第十六章 後小松謙蔵の悪あがき 10月2日午後11時
黒い隊員服を着て、黒い救急車に乗り込んだ葵、美咲、茜の三人は、敵の本丸である後小松総合病院に向かっていた。
「それにしても驚きましたよ。交換殺人だったんですね?」
助手席で茜が感心したように言う。ストレッチャーに腰掛けた葵は、
「そんなの、最初の事件でわかってたじゃないの? 有力容疑者のアリバイが完璧過ぎて、バレバレだったわ」
「え?」
葵があっさり指摘した上、運転席の美咲も頷いているので、
「もしかして、知らなかったの私だけですか?」
茜は苦笑いして言った。
「そうみたいね」
美咲が嬉しそうに言ったので、茜は剥れた。
「何ですかあ、お二人共ォ。私がわかっていないのを面白がってたんですかあ?」
「違うわよ。茜ちゃんもわかってるって思ってたのよ」
美咲が言うと、葵は、
「私はあんたが気づいていない事はわかってたけどねえ」
「意地悪いですね、所長ってば! だんだん、
茜が振り返って言った。すると葵はムッとして、
「あんな人と一緒にしないでよ! 冬のボーナス、覚悟しなさいよ!」
「えーっ、そんなあ」
茜は、葵が「最終兵器」を出して来たので、ションボリしてしまった。
「所長、もうすぐ敵地です」
美咲がハンドルを切りながら告げた。葵はヘルメットを被りながら、
「さてと。後小松のジイさんの欲の皮がどれくらい厚いのか、確かめに行くわよ」
「はい」
美咲と茜が息を合わせて答えた。
「ねえ」
菖蒲が言う。
「何だよ、姉さん?」
「どうしてここなの?」
菖蒲はご立腹のようだ。篠原は肩を竦めて、
「仕方ないだろ。人の出入りが激しくて、周囲が良く見渡せる場所で、長時間いても怪しまれないところなんて、そうはないんだからさ」
「そうよ、菖蒲、あんまり不平不満ばかり口にしてると、小皺が増えるわよ」
麗奈が嬉しそうに言ったので、菖蒲はムッとした。
「貴女に言われたくないわ」
三人がいるのは、二十四時間営業のコーヒーショップだ。
「オーダーお願いします」
「はーい」
店員は若い女の子ばかりの店だ。篠原がこの店を選んだ最大の理由はそこにあると、長年彼を見て来ている菖蒲は思った。
「俺にはエスプレッソ、もう一杯ね。お二人は?」
「私はブラック」
菖蒲はツンとして答える。麗奈はニッコリと女の子に微笑んで、
「私は、貴女がいいわ」
「麗奈さん!」
篠原が慌てて遮る。女の子は唖然としていたが、商売上そういう客もいるのか、すぐに立ち直った。
「冗談よ。カプチーノね」
「は、はい」
女の子はさすがに身の危険を感じたのか、復唱をすると、逃げるようにその場を離れた。
「見境がないのね、麗奈」
菖蒲が呆れ顔で言う。
「でも、今の子、可愛かったよね、護?」
「え? ええ、そうですね」
篠原は姉の視線を気にしながら答える。菖蒲は、
「護君を呼び捨てにしないでって言ってるでしょ、麗奈」
「はいはい」
篠原は何も言わなかったが、麗奈は肩を竦めてニヤニヤしながら応じた。その時だった。
「!」
篠原がバッと麗奈に飛び掛った。
「いやん、護、こんなところで!」
麗奈はふざけていたが、篠原は真剣そのものだった。次の瞬間、麗奈の座っていた椅子の背もたれに、銃弾の痕が着いた。
「え?」
それに気づき、麗奈と菖蒲は仰天した。
(ガラスを貫く音はしなかった。って事は?)
篠原は顔を動かさず、周囲を探った。殺気を感じようとしているのだ。
(敵は店内にいる。畜生、全然気づかなかった)
「そこか!」
篠原は敵の殺気を感じ、走った。
「まさか!」
それは店員だった。可愛い女の子が銃を構えていたのだ。
「くそ!」
女性には優しいのがモットーの篠原は一瞬躊躇したが、その子の銃を奪い、右腕をねじ上げた。
「キャッ!」
その一連の動きで、店内は騒然となった。
「皆さん、騒がないで! 防衛省情報本部の者です! テロリストを確保しました!」
その女の子は、良く見ると日本人ではない。
「まさか、キルギス人?」
キルギスとは、中央アジアの国だ。国民の顔立ちは日本人に似ているが、よく見ると細部は違う。
「そういう事か」
篠原は、何故CIAまで動いているのか、理由がわかった。
葵達の乗る黒い救急車は、後小松総合病院の裏手にある霊安室の出入り口に回らされた。
「早かったな。邪魔はされなかったか?」
後小松自らが出迎えてくれたので、葵はニヤリとした。
「ええ、幸い、全然相手にならなくてすぐに片付いたから、早かったわ、おじいちゃん」
葵達は一斉にマスクとサングラスとヘルメットを取った。
「お、お前は!」
後小松は美咲の顔を見て驚いた。
「こいつらは敵だ! 片づけろ」
彼の背後に控えていた十人のロシアンマフィアが進み出た。
「またお宅ら? 弱過ぎて話にならないんですけど」
葵が挑発する。彼女達は一瞬で忍び装束になった。
「お前ら、一体何者だ!?」
後退りしながら、後小松が叫ぶ。
「少なくとも、おじいちゃんの味方ではないわね」
「その呼び方、やめさせろ!」
後小松の命令で、ロシアンマフィア達が銃やナイフを構えて戦闘を開始した。
「美咲、茜!」
「はい!」
三人はその場から飛び、ギャング達に向かう。
「この隙に……」
後小松は、すでに計画が破綻した事に気づいたらしく、逃亡した。
「あ、待て、ジジイ!」
葵がギャングの一人を蹴倒して叫ぶ。
「こらあ、待て!」
一番に抜け出した茜が後小松を追う。
「茜、逃がしたら、夏のボーナスもなしよ!」
「えええ!?」
茜はテンションが下がりかけたが、
「それだけは嫌ですゥッ!」
とダッシュ。美咲は二人の言動に呆れながらも、ギャング達を次々に倒した。
「くそ」
後小松は茜が追って来るのを知り、舌打ちした。そして、廊下の突き当たりの扉の前に来た。
「この扉は、私にしか開けられん」
彼は扉のボタンでパスワードを入力し、中に入った。
「待て、このお!」
茜が到着した時、扉は完全に閉じていた。
「あ!」
茜は、ボタンをジッと見た。
「どこを押したのかわかれば、開けられるはず!」
彼女は全神経を集中し、ボタンを睨んだ。
篠原は大原に連絡し、キルギス人の殺し屋の女の子を連行してもらった。
「それにしても、あんな若くて可愛い子がテロの実行者だなんて、とんでもないぜ」
篠原は「若くて可愛い子」がテロリストになるのを憂えているだけなのだろうか?
「旧ソ連から独立した国は、事情が複雑ですからね。篠原さんの言っていたロシアの動きって、その辺と関係あるんじゃないですか?」
大原は腕組みして分析する。篠原は頷いて、
「多分な。周辺国の不穏な動きをしている連中に、ロシアがピリピリしているのは確かだ。そこを突こうと動いたのが、後小松と繋がっている奴らだろう」
「ええ」
篠原は大原を見て、
「俺は本部に戻って、もう一度その辺の関係を探ってみる。お前は、葵達の応援に回ってくれ」
「はい。でも、菖蒲さんと麗奈さんのガードはいいんですか?」
「二人には、葵の影をつける。大丈夫だよ。葵のマンションに連れて行ってくれ」
篠原はそれだけ言うと、店を出て行った。
「さ、行きましょうか、大原君」
麗奈が嬉しそうに言う。
(この人、女性が好きなんだよな)
奇麗な女性と一緒にいると、茜がまたヤキモチを妬くのではないかと心配な大原だったが、彼女のヤキモチは、それはそれで嬉しかったりする。
「はい」
菖蒲はすでに先を歩いていた。
(さすが、篠原さんのお姉さんだなあ。全然怖気づいていない)
大原は感心を通り越して、呆れていた。
「はあ、はあ、はあ」
こんなに走ったのは、いつ以来だ? 後小松はそんな事を思いながら、病院内の秘密経路を走っていた。
「ロシア人共は、あの女達が皆始末してくれる。もう、あんな役立たずとは縁切りだ」
後小松にとってはビジネスが最優先。恩も義理もない。
「私だ。計画は変更する。金村と烏丸は、ロシアには送らない。二人には、もっと金を出してくれるところに行ってもらう」
後小松は携帯でそう告げた。そして、茜が追って来ていないのを知ると、
「やっと諦めたか」
と呟き、悠然と歩き始めた。ところが、天井が騒がしくなった。
「何だ?」
後小松はビクッとして立ち止まり、天井を見た。
「えい!」
というかけ声と共に天井が破られ、その破片と共に茜が落下して来た。
「うわお!」
後小松は慌ててそれをかわし、また走り出す。茜は顔に着いた蜘蛛の巣を取りながら、
「もう、あのパスワード、全然わからなかったあ!」
どうやら、パスワードが解けなかった茜は、通気孔を通ってここまで来たらしい。
「こら、待て! あんたを逃がすと、来年の夏のボーナスも逃げちゃうんだから!」
茜はビュンと加速し、後小松の前に出た。
「ぐは!」
後小松はいきなり目の前に現れた茜に驚き、止まる事ができずに彼女にそのまま接近した。
「いやああ、変態ジジイ!」
茜は後小松が襲い掛かって来たと思い、平手打ちを食らわせた。
「ゲヘッ!」
後小松はその平手打ちをカウンターで受けたので、そのまま横に飛び、壁にぶつかって倒れた。
「え?」
茜は、変態ジジイから逃れるのに必死で、後小松が倒れたのに気づくまで、時間がかかった。
「おお」
彼女は倒れている後小松にやっと気づき、爪先で確認する。
「気を失ってるみたい」
そして嬉々として携帯を取り出し、
「所長、変態ジジイを倒しました!」
と報告した。
「捕まえたみたいよ」
葵は携帯をしまいながら言った。
「そうですか。やっぱり、ボーナスがなくなるのは困るんでしょうね」
美咲は倒したギャング達を縛り上げながら答えた。
「さてと。これで一方の親玉は捕まえたけど、もう一方の親玉が厄介ね」
「ええ」
葵は篠原から、キルギス人の殺し屋の話を聞いていた。
「CIAも動いているらしいから、相当な敵ね。後小松のジイさんが顎で使っていたのなんて、下っ端もいいとこでしょ」
「そのようですね」
葵はニヤッとして、
「楽しみね、美咲」
「そうですか? 私はそれほど楽しくありませんけど」
「そう?」
所長はどういう性格なのだろう? 長い付き合いの美咲が、そう思ってしまった。
篠原は防衛省に戻り、パソコンで検索していた。
「あった! これだな」
その情報は、ロシアの周辺でロシアからの圧力を潰すために動いているテロリスト達の活動範囲の地図だった。CIAも周辺諸国への影響を危惧し、動いている。中国も軍情報部が動いているようだ。
「葵、こいつは相手がでか過ぎるぞ」
篠原は腰が引けてしまいそうだった。
「でも、あいつは引かないよなあ。売られた喧嘩は、誰が何と言おうと買う奴だからなあ」
しかし、彼はそんな葵の事が好きなのだから、どうしようもない。
「は!」
後小松謙蔵が意識を取り戻したのは、院長室だった。両手は後ろで縛られており、足首も縛られている。床に転がされたままなのは、彼にしてみれば、相当屈辱的だ。
「さあ、話してもらいましょうか、拉致したお医者さんの居所を」
葵が仁王立ちで言う。後小松はその時ハッと名案を思いついた。
「だ、誰だ、あんたらは? ここはどこだ? 私は誰なんだ?」
そう、記憶喪失のフリをしようと考えたのだ。
「あれれ、強く殴り過ぎましたか?」
茜が後小松の顔を覗き込む。
(このガキが!)
後小松はそう思ったが、
「あんたは誰だ? 私はどうして縛られているんだ?」
と惚けた。茜は首を横に振って肩を竦める。
「記憶がないみたいですね。どうしましょうか?」
彼女は葵に尋ねた。すると葵はニヤリとして、
「そういう時は、もっと強く殴ると思い出すそうよ。医学書に書いてあったわ」
(そんな事書いてある医学書なんてあるか!)
後小松は心の中で叫んだ。
「何で殴ってみますか?」
美咲が言った。葵は部屋の中を見渡して、
「ああ、そのブロンズ像なんかいいんじゃない? 美咲、殴ってあげて」
「はい」
美咲がツカツカと部屋の隅に置かれているブロンズ像に近づき、それをひょいと手に取る。
(え? そのブロンズ像は、二十キロくらいあるんだぞ。どうしてそんなに軽く持ち上げるんだ、お前は!?)
全身から嫌な汗が出る。
「ああ、そうそう、頭砕けちゃうと困るから、手加減してね、美咲」
後小松には、葵の顔が悪魔に見えた。
「行きます」
美咲がブロンズ像を後小松の頭の上で振り上げる。
「うわあああ、嘘、嘘だ、嘘。記憶はなくなっていないから、殴らないでくれえ!」
後小松は涙を流して叫んだ。
「全く。この期に及んで、往生際が悪過ぎるのよ、院長」
葵は後小松にデコピンをして言った。
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