雪が舞い落ちた後は

ペペペチーノ

第1話

「ひゃっ、冷たい」

 手袋から手を引っこ抜いて、雪に触れた彼女はそう言った。

 僕は彼女の表情を眺める。

 少しはしゃいでいて、赤く染まっている頬。振りまかれる黒髪は、この雪景色の中ではとても絵になる。

「なにじろじろ見てんの! 変態!」

「はしゃぐと他人から注目を集めるんだよ」

「精神力で私から目をそらしてよ」

「精神力弱いから無理だよ」

 この寒い季節の中、雪山を登ろうと言い出したのは彼女のほうだった。

 僕はそれを断らなかった。なぜかって、僕は基本的に押しには弱い人間だから。

 でも、こんな関係も悪くない。僕らは高校一年生の時から付き合っているが、今だに大した不満を抱くことがない。もうすぐ付き合ってから一年が経ちそうだというのに、だ。しかし、ひそかな不安もあるのだ。クリスマスは過ぎた。愛だのなんだのを囁く時期は終わり、なにもしないまま関係は絶頂を超えてしまった、そんな予感がある。

 彼女もそんなことをうっすらと感じ取っていたのだろう。この無駄にしんどそうに思える登山は僕らの関係性を強固にするためのものなのかもしれない。

「さっ、いこ!」

 彼女が手を差し出す。

 その手を握る。手袋越しの体温。

 本来なら先を行くのは男の役割のはずなのに、いつも彼女が先を行っている。僕はそれが悔しくて、彼女を追い抜いて前に出る。

「狐、でないかなあ」

 そんなぼやきが聞こえる。

「熊ならでるかもね」

「襲われたら君は命を懸けて私を守ってくれる?」

「うーん……」

「決断力が低くてかっこよくないよ」

「熊って今の時期冬眠してるよね」

「……たしかに」

 この登山は子供二人が行って帰れる程度の低いものだ。山頂までは一時間もかからないし、危険性は低い。野生動物がこの時期に現れるようなことはめったにないらしいから大丈夫だろう、たぶん。

「熊といえば死んだふりってきかないらしいね」

「そうなの?」

「どこかで見たんだけど、実際に死んだふりしてやってみたら、熊が確認のためにいろいろしてくるんらしいよ。倒れててもそのひとの顔を確かめて、それで鼻がもげちゃったり」

「えぐいね。こんな迷信広めたのはどこのどいつだ!」

「さあ?」

 踏みしめる雪の感触。沈んでいくのは自らの身体。

 葉をすべて落とした木には雪が積もっている。まだ、凍ってはいない。

 白い吐息を吐きながら、いつものように中身がありそうでない会話をしながら、僕らは進んでいく。

 山頂が見える。どれぐらい時間がたったんだっけか。ともかく、ゴールは近い。

 ふと、彼女の横顔を見つめる。いつだって、僕から見えるそれは魅力的に見えた。でも、いつか終わるのだろうか? 関係性は永続じゃない。

「永遠」という番人がいる。そいつは絶対の友情も、誓いの忠誠も、命を捧げる愛も、すべては朽ちると嘲笑う。

 きっと、怖いのは変化と終点だ。もともとそういうことを考える性分だった。最近そういうことを考えなかったのは、彼女が隣にいたからというだけのことで。

 わからない。なぜ今になってこんなにも怖いのだろう? いや、今まで耐えきれていたのがおかしいということなのだろうか。

 僕に限らず、人は常に一定の方向に進み続けている。……変化し続けている。

「ぐっとハローワールド!」

 そんな声で、なにかもやのようなものが晴れた気がした。駆ける彼女は僕の手を離れ、山頂へ。

「競争するぞー!」

「いやだよ」

「いくぞー!」

 彼女が僕の手袋を奪った。

「あっ、ちょ」

 ついでに帽子も取られた。

 そういうわけで、今、僕は彼女を追いかけている。なにしろ手袋と帽子がないのは寒い。

「体力がないぞ少年!」

 こんなことを言ってくるがむしろ疲れが見えるのは彼女のほうだった。

「まちやがれ!」

「珍しく荒っぽい言葉使いだ!」

「寒いんだって!」

 周りに人がいないのは本当によかった。こんなバカみたいなやりとりは、ここにいる僕ら二人だけのものだ。

 追いかける。手袋と帽子を求めて。

 近くなっていく山頂。彼女の背中は、手を伸ばせば届く距離。

「つかまえ――」

 その直前、無理な走行がたたったのか、バランスを崩した。シンプルに言えばこけた。彼女を巻き込んで。

 お互いに意味のない言葉を喚きあって雪の上へ倒れこむ。僕はともかく、彼女は顔面からのダイブだった。もぞもぞとした声が聞こえてくる。

「……雪、おいしそうだなって思ってたんだけどおいしくないね」

「手袋返して」

「……あい」

 取り返した手袋と帽子を急いでつける。

 その間に彼女がうつ伏せから仰向けの状態へ。見つめあう。

「……」

「……」

「なんで君黙ってんの、恥ずかしいじゃん」

「こっちのセリフだ」

 ロマンチックもなにもあったもんじゃないな、と思った。

 助け起こして再び立つ。雪を払い落とす。走ったせいであとで身体が冷えそうだ。

「ねえ、あのさ」と僕は言う。

「なあに?」と彼女。

 口を開きかけて、言いあぐねる。僕を止めるものは、その正体は、自分でよくわかっている。でも、いうべきだと思った。

「……楽しいね」

「……ほー?」

 途端ににやにやと笑い始める彼女。

「そんなこというなんて珍しいじゃん」

「たまには口に出していわないとって思ってね」

「大丈夫、君の気持ちはいつも伝わってるよ。でも、たまに声に出してくれると、ちょっと嬉しいかも」

 そんな返答が帰ってきてほっとする。しかし、

「しっかし、君も照屋さんだね~」

「……」

「その一言を言う前にぎゅっと目を閉じて、そんなに恥ずかしいの? 純情な少年クン?」

「うるさいよ」

 人への感謝は気恥ずかしい。そういうものだ。でも、口にする価値のあるものだとも思っている。

 ……でも恥ずかしいものは恥ずかしい。

 からからと彼女は笑う。こういう時、ここぞとばかりにからかってくるのはいつものことだ。

 ……でも、まあ、そう悪い気分でもない。

 山頂にたどり着けば、いい感じに座れそうな岩があった。僕らは互いに目配せし、そこへ座る。

 しんしんと雪が降っている。ここからは、遠くの景色がよく見える。

 夜を埋め尽くす白い粉雪。月光が雪にあたってほのかな乱射を見せ、薄暗く、しかし鮮明に、景色を深く彩る。

 息を飲みながら、そんな光景に目を奪われていた。

「ねえ」と彼女の声。

「ロマンチックじゃない?」

「……そうかも」

 眺める景色の中に、雪が舞い落ちている。ひらひらと、蝶みたいに。

 それだけの景色だった。動画なんかで見ようと思えば簡単に見える。テレビでだって見れるだろう。しかし、今広がるこの光景は、冷気のなかで見つめるこの景色は。

「……なんて、いうんだろうね」

「なあに?」

「映像と、なにが違うんだろう」

「ここまで来た道のりとか?」

「それもあるかも。だけど、きっと」

 道のりからくる達成感。確かに、そういうものもある。現実のものとして襲い掛かってきた冷気。触覚に訴えてくる、五感が感じる冬の雰囲気。そういうものも、ある。けれど。

「あのさ、クサいこと言っていいかな?」

「よし、身構えたからどんとこい」

「……言う気がなくなるんだけど」

「どんとこい!」

 ため息をつく。でも、僕と彼女の関係は、ずっとこんなものだった。

「たぶん、さ。君がいるからなんだ」

「……ほう?」

「現実のものとして僕がここにいて、それで映像よりもリアルに感じられるのかもしれない。でも、それだけじゃなくて、君が今、隣にいてくれるから、こんな気分なんだと思う」

 長々と、僕はため息を吐いた。吐息は、白い。

「君ってさ」と彼女が言う。

「なに?」

「よくそんなこと言えるよね。クサいすぎるよ。でも、嫌いじゃないかな、私は」

 彼女が僕の手を握る。

「もしもね? 私たちの周りに誰かがいたら、今の言葉ってちゃんと機能しないよね」

「たしかに」

「でも、ここにいるのは私たちだけだから、そんなことない」

 手を握る力が強まる。

「嬉しいよ。二人だけの空間で、こんなこと言ってもらえて、すごく幸せ」

 そういう彼女はとても幸せそうに見えた。しかし、その目元には涙が光っている。

 思わず慌てる。なにかまずいことをしてしまったのか、どうすればいいのか。

「実は不安だったんだよ。君って、あんまり思ったこととか口にしてくれないから。このまま、いつのまにか私たちの関係も終わっちゃうんじゃないかって、ずっと不安だった」

「……ごめん」

「言葉がすべてじゃないのはわかってる。でも、言葉は象徴だから。それがあると、すごくわかりやすいの」

 彼女が首を傾けてもたれかかってくる。

 僕は恐る恐る、彼女の肩を抱く。

「この雪景色も同じ。特別な空間っていう肩書での、象徴。ここでなら、まるで別世界みたいなここでなら、言いたいことも全部言える」

 ねえ、と彼女は言う。

 君に不安はないの? と。

 思わず、黙った。

 不安。確かにそれはある。不平や不満、マイナスにしかならないことは、ためこむべきだという考えが、僕にはあった。しかし、それはひとりよがりだったのかもしれない。

 僕には信じる道や信条がある。言葉は同じことを繰り返せば価値が落ちる。だから彼女への好意も、僕の喜びの感情も、いままでたいして伝えてこなかった。

 けど、ここにはいいわけがある。ここは別の世界、特殊な空間。ここは現実世界ではない。二人っきりの、二人ぼっちの、特別な場所。

 だから、僕は口を開いた。

「いつか、僕らの関係は終わってしまうのかな」

「……」

「不安なんだ。僕らの関係は一年続いた。でも、それが永遠に続くなんて保証はどこにもない。僕は――」

 首を振る。言うべきではなかったのかもしれない。彼女も不安を持っていて、それなのに背負わせるべきなのだろうか? こんなことは僕一人が考えていればいい。そういつも思っているのだ。だから、いうべきでは、なかったような気がする。

 ――ほんとうに?

 この言葉は言うべきではない? いや、確かに言う価値はあったはずだ。背負い込むのはひとりよがりだ。彼女が望んだのは、そんなことではないのだ。

「――雪が積もるとね」

 彼女が立ち上がる。僕から、離れていく。

「ずっと積もると、氷になっていくの。雪の隙間が閉ざされて、硬い氷になる。雪は柔らかいけど、氷は硬くて尖ってる。どんなに綺麗なものでも、蓄積されていくならば、変わらずにはいられない。私たちは――」

 まっすぐに僕を見つめる、彼女の目。

「ずっと一緒にいられる保証なんて、どこにもない。むしろ、その可能性はどちらかといえば低い。楽観的ではいられない。私たちは、もう子供じゃないから」

 でもね、と彼女は言う。

「私たちは現実を知っている。だから、やれることはあるはずなんだよ。私は、ずっとこの関係を保ち続けていたい。君はどう?」

「もちろん」と素早く僕は答えた。

 彼女は困ったみたいに笑う。

「じゃあ決まりだね。ということで、私から提案があるんだけど」

「提案?」

「思い出を、作ろう。象徴を作っておくんだよ。それで私たちは、お互いを意識する」

 ひとが使うのは知恵と手段。感情論や理想論が通じないのなら、手段を講じればいい、そんなことを、彼女は言った。

「だから、ここはまず一つ目の舞台。ここはふたりぼっちの世界だよ」

 僕の目には、そういう彼女の姿が魅力的に映った。

 ずっと不安があった。それから逃げるのはとても難しく、不可能なことに思えた。

 今でも実際、その考えは変わらない。だけど、今、僕の目の前で彼女が笑ってくれている。手を差し出してくれている。

 ひとりよりふたりのほうが、ずっと心強い。

「ここで、思い出を作るのか」

「そうだよ。ふと思い出せるような、そんな感じの」

 条件は適しているように思えた。

 ここは、特別な場所。ここまで心をさらけ出したのは、おそろく、今回が初めてで。

 僕は、一歩前へ。

 関係性が変わるのが怖かった。手をつなぐ程度のままでずっといればいいと思っていた。彼女と過ごす時間は楽しかった。このままでいればいいと思っていた。

 しかし、ひとは変わらずにはいられない。ならば、変化を象徴にしてしまえばいい。それはきっと、忘れられないものになる。

 見つめあう。そういう土壇場にきて、僕はまたためらった。情けないことだった。

「なにかいうことは?」

 楽しげな感じに、彼女は言う。

 彼女が僕を導く。ふっ、と体のこわばりが抜けた。

「なんか、助けてもらっちゃって悪いね」

「いいよ。いくじなしクン」

「ごめんね。なにしろ精神力弱いからさ」

 彼女と向き合って、いろんな感情があふれてきて。

 冬の景色に雪が舞う。しんしんと降り注ぐ雪と静寂に包まれる夜。

「大好きだよ」と僕は言った。

 彼女は不意打ちを食らったみたいにびくん、と身体を一瞬ふるわせて。

 そして花が咲くような笑顔で僕に言った。

「私も、だよ」

 それだけの言葉が、これ以上ないぐらいに嬉しかった。

 ここは、たったふたりだけの世界。

 ひとの声は聞こえない。夜に浮かぶ月が、僕らだけを祝福するように照らしている。

 だから僕らは、なにものもを気にせずに、お互いの体温を感じあって、見つめあっている。

 彼女が待っている。額と額がこつんと当たる。

 ふたりぼっちのこの世界で、僕らは静かにキスをする。





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