第十三章 美咲、切れる 10月2日午後4時

 皆村秀一は警察病院に運ばれて手術を受け、何とか一命を取り留めた。

「良かった……」

 美咲は携帯を閉じながら呟いた。

「美咲さん、もしかして、あの仏頂面の刑事を好きなんですか?」

 茜が嬉しそうに尋ねる。美咲はギクッとして、

「ち、違うわよ。私のせいで狙撃された気がするから、無事で良かったと思っただけよ」

「そうですかあ」

 茜は疑いの眼差しを向けたまま、ショルダーバッグを肩に掛けた。

「とにかく、今一番危ないのは麗奈さんよ。急ぎましょう、茜ちゃん」

「はい」

 二人は事務所を出た。


 葵は麗奈の事務所のソファで思索に耽っていた。

(ロシアンマフィアを後小松が動かせるのは何故? そして、黒い救急車を使ったバカげた寸劇は何のためなの?)

 謎だらけである。

「どうぞ」

 沙希がコーヒーを出してくれた。

「ねえ、沙希ちゃん」

「は、はい」

 顔を赤らめて返事をする沙希を葵は苦笑いして見上げる。

「金村さんと烏丸さんは、ここに来たのよね?」

「はい」

 葵は少し考えてから、

「二人に共通する事はない? 何でもいいから、教えてくれないかな」

「えーと……」

 沙希はトレイを抱えたままで考え込む。

「お二人とも、イケメンでした」

 沙希はニッコリして言った。

「……」

 まさかとは思っていたが、やっぱりそこか、と葵はガッカリした。それを察した沙希が、

「す、すみません。そんな事、どうでもいい事ですよね」

「ああ、そんな事ないわよ。何でもいいからって言ったんだから、構わない。もっといろいろ思い出してみて」

 男に興味がないから、あまり観察していなかったのかな、と葵は考えた。

「そう言えば」

 沙希は葵の前に座った。

「何?」

 葵は身を乗り出す。沙希はそれにまた赤面し、

「お二人共、パスポートの話をしていました」

「パスポート?」

 何だ? 只の偶然か? それにしては、麗奈の事務所でパスポートの話は不自然だ。会話の流れで出て来たのだろうが、どうにも意味が分からない。

(麗奈さんに訊かないといけないな。しかも、いろいろ書類が揃っているから、ここに戻ってもらわないと)

 葵は携帯を取り出し、美咲に連絡した。


「それにしても」

 病院の待合室で、美咲達の到着を待っている麗奈は言った。

「はい?」

 大原はその口調に何かを感じたのか、麗奈を見た。

「どうして葵のところには、こんなに面倒ばかり起こす人間が集まるのかな、と思ったの」

「そうですか?」

 大原は自分が警察官なので、あまりそんな風には感じないようだ。麗奈は溜息を吐き、

「その中でも飛び抜けて面倒な奴が誘拐されてさ。誘拐した連中、今頃後悔してるかもよ」

 大原は苦笑いするしかない。菖蒲とは直接会話した事がないが、雰囲気でやり辛い人だとは思っている。茜も苦手のようだし、何しろ葵ですら避けているという事だから、相当な人物なのだろう、とも分析していた。

「あ、葵からだ」

 麗奈は携帯に出た。

「どうしたの?」

 しばらく葵が話す。麗奈は相槌を打ちながら、会話を続けた。

「わかった。じゃあ、大原君と一緒に事務所に戻るわ」

 麗奈が携帯を切ると、

「どうしましたか?」

と大原は尋ねた。麗奈は大原を見て、

「葵が何かに気づいたみたいなの。私に訊きたい事があるから、事務所に戻ってくれって」

「そうですか」 

 大原が立ち上がると、

「ああ、美咲ちゃん達と同行するように言われたから、彼女達を待ちましょう」

「あ、はい」

 大原は椅子に戻った。


 後小松は皆村の狙撃が失敗した事を知らされ、また憤激していた。

「確実に仕留めろと言ったはずだぞ。警察関係者は、警察病院の警備が厳重な病室に入ってしまうから、もう殺すのは無理だ。後は死んでくれるのを祈るだけだな」

 電話の相手が何かを言った。

「バカを言うな。私は日本でテロを起こすつもりはない。あんたらに協力しているだけだ。そしてあんたらは、その見返りに私に協力しているだけだろう。警察病院を爆破するのは構わんが、それは私の関知する事ではないぞ」

 ギャングと言う連中は限度というものを知らん、と後小松は内心呆れていた。

「とにかく、契約では後一人だ。もちろん、確保している。そして、警察もあの探偵共も、まだ我々の狙いはわかってはいないはずだ」

 後小松は狡猾な笑みを浮かべた。

「それから、探偵共への罠の準備は整っているか?」

 相手が答える。

「あの皐月菖蒲は、探偵とは顔見知りだ。絶対に取引に応じて来る。うまくやってくれよ。私達の命運がかかっているのだからな」

 後小松は携帯を切り、机の上に置いた。

「終わり良ければ、全て良しだな」

 彼はその醜い腹を擦りながら呟いた。


 その頃、美咲達は渋滞に巻き込まれていた。

「もう、ついていないですねえ。ナビでは、こっちが空いているはずだったのに、直前に事故が起こっているなんて」

 助手席で茜が剥れた。美咲は肩を竦めて、

「こればかりは仕方ないわよ。まさか事故が起こるなんて、誰にも予測できない事だし……」

と言いかけ、ハッとした。

「どうしたんですか、美咲さん?」

 茜も美咲の異変に気づいた。

「まさかとは思うけど、この事故、故意に起こしたものかも」

「ええ? そんな、まさか……」

 その時、フロントガラスに何かが当たった。銃弾のようだ。周囲のドライバー達が仰天して逃げ出した。

「この茜号を狙撃するなんて、どこのバカ?」

 茜はキッとして、辺りを見渡した。

「とうとう、茜号で決まりなのね、この車は」

 美咲が小声で言うと、

「そうですよ。何か不満ですか、美咲さん?」

「別に」

 美咲はダッシュボードの液晶パネルを操作し、ミニバンの前後に小型カメラを出した。

「こんなので見つけられないとは思うけど、一応威嚇の意味も込めてね」

「ミサイルでも射たれない限り、大丈夫ですけどね」

 すっかり人気ひとけがなくなった道路を見て、茜が言う。

「まだ狙ってますか?」

「こんなに高い建物があるんだから、まだ狙っているでしょうね。外に出ないでね、茜ちゃん」

 茜はニヤッとして、

「それって、『押すなよ、押すなよ、絶対押すなよ』と同じですか、美咲さん?」

「何それ?」

 お笑い番組を全く知らない美咲には、茜の渾身のボケは不発だった。

「何でもありません」

 茜は撃沈した。

「えっ?」

 フロントガラスにヒビが入った。

「特殊な弾丸ね。このまままじゃ、茜号が棺桶になりそうよ」

 美咲は忍び装束に着替えた。茜も素早く忍び装束になる。

「これ以上この茜号を傷つけさせないわよ、バカギャング共め!」

 茜はサッとドアを開いて外に飛び出した。

「茜ちゃん、危ないわよ」

 美咲も外に出る。

(銃弾の入射角から考えて、あのビルの屋上?)

 美咲は走った。

「ああ、美咲さん、待って下さいよ」

 茜が慌てて追いかける。

「あそこね」

 美咲は自分達の動きを追い切れていないスナイパーの姿をはっきりと確認した。

「逃走経路を遮断して、茜ちゃん」

「了解!」

 茜がビルの裏手に回り込む。スナイパーは標的ターゲットを見失って、動転している。

「逃がさない!」

 屋上から顔を引っ込めたスナイパーを見て、美咲はビルの壁をよじ上った。まるでヤモリのようだか、彼女の名誉のためにもそれは使ってはいけない表現だろう。

「待ちなさい」

 金網の外から現れた美咲を見て、スナイパーは仰天していた。

「ど、どこから?」

「逃がさないわよ。観念しなさい」

 相手はロシア人のようだ。

「くそ!」

 スナイパーはライフルを投げ捨て、自動小銃を取り出した。

「危ないものを!」

 スナイパーは自動小銃を乱射した。美咲はまるでプリマドンナのように華麗な動きをし、銃撃をかわす。

「ば、化け物か?」

「失礼ね、おっさん!」

 いつの間にか後ろに回り込んでいた茜が、スナイパーの首筋に手刀を叩き込んだ。

「ぐっ……」

 スナイパーは呆気なく倒れた。

「何、こいつ。弱過ぎる」

 茜は呆れ顔で呟く。美咲が近づいて、

「銃を振り回す人間で、私達に勝てる相手はいないわよ」

「それもそうですね」

 茜はニッコリして言った。

「大原さんに連絡して、処理を頼みます」

「お願いね」

 美咲は葵に連絡を入れた。


 葵は美咲達が再び銃撃された事を知り、怒りを露にした。沙希が思わず後退あとずさりする。

「あのジジイ、まだ懲りていないようね。でも知らないわよ、ジイ様。美咲大明神を怒らせると、私より始末が悪いんだから」

 葵が嬉しそうに恐ろしい事を言ったので、沙希はとうとう葵から離れて、給湯室に逃げ込んでしまった。

「ハハハ……」

 それに気づき、葵は苦笑いをした。


「あ」

 ミニバンに戻ると、周囲はすっかり元通りになり、車が行き交っている。

「美咲さん、何かが貼られていますよ」

 茜がフロントガラスに付けられている紙を指差した。

「地図ね。住所が書かれているわ。どこかしら?」

 車内に戻り、ナビで検索する。河原のようだ。廃車の処理場らしい。

「そこに菖蒲さんがいるみたい。取引をしようって事ね」

 美咲は紙に書かれた内容を読んだ。

「一人で来いですって。危なそうね」

「所長に行ってもらいましょう」

 茜が嬉しそうに言い出す。美咲は茜を見て、

「いいえ。これは私が行くわ。菖蒲さんの救出もそうだけど、皆村さんの件もきっちりお礼をしたいから」

「やっぱり、美咲さんて、あの強面こわもてさんが好きなんですね?」

 茜がまた言い始める。すると美咲は、

「そうなのかもね。今までにいない、とても純真な人だから」

「え?」

 思わぬ発言に、茜はビックリしてしまい、何も突っ込めなかった。


 葵は、美咲から更に連絡を受けていた。

「なるほどね。やっぱり菖蒲さん、そう使われたか。ええ、いいわよ。貴女に任せる。あまりやり過ぎないでね」

「所長には言われたくありません」

 美咲が憤然として言う。葵は笑って、

「はいはい。気をつけてよ。相手はギャングだから、何を仕掛けて来るかわからないわよ」

「ええ。慎重に行動します」

 葵は携帯を切った。


 美咲は茜と別れ、一人で廃車処理場に赴き、茜は「茜号」を運転し、大原と麗奈の待つ大学病院へと向かう事になった。

「美咲さん、気をつけて下さいね」

「ええ」

 美咲は忍び装束のまま走り出し、ビルの屋上へと飛び移ると、たちまち姿を消した。

「廃車処理場か。何か、凄い事になりそうだから、見に行きたいな」

 茜は嬉しそうに笑ってから、「茜号」を発進させた。


 その廃車処理場は、今は使われていない。会社が倒産し、只の産業廃棄物と化してしまったその残骸は太陽の光を浴びて、不気味に輝きを放っている。菖蒲はギャング達に後ろ手に縛られたままで、廃車の前に立たされている。ギャングは全員で十五人程いた。今までの情報から、葵達が相当強い事を知らされているのだ。

「こんなところに連れて来て、どうするつもりなの、あんた達は?」

 拉致されてから数時間が経過するにも関わらず、菖蒲はまだ元気だった。

「うるせえよ。黙ってろ」

 ギャングの中のリーダー格の男が言い放つ。菖蒲はムッとしたが、何も言い返さなかった。

「来たようです!」

 双眼鏡で辺りを監視していた下っ端のギャングが叫んだ。

「どうして葵が助けに来ないのよ!?」

 美咲を見るなり、菖蒲が怒鳴った。それを聞いた美咲は苦笑いした。

「すみません、菖蒲さん。私が志願したんです」

「ホントにいい子ね、貴女は。護君と付き合いなさいよ」

「ハハハ」

 そればかりは応じられません、菖蒲さん。声に出して言えないのが残念な美咲である。

「本当に一人で来るとは、とことんバカだな、お前らは。只、お前らのボスが来なかったのが惜しいけどな」

 リーダーがニヤけながら言う。美咲はリーダーを睨み据えて、

「貴方達では格が違い過ぎるから、私が来たのよ」

「何だと!? あのブサイクな面した刑事みたいに、てめえのその腹に鉛玉食らわせてやろうか、ネエちゃん!?」

 リーダーのその言葉が、美咲を刺激した。

 ブチッ。彼女の中で、何かが切れる音がした。

「知らないわよ、あんた達。あの子を怒らせたわね! ホントに知らないわよ!」

 菖蒲が怒鳴り散らす。リーダーが菖蒲を睨みつけ、

「邪魔だよ、オバさん。向こうへ行ってろ」

「何ですって? 誰がオバさんだ、この穀潰し共が!」

 菖蒲は二人のギャングに引き摺られるようにして隅に連れて行かれた。

「殺っちまえ!」

「おおっ!」

 ギャング達は一斉に銃を取り出し、乱射した。

「そんなもの!」

 美咲は近くにあった廃車のドアを片手でズインと引きずり出すと、まるで座布団でも放るように投げた。

「ギエッ!」

 ギャング達は驚愕した。あり得ないものが飛んで来たからだ。

「うわあっ!」

 先頭で銃を撃っていた二人が、腰をぬかす。彼等の目の前の地面に、ドアがドスンと音を立てて突き刺さったのだ。

「ひぃぃぃっ!」

 逃げ出したギャング達の行く手を遮るようにして、ドスンドスンとドアやボンネットが地面に落下する。

「な、何なんだ、あの女は……?」

 一番後ろでそれを見ていたリーダーが呟く。

「忍者よ。よく覚えておきなさい」

 菖蒲が言った。リーダーはハッとして彼女を見た。そこには、ロープを解かれた菖蒲と、ギャング二人を倒した美咲がいた。

「い、いつの間に……」

 リーダーがそう言った時、彼はすでに美咲の手刀で倒されていた。

「お疲れ様でした、菖蒲さん」

 息一つ乱さずに美咲が言った。菖蒲は微笑んで、

「貴女こそ、お疲れ様、美咲」

と応じた。

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