってみせる。そんな弥生とは対照的に、さつきの表情は暗くなった。
「弥生ちゃん」
「ん。なあに?」
「先に謝っておく。私これからひどいこと言って傷つけるかも」
さつきは神妙な面持ちをしていた。というか少しむくれていた。
「まずさっき私が言ったこと、言い直すね。弥生ちゃん。『弥生ちゃんが良くなくても』私に何があったか話して」
「どうしたのよ、急に。私なら本当に平気だって」
「弥生ちゃんてさ。ウソつくときあるよね」
「え?」
さつきの表情は真剣だった。
「特に自分の事を話すときとか。はぐらかしたり、当たり障りのない事を言ったり。その時の弥生ちゃん、自分のことを話すフリをして別の誰かのことを話してるよね。実際にはいない、けれども誰もが想像できる典型的なキャラ。女子高校生。それ以上に表現の仕様がないのっぺりとしたキャラをさ」
高校生になってから親友とも呼べる友達を二人も作った。だってそれが普通だから。
授業中におしゃべりをして注意をされた。だってそれが普通だから。
友達のお見舞いに行くときはきちんとお土産を買っていった。だってそれが普通だから。
自分がそうしたいから行動してきたのではないのか。だって、それが。
「そ、そんなことない。さつき、何を言っているの?」
「はぐらかしたってダメ。私には見え見えだよ。とにかくありとあらゆる手段使って、他人との間に壁を作って、絶対自分の大事な部分まで他人を近寄らせないようにしている時、あるよね」
さつきの言葉が弥生の心のまだ膿んでいた部分に触れてしまう。弥生は立ち上がり、さつきに向かって叫んでしまう。
「さつきにだって話したくないことの一つや二つあるでしょ。それを言えっていうのはプライバシーの侵害だよ! 話してないことがあったらいけないの?」
それはついさっき弥生が芒雁に言われた言葉だった。言い終わってからハッと我に返り、さつきを見る。
「あ、さつきごめ……」
弥生が言い終える前に、さつきの言葉が弥生を遮った。
「いけないことじゃないよ! いけないことじゃないけど。でも弥生ちゃん。そういう時よく笑うけど、その笑顔がとっても辛そうなんだもん!」
言いながら、さつきはポロポロと涙をこぼした。
「さつき……」
「弥生ちゃんの人生は弥生ちゃんのものだから、どう生きようと弥生ちゃんの勝手だけど。でももし。自分を偽るのが辛いなら。私や牡丹姉さんの前でくらいはウソつかなくてもいいんだよ? 私達、そんなことで弥生ちゃんのこと嫌いにならないから!」
泣き顔で、さつきは一生懸命笑ってみせる。
「だって私達、友達でしょ?」
人見知りの自分だけど。他の人みたいに充実した高校生になりたい。そう思って作った友達だった。けれどもその友達は誰でも良かったわけではない。さつきで、そして牡丹でなければダメだった。それは間違いなく私の本心。そう確信できる何かが確かに目の前にあった。
さつきの顔に、言葉に、弥生は居ても立っても居られなくる。気がつくと弥生はさつきに抱きついていた。
弥生はギュッとさつきを目一杯抱きしめる。さつきも同じく抱き締め返してきた。そのまま二人はお互いの胸で、泣いた。
ペルソナという言葉を知ってから。正確には、偽っている自分を自覚しだしてから、弥生の心には穴が空いていた。むしろ、今の今まで空いていた穴に気づいたというべきか。
たしかに理想の自分を演じることで、自分の心が傷つくことはなくなった。でも、それと同時に満たされなくなってもいた。偽りの言葉。偽りの気持ち。偽りの自分。偽っているつもりが、それこそが自分だと思えてしまう、平均台に乗っているかのような不安。
それでも心が傷つくよりはまし、と偽りの自分を演じ続けてきた。
「でもな、演じ続けることの方が辛く感じたら。素直な自分を出してもいいんだぜ」
あの時の男の子の言葉が聞こえた気がした。
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