故郷の花

@naoko_hatano

第1話

まだ吐く息が白い季節に、私は故郷の駅の下りホームに降り立った。

ここに戻ってくるのは、およそ十年ぶりだった。

出て行った時と同じように突然戻ってきた私を、地元の友人たちは温かく迎えてくれた。

「久しぶりやね。ねえ、今度ね、駅の方にできたお店に行こや。新しいお店、いっぱいあるねんで」

「嬉しいなぁ。せや、春になったらお花見行こな。昔よう行ったやろ? 馬見丘陵、覚えてる?」

仕事はどうした、とか、夢は叶ったのか、などとは、彼女たちは私に何も訊かなかった。それはたぶん彼女たちの優しさで、けれど私は彼女たちに甘えつつも、胸の内に惨めさを感じていた。

皆の人生がそれなりに順調なことは風の便りに聞いていた。結婚して地元を離れた子もいる。遠い土地で彼女たちの話を耳にしていた頃は、「自分もやってやるんだ」「そのためにここで今まで頑張ってきたんだ」と己を奮い立たせてきた。

けれど今、私は彼女たちの話を風の便りではなく、彼女たちの目の前で直接聞いている。

私は彼女たちに語ることが、何もない。

空っぽだった。皆の優しさが伽藍堂の身体に空しく響いた。


昔、皆と行ったお花見は楽しかった。奈良といえば吉野桜と言われるけれど、中学生の頃に自転車で遠出した公園の桜が、私たちにとっては最高の桜だった。

けれどあんな日々はもう、来ない。

私の才能は花咲かずに終わった。春などどこにも来ない。

ならば、彼女たちとの温かな思い出も、もう記憶の中にしかあり得ない。

劣等感に苛まれ、そんな風にしか考えることができなかった。

皆には悪いが、このまま距離を置いてしまおうか。私は休日のたびに誰かかしらくれるお誘いを断り続けていた。

そうやって三月になった日曜日のこと。


ある日、友人たちが勢ぞろいで実家まで尋ねてきた。

どうやら母には根回し済みだったようで、「あんた暇やろ。せっかく来てくれてんから、早よ支度し」とせっつかれる。さすがに断りきれず、今日一日を乗り切る覚悟を決めて、私は皆と出かけることにした。

「……今日はどこに行くん?」

「内緒! ヒントは鹿!」

「奈良公園か」

奈良盆地にある小学校なら、遠足で一度は必ず行く場所ではないだろうか。県外の人には「鹿は奈良のいたるところにいる」と思われているかもしれないが、いるのは奈良公園だけだ。

しかしこの季節にか、と少し憂鬱になる。奈良の三月はまだ冷える。日中は温かく思えても、日陰は寒く、事実今日は全員がコートである。

久しぶりに見た鹿はかわいかった。が、それだけだ。あとは駐車場近くの適当な喫茶店に入って、おしゃべりして終わりかな、と考えていた。

ふと、見慣れない道を歩いていることに気が付いた。周囲は観光客ばかりだ。こういうところにも喫茶店はあるだろうが、常に満員だろう。

「なあ、どこ行くん?」

私は最初と同じ質問をもう一度した。友人たちは笑いながら、「内緒」と言う。そして最初と同じ子が言うのだ。

「ヒント、神社」

神社? 寺も神社も豊富にあるが、ここらで一番大きな神社なら春日大社だ。そこだろうか?

「たぶんあんたは行ったことないと思うわ」

「私も大人になるまで来たことなかった」

「小学校の遠足やと、奈良公園の鹿と東大寺の大仏しかいかへんもんね」

友人たちが口ぐちに言う。一体どこに行くと言うのだろう。

私はコートの襟元を寄せる。行先がわからないということが、急に寒さを思い出させたのだった。


そんな私の目の前に「着いたよ」という言葉と共に飛び込んできたのは、それは見事な桜だった。

「桜……? 梅、じゃなくて?」

戸惑う私に、「枝垂桜だよ」と友人が教えてくれる。

簾状の細い枝に鈴なりに咲いた花が、私の頭のすぐ上で軽やかに、薄紅色の花弁を揺らしている。手を伸ばせば届くけれど、触れてしまうのは躊躇われた。まだ寒気の残る奈良の地で、春の花が咲いている。


ここは氷室神社。奈良で一番、桜が早く咲く場所。


「馬見丘陵のお花見が待ち遠しくてさー。……あんたと一緒にまた桜が見たくって」

ひょいっと、友人の一人が、私の顔を覗き込む。


「元気出た?」


また遊ぼうね。

彼女たちの言葉に、ずっと気のない返事をしていた。

私が彼女たちと以前のように付き合うつもりがないことを、彼女たちも当然気づいていた。そしてその理由も。


「あんたさ、昔っから意地でも私らに弱いとこ見せなかったけどさ。……でも、私らが傍に居ることだけは忘れんといて。私ら、あんたが頑張ってたこと知ってるからね」


寒さなどどこかへ行ってしまったらしい。顔がほてって、目頭が熱くなる。

十年間離れていて、私は忘れてしまったのか。

小学校の運動会で転んだ時、中学校の部活の試合で負けた時、高校の試験の成績が思わしくなかった時。

困って、悩んでいた私の傍にいてくれたのは、優しく励まそうとしてくれたのは、いつでも彼女たちだった。


「よし、写真、写真撮ろ!」

私の様子を察したらしい。負けず嫌いの私が人前で泣かないよう、わざと明るい声を出す。バシバシと私の肩を叩いてから、桜の木の下に私を引っ張り、皆が周りを囲んでくれる。

「自撮り難しいっす! 桜入らないっす!」

「誰かその辺の人に頼も!」

「すいません、写真撮って……あああしまった、外国の人や!」

「写真撮るって英語でなんて言うん? ……エクスキューズ、プリーズフォト!」

皆が大騒ぎしている様子に、ようやく私は懐かしさを感じ始めていた。


私はまだ、夢破れた自分を好きになることはできない。けれど。


「なんか、ワン、ツー、スリー、スマイル!で撮るらしい」

「ようそこまで意思疎通できたな」

「チーズやなくてスマイルかー」

友人の一人が「おもろいな、『笑って』やって」と私に微笑みかける。

彼女の言葉に、私も、微笑みながら頷く。


『Are you ready? One,two,three …smile!』


私は帰ってきた。私を心から思ってくれる旧友たちがいる、奈良(ふるさと)に帰ってきた。


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