第十五章 一発逆転! 10月2日午後6時

 麗奈は棚からファイルをいくつか抜き出した。

「今までの葵の推理と、私のところにあるクライアントの資料を総合的に分析してみると、この辺が怪しいわね」

 彼女は葵に資料を手渡した。葵はそれを凄まじい速さで読む。どう見ても只捲っているだけにしか見えないが、彼女は全て読破しているのである。

「医療ミスを連発している若い医師。結構いるんですね」

 葵はうんざりした顔で麗奈を見上げる。

「そうよ。お医者様って、イケメンも多いでしょ? 私は興味ないけどね」

 麗奈は何故かニヤリとして菖蒲を見る。菖蒲はその視線に気づき、

「何? 何なの、今のは?」

「別にィ」

 菖蒲の憤激を軽くいなす麗奈。さすが手馴れている、と篠原は感心した。

「件数は絞れたわ。このくらいなら、手分けをして待ち伏せもできるわね」

 葵の言葉に、茜がギョッとする。

「ええ!? 全部見張るつもりですかァ?」

「そうよ」

 あっさりと肯定する葵に、茜は愕然とし、美咲を見た。美咲は葵を見て、

「あちらさんは、焦っている、という事ですね?」

「そう。早いとこ片づけて、取引を終了したいはず。早ければ今夜、遅くても明日の夜には動くはずよ」

 大原が、

「応援を要請します」

「お願いね、大原君」

 葵がウィンクをすると、それを茜が睨む。葵にはそんな気はさらさらないのだが、茜はここのところ被害妄想なのだ。

「さてと。もう菖蒲さんや麗奈さんは襲撃されたりしないだろうけど、ガードは続けた方がいいから、まとめて面倒見てね、護」

「えーっ? 姉さんと麗奈さんのガードは、ハードなんだよなあ」

 篠原の愚痴に菖蒲がムッと知る。

「何よ、麗奈はともかく、私のガードをするのが嫌なの、護君?」

「菖蒲、日本語がおかしいわよ。護は、貴方のガードが嫌なの。わかった?」

 麗奈のチャチャが入る。篠原は苦笑いして誤魔化そうとしたが、菖蒲が応じない。

「麗奈、私の弟を呼び捨てにしないで。護君を呼び捨てにしていいのは、葵だけよ」

 今度は葵が苦笑いする。篠原は呆れ顔で、

「大丈夫だよ、ガードはするから。言ってみただけさ」

と火消しに動いた。

「揉め事起こさないでよ、護」

 葵が小声で窘める。

「わかったよ」

 篠原は肩を竦めた。

「それならいいのよ」

 菖蒲はツンとして麗奈から目を逸らした。麗奈はクスッと笑い、

「取り敢えず、そんなとこかしら、皆さん?」

と一同を見渡す。そして、

「では、食事に行きましょう。今日は菖蒲が奢ってくれるそうです」

「ちょっと、何言い出すのよ、麗奈!」 

 菖蒲は仰天して立ち上がった。篠原が、

「ゴチになります、姉さん」

と調子に乗る。菖蒲はムッとしたが、

「わかったわよ。私がご馳走するわ」

と何故か諦めた。葵はニヤッとして、

(やっぱり、金村さんが生きているかも知れないという事が嬉しいのね、菖蒲さんは)

「私、後から合流します」

 美咲が言った。葵は意外そうな顔をして、

「あら、どうして?」

「警察病院に行きますので」

 美咲がそう答えると、茜が口を挟む。

「ああ、やっぱり美咲さんてば!」

「ち、違うわよ!」

 茜が何も言っていないのに、美咲は酷く慌てていた。

「何なのよ、美咲ったら?」

 葵はキョトンとしてしまった。


 皆村はベッドの中でボンヤリしていた。術後の経過は、医師も驚くほど順調で、数時間前まで生死の境を彷徨っていた人間とは思えないと言った。

(昔から、丈夫なのが取り柄だったからな)

  苦笑いする。

「暇だなあ……」

 美咲が帰った後、課長もすぐに帰ってしまい、その後刑事課の連中が何人か見舞いに訪れ、女性警官達もきてくれたが、皆すぐに帰ってしまう。

「美咲さん」

 またつい名前を呟いてしまった。

「はい」

 え? また? そんな、まさか。幻聴だろ? 皆村は担当医を呼ぼうとした。

「寝てらしたのですか?」

 確かに美咲がそこにいた。花束を抱えて。

「あ、いえ、起きてました」

 皆村は、また独り言を聞かれてしまったと焦っていた。

「この花瓶でいいですか?」

 美咲はベッドの傍らにある何も入っていない花瓶を手に取った。課の誰かが、ナースルームかどこかから借りて来たのだが、連中は揃いも揃って気が利かない奴らで、花を持って来る者がいなかったのだ。酷い奴は、鉢植えをもって来た。俺に退院するなって事かよ!? 皆村は呆れてそいつを追い返した。

「は、はい、ありがとうございます」

「さっきは手ぶらで来てしまって、申し訳ありませんでした」

 美咲はニコッとして病室を出て行った。

(美咲さんなら、来てくれるだけで嬉しい)

 皆村はニヤついてしまった。

 

「あ、そうだ、茜」

 出かける間際に葵が言い出す。

「え? 何ですか、所長?」

 思わずビクッとする茜。

「ここのパソコン借りて、メールをチェックして。情報屋の皆さんから、何か来ているかも知れないわ」

「はい」

 茜はホッとして沙希を見る。

「こちらでどうぞ」

 沙希は自分の席のパソコンを示した。

「ありがとうございます」

 茜は礼を言って席に着く。

(沙希ちゃんて、茜には興味ないのね。子供だから?)

 そんな風に想像したので、葵は思わず笑ってしまった。

「何ニヤついてるんだよ、葵?」

 篠原が小声で尋ねる。葵は、

「沙希ちゃん、女性が好きみたいだから、諦めてね」

「は?」

 篠原は素っ頓狂な声を出してしまった。

「来てますよ、所長」

 バカ話をしているうちに、茜が仕事をすませた。

「何かためになる事はある?」

 葵は茜の後ろに立ち、モニターを覗き込む。その時沙希が葵と茜に挟まれる形になり、彼女は顔を赤らめた。

「ええ、ありますよ。所長の読み通り、ロシアンマフィアに気をつけろって書いて来てます」

「他には?」

 葵はメールに夢中になり、沙希の肩を抱いているのに気づかない。沙希は卒倒しそうだ。

「後小松のジイ様の事も書かれています。医療ミスも捏ち上げの可能性があるようです。但し、何れの情報屋さんも、気をつけろと一言添えていますね」

 茜が振り返ると、葵は沙希をギュッと抱き寄せて、

「気をつけなければならないのは、あちらさんの方だという事をわからせてあげないとね」

 とうとう沙希は気を失ってしまった。

「ああ、沙希ちゃん、どうしたの?」

 葵が驚いて沙希を支えた。

「何よ、その子も麗奈と同類なの?」

 菖蒲が呆れた調子で言い放つ。麗奈は沙希に近づいて、

「彼女は美咲ちゃんじゃなくて、葵の方が好きみたいね」

と篠原を見た。篠原は肩を竦めて、

「あーあ、俺は二重に苦しまなくちゃならないんですか?」

「そういう事ね」

 麗奈は楽しそうだ。

「しっかりして、沙希ちゃん!」

 葵はそんな冗談に付き合うつもりはないらしく、真剣に沙希に呼びかけていた。


 美咲が花瓶に花を挿して病室に戻ると、皆村はビクッとして彼女を見た。

「どうされたんですか?」

「あ、いや、その……」

 まさか、美咲が戻って来るのを心待ちにしていたとはいえない皆村は、動揺を隠せない。

「本当にごめんなさい」

 美咲が花瓶を置くなり頭を下げたので、皆村はビックリした。

「な、何ですか? 自分は神無月さんに謝られる理由はありませんよ」

 それでも美咲は目を潤ませて、

「皆村さんが狙撃されたのは、私達のせいです。ごめんなさい」

「そんな事、ないですよ。警察官なんて、怨まれてなんぼですから、気にしないで下さい」

 例え美咲のせいで撃たれたのだとしても、それはそれで嬉しい皆村なのだ。もはや変態である。

「ありがとうございます」

 美咲が潤んだ目で皆村を見つめる。油断していた彼は、それを真正面で見てしまった。

「……」

 頭の中が真っ白になった。思考回路が飛んでしまったようだ。

「皆村さん?」

 皆村の様子が変なので、心配になった美咲が声をかける。

「あ、ああ、すみません」

 皆村は美咲の顔をまともに見ないようにして答えた。

「ありがとうございます、皆村さん。そう言ってもらえて、気持ちが楽になりました」

「は、はい」

 美咲からいい香りが漂って来る。皆村の鼓動が高鳴った。

「貴方を狙撃した犯人を捕まえました。今、警視庁で取り調べされているはずです」

「そ、そうですか……」

 本当に狙撃犯を捕まえたのか? 皆村は何となく落ち込んでしまった。

(やっぱり、俺は美咲さん達の足手まといなのだろうか?)


 そして午後10時。やや空き始めた大通りを、不気味な車両が走る。

 黒い救急車だ。サイレンは同じだが、赤色灯ではなく、灰色だ。全体的に薄気味悪い。周囲のドライバーは、その異様な車体にギョッとする。

 黒い救急車は速度を増し、サイレンの音を大きくさせると、交差点を左折し、ある病院を目指した。

「来たみたいね」

 病院の車寄せの陰に潜んでいる美咲が囁く。

「当たりでしたね、私達」

 茜が嬉しそうに応じる。

「じゃあ、鬼退治に行きますか、美咲さん」

 茜の言葉に美咲はクスッと笑い、

「はい、桃太郎さん」

「えーっ、せめてかぐや姫にして下さいよォ」

 茜の意味の分からないボヤキに、美咲は呆れて、

「何よそれ?」

と思わず突っ込む。そんな二人の会話を遮るように、黒い救急車が車寄せに滑り込んで来た。

「まだよ、茜ちゃん」

「わかってますよ」

 黒い救急車は、照明を落とした玄関の前で停止する。中から黒い隊員服に身を包んだ連中が三人出て来て、病院の中になだれ込む。

「今よ、茜ちゃん!」

「はい!」

 忍び装束姿の二人は、その偽隊員達を追いかけ、打ち倒す。相手は素人のようで、たちまち気を失った。

「所長、黒い救急車を抑えました」

 美咲が携帯で葵に連絡した。

「そっちだったのね。了解。後は大ねずみのところに行って、一網打尽よ」

「はい」

 美咲は携帯を切ると、倒した偽隊員の変装を解いた。

「あっ!」

 その正体を知って、茜は驚いた。一人は後小松総合病院事件の有力容疑者である海藤充。そしてもう一人は大日本医科大学付属病院事件の有力容疑者である八幡原栄伍だったのだ。

「なるほどね。自分が疑われない病院に、隊員に変装して乗り込む手筈だったのね」

 美咲は後小松の仕掛けたトリックを見抜いた。

「そうかァ、そうすれば完璧なアリバイが作れますよね」

 茜がポンと手を叩く。

「そして、事件に関与させる事で裏切りや密告も封じる事ができるわ。あの院長、相当なわるね」

 美咲は後小松の狡猾さに虫酸が走った。

 二人が潜んでいたのは、純心堂医大付属病院である。そこの外科医である松尾和馬は、医療ミスを犯し、外科部長である板倉光雄に顎で使われていると評判だった。しかし、松尾医師自身は、その事実を否定し、麗奈に訴訟を依頼していたのだ。いくつかある黒い救急車出現候補の中で、最有力だった病院である。

「取り敢えず第一段階終了ね」

 美咲は三人目を縛り上げて言った。茜は三人目の白人を見て、

「こいつだけ知らないんですけど」

「多分、ロシアンマフィアよ。抵抗された時のために、一人だけ加わっていたんでしょ」

 それでも、美咲達にしてみれば、ものの数ではなかった。

「茜ちゃん、二人の服を脱がせて」

「えっ? 美咲さんたら、大胆ですね。こんなところで……」

 茜が巫山戯て言った。美咲は真っ赤になって、

「違うわよ! 隊員に成り済まして、大ねずみさんのところに行くの!」

「わかってますって。美咲さんてば、本当に下ネタの冗談にはマジになりますよね」

 茜が面白がる。美咲はムッとして、

「一人で行く、茜ちゃん?」

「ああ、ごめんなさい、美咲さん! 私が悪かったですゥ」

 茜は慌てて詫びた。


 そして、葵は別の候補の病院から離れ、後小松総合病院に向かっていた。

「どうしてこういうコンビになったのかしらね」

 葵は大原と行動していた。

「さあ。僕にはわかりません」

「多分だけど、茜は貴方と美咲が組むのを嫌がったんだと思うわ。私なら安心だという事ね」

 葵は不満そうに助手席のシートに身を沈める。大原は苦笑いして、

「水無月さんは僕じゃあ、そんな気にはなりませんか?」

と妙な事を言い出す。

「その気になって欲しいのなら、なってあげてもいいけど?」

 葵がおどけて言い出す。大原はビクッとして、

「僕も篠原さんに殺されたくありませんから、その気にはならないで下さい」

「うまく逃げたわね」

「ハハハ」

 葵はフッと笑い、またシートに身を沈めた。

「とにかく、後は大ねずみをひっ捕まえて、その後ろにいる親玉まで炙り出さないとね」

 葵は前を見据えて呟いた。

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