第17話 デカルト劇場(前)
放課後。終業のチャイムが鳴ると同時に、弥生は芒雁を呼び止めようと立ち上がった。さつきの所へ一緒に行くためだ。芒雁の様子を見ると、ちょうど教室を出て行くところだったので、弥生は慌てて芒雁を呼び止めた。
「芒雁君! 一人で行かないでよ。どうせ同じところに行くんだから一緒に行きましょうよ」
「行くってどこに?」
「さつきの所に決まっているでしょう? 朝そう話したじゃない」
「俺は行かねえよ」
「へ?」
てっきり芒雁君も行くとばかり思っていたので、予想外の答えに弥生は素っ頓狂な声を上げる。
「え? だって私に頼んだじゃない。芒雁君は行かないの?」
「行かないよ」
「……なんで?」
芒雁に理由を尋ねる弥生の脳裏には、屋上での芒雁の顔が浮かんでいた。あの時の芒雁君の、根掘り葉掘り聞かれることの不快感を、そのまま表した顔。弥生に対しての、拒絶。行かないと明言されている以上、理由を追及してもまた険悪になりそうでためらわれた。
「なんで……って。俺がいないといけないわけじゃないし。三桜だって女子だけの方が気が楽だろ?」
芒雁はそんな弥生の気持ちにまったく気づいていない様子だった。
「それは、そうかもしれないけど……」
たかだか芒雁君、男子の一人に嫌な顔されて、そしてちょっときつい言い方をされたくらいで、こんなにも自分の調子が狂ってしまうとは。弥生自身にも驚きだった。はじめは小さな歯車がちょっとズレただけだったのに、気づけばいつもの自分が保てないくらいにまで自分の中の何かが狂ってしまっていた。
「どうしたんだ。えらくマジな顔しちゃって」
芒雁に表情のことを指摘され、内心悟られた気がすると癪に障った。そこまでのことはされていないはずなのに、芒雁に当たり散らしたくなる衝動に駆られる。
「……なんでもない! じゃあ、私はもう行くから!」
これ以上ここにいることができなかった。またヒステリーを起こしてるとでも言われれば、それこそ爆発してしまう。弥生はまだ自制心が残っている内に教室から飛び出した。
「……なんだあいつ。変なの」
教室に残された芒雁は呆気にとられるしかなかった。
「まあ、三桜がついてくるとか言い出す心配もなくなったし、好都合か」
そう言い残すと、芒雁もどこかへ向かって行った。
弥生はさつきの元へ向かいながら、気持ちを落ち着けようと必死に自分をなだめていた。芒雁に対してああも傷ついたり、カッとなってしまったりした理由を、理屈では分かっているのだ。ただ気持ちは、弥生の心は理屈を即座に飲み込めるほど都合良くはできていなかった。
幸い、さつきの入院している病院までは距離がある。気持ちを落ち着かせる時間は十分にあった。
ザッ。
テレビのチャンネルが変わるかのように、弥生の頭には幼い頃の記憶が映し出されていた。
目の前に自分と同じくらいの背丈の男の子がいる。
「なんだよ。弥生はまた泣いてんのかよー」
幼い私はまた泣いていた。理由はもう思い出せない。けれどきっと些細なことだ。小さい私を泣かすには些細なことでも十分だった。
「……っく。ひっく。だってー」
「弥生はさー。ほんのうのままに動きすぎなんだよなー」
「……どういうこと?」
「そのまんまだよ。本心でしゃべろうとするから、しっぱいしたくないって思って、何もしゃべれなくなるし。わるぐち言われた時にきずついて、すぐ泣いちゃうんだよ」
「……じゃあ、どうすればいいの?」
「いい子を演じればいいんだよ。オレなんかさー。親父がすぐ殴ってくるんだ。なんにもしてないのにだぜ。だから親父の前ではいい子演じてやるんだ。母さんの手伝いしたり、肩たたきしてやったりな。弥生は頭いいからできるだろ、そういうの」
「……どうかな。自信ないや」
「演じる時のコツはじょゆうになることだぜー。あたまの中にカントクをおくんだ。メガホンにぎってイスにふんぞりかえってすわってるカントクをな。で、自分はそのカントクがカントクしてる映画の主人公なんだ、って思うんだ。はじめは恥ずかしいかもしれないけど、すぐになれるさ」
そう言って男の子はニカっと笑って、私の頭をガシガシとこすった。私はビックリして、あとほんのちょっぴり痛くて、また泣いたように、思う。
幼い頃、人見知りだった自分に友達が、しかも男の友達がいたことは驚きだった。
そんな会話をした時からか。少しずつ、だけど確実に弥生は誰が見ても愛想がいい、明るい子になっていった。今では水無月牡丹や八ツ橋さつきのような親友もできた。
ずいぶん後になって、中学生くらいの頃だったか、ペルソナという言葉を知った。人は社会で摩擦なく生きていくために、外用の人格を、それこそ文字通り仮面を被るように身につけるのだそうだ。社会が、周りのみんなが期待する人格を。男は男らしく。女は女らしく。昨今、ジェンダーという言葉がもてはやされているが、意味するところは同じだろう。あの子は私に、世間一般よりは一足早く、ペルソナを被るという処世術を教えてくれた。
だが明るくなったといっても、仮面をかぶっている時だけだ。弥生の本質がすぐに変わったわけではない。さすがに記憶の中の幼い頃のように泣いてしまうことはなくなったが。
それでもうっかり仮面を外している時に受けた傷は、たとえささいなものでもカウンターパンチを食らったみたいに弥生の心に突き刺さった。普段晒していないだけ、絆創膏の下の皮膚のように敏感になっているのかもしれない。
それよりも弥生が分からなかったのは、いつの間にか芒雁と仮面を外して接していたことだ。弥生自身でさえ、自制が効かなくなるまでまったく自覚がなかった。
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