第十四章 医療過誤の裏側 10月2日午後5時
皆村秀一は、一面が花畑の丘の上で目を覚ました。
「ああ」
彼は思った。
(ここはあの世か? 俺は死んでしまったんだな)
ふと、美咲の笑顔を思い浮かべる。
(例え他に人がいたとしても、あの人と食事をできたのは嬉しかった。でも、一度くらいデートしたかったな)
美咲と二人きりでは、彼女の顔も見られないのに、そんな事を考えてしまう自分に呆れる。
「美咲さん」
皆村は愛しい人の名前を呟いてみた。
「はい」
え? 今、返事が聞こえた。どういう事だ? 皆村は混乱した。
「意識が戻ったんですね、皆村さん」
また美咲の声がする。皆村は仰天して目を開いた。そこは警察病院の病室だった。
「良かった、皆村さんが無事で」
ふと横を見ると、美咲が目を潤ませて自分を見ていた。その隣には、刑事課長がいる。
(何であんたがいるんだ?)
思わずそう言いそうになった。折角美咲さんが来てくれたのに、邪魔するなよ。そうも言いたかった。
「あ、ありがとうございます」
皆村は顔が火照るのを感じた。先日現場であった時も、こんなに顔が近くにあった事はない。手を伸ばせば届くところに美咲がいる。
「安静にしていて下さい。皆村さんを狙撃した犯人は必ず捕まえますから」
「は、はい!」
危ないからやめて下さいという発想が浮かばない。とにかく嬉しかった。
「また来ますね」
うおおお! 皆村は心の中で雄叫びをあげた。また来ますね。何ていい響きなんだ。美咲は小さく手を振りながら病室を出て行った。
「何だ、皆村、お前にも彼女がいたんだな」
課長がニヤニヤしてからかう。皆村はギョッとして、
「ち、違いますよ! あの人は探偵です。大原の紹介の……」
「ああ、そうか。でも、いい雰囲気だったぞ。彼女、お前に気があるんじゃないか?」
「え?」
課長の軽口にも過敏に反応してしまう。
「あり得ないですよ。あれほどの美人には、絶対恋人がいますって」
皆村は苦笑いして言った。
「そりゃそうだな」
課長のあっさりとした応答が妙にムカつく皆村だった。
一方茜は、大学病院に行って大原と麗奈を「茜号」に乗せ、麗奈の事務所に向かった。
「あらあ、美咲ちゃんはあ?」
残念そうに麗奈が言う。
「美咲さんは、菖蒲さんを助けに行きましたよ。後で合流です」
「菖蒲なんて助けに行かなくてもいいのにィ。美咲ちゃんが助けに来てくれるのなら、私も捕まろうかしら?」
麗奈は相変わらずムチャクチャな事を言い出す。茜は苦笑いしたが、
「冗談でもそんな事は言わないで下さい、松木さん」
と大原は大真面目な顔で
「はーい」
麗奈はションボリしてしまった。
その頃篠原は、防衛省で驚くべき事を知った。
「ロシアンマフィアだけでなく、ロシアそのものが動いているんですか?」
篠原は本部のロシア担当の先輩に話を聞いていた。
「ああ。国そのものという事ではないが、現体制を快く思わない反対派が暗躍している。それがマフィアと結託して、日本に潜入しているらしいんだ」
「それで、後小松のジイさんはどう繋がるんですか?」
「そこがわからないんだよ。あのジジイがウラジオストックによく行っているのは把握しているんだが、何をしているのかはまだ掴めていない。CIAも動いているので、相当ヤバい事かも知れん」
「……」
ヤバい事には慣れっこのつもりだったが、CIAと聞くと、さすがの篠原もギクッとする。
「お前、あまり関わらない方がいいぞ。相手はギャングだけじゃないかも知れないんだからな」
「はあ」
篠原はその先輩に礼を言い、防衛省を後にした。
しかし葵は、篠原からロシアの話を聞き、ニヤッとした。
「楽しくなりそうね、護」
「お前なあ……」
篠原は葵の神経の太さに呆れる。
「ロシアの内部で何が起こっているのかなんて私にはどうでもいいわ。でもこれで、どうして黒い救急車を使ってまで大袈裟な事をしたのか、読めて来た気がする」
「どういう事だ?」
篠原が興味をそそられて尋ねる。だが葵は、
「内緒。あんたは口が軽いから教えてあげない」
「おい……」
葵は相変わらずだ、と篠原は苦笑した。
「貴重な情報ありがとう」
「たまにはお礼が欲しいな」
篠原が言うと、
「はい、投げキッス」
葵はブチュッと音だけを聞かせた。
「直接して欲しいんだけど」
篠原のその懇願には何も返事をせず、葵は携帯を切った。ふと気づくと、沙希がポォッとしている。
(あ、しまった、沙希ちゃんがいるのを忘れてた)
位置関係からして、葵の投げキッスが沙希を「直撃」してしまったようだ。
「ごめんね、沙希ちゃん」
「いえ、ありがとうございました!」
何故か礼を言われ、葵は苦笑いした。
「すみません、篠原さん、私まで乗せてもらって」
美咲は助手席で恐縮している。彼女と菖蒲は篠原の運転するワンボックスカーに乗っていた。
「いいのよ、美咲、お礼なんて言わなくても。護君は私のボディガードなんだから」
菖蒲は後部座席でふんぞり返って言った。
「そうそう。姉さん抜きでも、美咲ちゃんならどこでもお迎えに行っちゃうよ」
篠原がおどけて言う。美咲はキッとして、
「所長に言いつけますよ!」
「どうぞどうぞ。あいつはそんな事では怒りませんので」
「……」
呆れる美咲。すると菖蒲が嬉しそうに、
「護君、この際だから美咲と付き合いなさいよ」
美咲はギクッとした。篠原は笑って、
「それはダメ。美咲ちゃんに手を出したりしたら、葵に殺される」
「おかしな事言わないでよ、護君」
菖蒲ははぐらかされたのに気づき、ムッとした。
「それに、美咲ちゃんには神戸(ごうと)っていう彼氏がいるしね」
神戸とは外務省の官僚だ。最近はすっかり会う機会がない。
「まあ、外務官僚とまだ続いているの?」
菖蒲も地獄耳だ。大概の事を知っている。美咲は苦笑して、
「続いてなんかいません。神戸さんとは仕事上の付き合いだけですから」
「神戸が聞いたら、自殺するぞ、美咲ちゃん」
篠原がからかう。美咲はギクッとして、
「そんな事ありませんよ!」
と反論した。
後小松謙蔵は、ギャング達が皆逮捕されたのを知り、激怒した。
「たかが女探偵に何を手こずっているのだ!? マフィアの名は伊達か!」
後小松はそのまま倒れそうな勢いで怒鳴り散らした。
「次を急がねばならん。すぐに取りかかってくれ。手筈はすんでいる」
彼は乱暴に携帯を切り、ソファに投げつけた。
「使えん連中だ。この取引を最後にするか」
後小松はニヤリとした。
「私の力を必要としている連中は、世界中にいるのだからな」
後小松は何を企んでいるのだろうか?
茜達三人は、美咲達より一足先に麗奈の事務所に到着した。
「お帰りなさい、先生」
沙希はビクッとしてソファから立ち上がり、麗奈を出迎えた。
「沙希、そんな風に驚かれると、私が貴女を虐待しているみたいだから、もう少し普通にしてくれない?」
麗奈は茜達の視線を気にしながら言った。
「申し訳ありません、先生」
沙希はますます慌てふためいて頭を下げる。葵がニヤリとして、
「相当怖がられてますね、先生?」
「もう、葵まで! 貴女には言われたくないわよ。ね、茜ちゃん?」
麗奈の無茶ぶりに、茜がギクッとした。
「茜、あんた麗奈さんに私の悪口言ったでしょ?」
葵が茜を睨む。茜はビックリして、
「い、言ってませんてばァ。所長、勘繰り過ぎですよ、もう……」
と麗奈を見た。麗奈は悪びれもせず、肩を竦めてみせた。そして、
「で、私に訊きたい事って何?」
麗奈は葵の向かいに座る。沙希が大急ぎで給湯室に駆け込む。同じ匂いを感じたのか、
「あ、手伝いますよ」
と茜が沙希を追いかけた。大原はそれを見届けてから、
「次のターゲットを予測するつもりですか、水無月さん?」
葵は大原の指摘にニッコリして、
「さっすが、警察庁さんは鋭いわね。そうよ。前の事件の二人の共通点がこの事務所だから、次に狙われるのは誰なのか、推理したいの」
「なるほどね」
麗奈は顎に手を当てて頷く。葵は再び麗奈を見て、
「という事で、よろしくお願いします」
「はいはい」
麗奈は立ち上がると自分の机に行き、ブックエンドに挟んである書類を取り出した。
「例えば、どんな事がわかればいいのかしら?」
「外科医で腕が良くて若い人。そして、独身でできればハンサム」
葵の言葉に麗奈は呆れた。
「貴女の好みを訊いているんじゃないわよ」
「もちろんです。ハンサムは余計ですが、後は本当に必須条件ですよ。それと、パスポートを持っている事」
「は?」
これには大原もキョトンとした。麗奈は何となく葵の考えている事がわかったようだ。
「まさか貴女、もしかして……」
「多分、麗奈さんの想像している事と私の考えている事は一致していると思います。後は、意地悪姉さんの意見が聞ければ完璧ですね」
「そうね」
麗奈は葵の推理の大胆さに驚愕していた。大原は呆気に取られたままだ。
「意地悪姉さんて、誰の事よ、葵?」
地獄耳が来た。葵はしまったあ、という顔をした。
「ああ、あんたまだ私の事務所の鍵のスペアを持ったままなのね!」
麗奈が立ち上がった。菖蒲はまるで篠原と美咲を付き人のように従えて入って来て、
「あら、あれは私にくれたのではないの、麗奈?」
と惚けてみせた。
「で、葵、答えなさい。意地悪姉さんというのは、誰の事?」
菖蒲は麗奈を無視して、葵に詰め寄った。
「訊くまでもないだろ。姉さんの事だよ。なあ、葵?」
篠原が嬉しそうに言った。葵は、このバカ、と彼を睨んだ。
「菖蒲さん、聞き違いですよ。私はそんな事を言ってませんから」
葵は笑顔で応じた。菖蒲はあまりその事で葵を攻めるつもりはないらしく、
「それならいいのよ」
とあっさり引き下がった。彼女も先が知りたいのだ。そして、麗奈を押しのけるようにソファに座った。
「では菖蒲さん、教えて欲しい事があります」
葵は愛想笑いをして言った。菖蒲はツンとしたままで、
「何かしら?」
「医療ミスで亡くなった患者は、通常司法解剖されますか?」
大原がギョッとした。
「そ、そこか……」
彼も葵の推理の外郭に気づいたようだ。菖蒲はフンと鼻で笑い、
「遺族からの依頼がない限り、しないわね。医療ミスで亡くなった患者の遺族はもうこれ以上患者自身を切り刻むのに同意したくないから、尚更よ」
葵はその答えに大きく頷き、
「という事は、患者の正確な死因は、闇から闇となる訳ですね?」
「端的に言ってしまえば、そうね。執刀医が隠そうと思えば、本当の死因はわからなくなるわ」
菖蒲も葵が何を言いたいのかわかったようだ。
「葵、貴女まさか、臓器売買を疑っているの?」
そこにコーヒーを持って戻って来た茜と沙希が現れた。二人は、「臓器売買」という単語を耳にして、ギョッとした。
「ええ。後小松のジイ様がロシアンマフィアと取引するとしたら、それが一番可能性が高いと思います。遺体は解剖されない訳ですから、健康な臓器が使い放題という事になります」
菖蒲もビックリしている。そして麗奈も唖然とした。
「そして、これは可能性の問題なんだけど、大原君」
「はい」
大原は自分が指名されたので、緊張して葵を見た。茜も唾を飲んだ。
「金村医師と烏丸医師の遺体は、どうやって確認したの?」
「関係者の方に遺体を見てもらいました。それと、身体の特徴を……」
「って事は、DNAとかは調べていないのね?」
葵の指摘に、美咲がビクッとする。
「所長、まさか?」
葵は美咲を見て、
「そのまさかよ。私は遺体がすり替えられていると思っているの」
篠原も菖蒲も、もちろん麗奈や茜や沙希も驚愕する葵の推理だった。
「臓器売買だけで、後小松のジイ様がロシアンマフィアを使えるとは思えない。だとすると、後は何か? 人材の提供くらいしか考えられないでしょ?」
「しかし、無理ですよ。遺体をすり替えるなんて……」
大原が異を唱える。茜がそれに同意し、頷く。
「
葵の説明に麗奈が口を開いた。
「考えられなくもないわね。後小松のジイ様は、腕は一流よ。それくらい造作もなくやってのけられるわ」
「という事は……?」
菖蒲が震え出した。
「金村君は、生きているかも知れないという事?」
「その可能性はあります。但し、そのために誰かが犠牲になっているのですから、あまり喜べる事ではないですけど」
葵は辛そうに言った。菖蒲もそれを理解しているのか、黙り込んだ。本当は嬉しいのだろうが。
「一流の外科医を人材派遣して、マフィアのボスを助けさせるつもりか?」
篠原が言った。葵は肩を竦めて、
「そこまであのジイ様が約束をしているかはわからない。もしかすると、単なる人材派遣かも知れないし」
麗奈が立ち上がる。
「葵の考えはわかったわ。じゃあ後は、私がターゲットを絞るだけね」
「はい、お願いします」
葵は微笑んで応じた。
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