第十二章 急襲  10月2日午後1時

 水無月葵は、暴漢達を警視庁の機動隊に引き渡すと、書類の棚の中を捜索していた。

(またか……)

 松木麗奈法律事務所は、怖い。葵は溜息を吐いた。

「あの」

 事務員の子が声をかける。

「はい?」

 葵は愛想笑いをして彼女を見る。

(確か、伊東沙希さんだっけ)

「先程は、抱きついたりして申し訳ありませんでした」

「あ、いえ。怖かったんでしょ? 仕方ないですよ」

 言ってしまってから、葵は、

(まずい)

と気がついた。沙希の顔が急に晴れやかになったのだ。

(OKサインを出したようなものね。困ったな)

「コーヒーを淹れますね」

 沙希は嬉しそうに給湯室に歩いて行く。

(ま、いっか。あの王女様みたいに、いきなりキスしたりはないだろうだから)

 しかし、相手はあの麗奈の事務員だ。どうなるかわからない。

「はあ」

 また溜息を吐く葵だった。その時、滅多に鳴らない着メロが鳴った。

「まあ、珍しい」

 葵はニッとして携帯に出た。

「おはようございます。こちらに連絡とは、珍しいですね、岩戸先生」

 相手は岩戸老人だ。

「橋沢の阿呆が、また絡んでおったので、先程怒鳴りつけてやった」

「え?」

 葵は意外な事実に驚いた。

「つくづく、執念深いオジさんですね、あの人」

 葵は苦笑いする。岩戸老人も笑ったようだ。

「今度は詫びを入れたいと言って来たよ。さすがのあの阿呆も、君達の事は怖いらしい」

「まあ」

 それは嬉しいような、ムカつくような話だ。

「後小松の事、儂の方でも調べた。星一族とは違った意味で危ないぞ」

「ええ、わかっています。さっきも、手荒い挨拶をされたばかりです」

「そうか。気をつけてくれ、葵ちゃん」

 岩戸老人の声があまりに真剣な調子だったので、葵は、

「心配しないで下さい、先生。ギャング如きにやられる私達ではありませんから」

「そうだな。じゃあ、また」

「はい」

 葵は携帯をしまい、また書類を開いた。

(麗奈さんて、医療過誤専門なのかな? 全部それの関係だ)

 これでは、次のターゲットを絞るのが難しい。

「後小松総合病院と、大日本医科大学付属病院の方を、もう一度見直してみるか」

 葵は書類を閉じ、棚に戻した。


 麗奈は篠原と共に菖蒲に付き添い、病院の最上階にある食堂で昼食をとっていた。

「まだ事件は解決しないの、護君?」

 菖蒲がステーキを切りながら尋ねる。篠原は、ガリガリに痩せた姉の旺盛な食欲に驚きながら、

「そんな簡単に解決できたら、警察も消防もいらないよ」

「言い訳ね」

 菖蒲はガツガツと肉を食べる。麗奈が、

「あんた、よく昼間にそんなたくさん食べられるわね。胸焼けしない?」

「午後から手術なのよ。胃癌のね」

 思わず目を見合わせる篠原と麗奈。

「手術前は、たくさん食べないと、体力が保たないのよ」

「なるほどね」

 麗奈は気持ちが悪くなったのか、箸を置いた。

「ご馳走様」

 どうやら、菖蒲の手術風景を想像してしまったらしい。菖蒲はナイフとフォークを置いて、麗奈と篠原を見た。そして、何故か、ニンマリする。

「な、何?」

 麗奈は嫌な予感がして尋ねた。篠原もハッとして姉を見る。

「そうやって並んでいると、あなた達、お似合いね」

「はあ?」

 篠原が呆れる。麗奈は苦笑いする。

「護君、葵じゃなくて、麗奈と付き合いなさい。その方が里の両親も安心するわ」

「あのなあ」

 姉の途方もない提案に、篠原はうんざりした顔で抗議しようとした。

「あら、いいの、付き合っちゃって?」

 麗奈の反応に、篠原はギョッとした。菖蒲はフッと笑って、

「冗談よ。女が好きな貴女が、女が大好きな護君と付き合える訳ないでしょ」

とまたステーキを食べ始める。

「姉さん!」

 「女が大好き」と言われた篠原は、それを否定できない自分を悲しく思いながらも、抗議した。

「あら、菖蒲、認識不足よ。私はどっちも好きなのよ」

「え?」

 菖蒲と護の姉弟きょうだいは、その時ばかりは声がピッタリ揃った。

「冗談はさて置き、そろそろ準備をしないといけないわ。ここの払いは、護君のガード料と相殺で、私がするわね」

 菖蒲はいつの間に食べ終えたのかというくらいの速さでステーキを平らげ、トレイを持つと席を立った。

「姉貴が奢るなんて、何か恐ろしい事の前触れかな?」

 篠原が呟く。麗奈がそれを受けて、

「かもね」

と言った。


 美咲と茜は、珍しく二人共手弁当だったので、事務所で昼食タイムとなった。

「麗奈さんの事務所も襲撃されるなんて、後小松っていうジイさん、何者なんですかね?」

 茜がミートボールをパクつきながら呟く。美咲は箸を置いて、

「相手がロシアンマフィアで間違いないとすると、ちょっと気になる情報があるのよ」

「何ですか?」

 茜が興味津々の顔で尋ねる。美咲は茜を見て、

「ロシアの暗黒街のボスの一人が、癌らしいの」

「癌、ですか?」

「ええ。それで手術を受けたいのだけど、仕事柄公式には病院に入院できないから、困っているらしいの」

 茜はニマッとして、

「後小松のジイさんと繋がりましたね。ジイさん、ウラジオストックによく行ってるんでしょ?」

「麗奈さん情報ではね。でもそれだけの事で、ロシアンマフィアともあろうモノが、後小松院長の言いなりになるのかしら?」

 美咲の疑問に茜は腕組みした。

「確かに。依頼を受けて仕事をするって感じじゃないですよね。こき使われているような……」

「そうなのよ。この事件、もう一つ何かあるような気がするの」

 美咲はタコさんウィンナーを食べて言った。


「皐月先生、急患です! 救急車がもうすぐ到着します!」

 看護師が走って来て告げた。菖蒲はビックリして、

「私はこれから手術なのよ? 無理だわ」

「そちらは明日に延期して、こちらを優先して欲しいと政治家から電話があったそうです」

「政治家?」

 菖蒲は露骨に嫌な顔をした。

「何様のつもりよ、そいつは!?」

「院長からも、優先して欲しいと電話がありました」

「本当に全く!」

 これだから、大学の付属病院は嫌だ! 菖蒲は心の中で毒づいた。

「逆らうと、圧力かけられるのね」

 院長の立場を哀れむ。

「そういう事なら仕方ないわ」

 菖蒲は看護師の後につき、救急救命センターへと走った。

「救急車、到着しました!」

 菖蒲はその声に応じて、センターの処置室のドアをバンと開いた。菖蒲を先導していた看護師は、救急車から降ろされる怪我人をストレッチャーに移動させるため、配置についた。救急車が救命センターの入口に横づけされた。後部のドアが開き、人が出て来る。

「え?」

 看護師はギョッとした。それは救急隊員ではなく、黒尽くめのギャングだったのだ。彼らはサングラスをかけ、大きなマスクをしていたので人相はわからなかったが、白人らしいのは肌の色でわかった。

「あ、あ……」

 看護師が唖然としていると、ギャング達は凄まじい速さでその場から去り、救命センターの処置室へとなだれ込んだ。仰天して動きが止まる看護師や医師達。

「何事!?」

 騒がしい来訪者に菖蒲が怒鳴る。ギャング達は菖蒲に銃を向けた。他の者達は、震え上がった。

「どういうつもりよ、あなた達は!?」

 それでも怯まない菖蒲はやはり月一族だ。だが、ギャング達は菖蒲の質問を無視し、彼女に当て身を食らわせると、そのうちの一人が彼女を担ぎ上げ、あっと言う間に出て行ってしまった。

「うわあ……」

 救命センターのドアの外で立ち尽くしていた看護師が我に返った時は、救急車は姿を消していた。


「何ですって!?」

 菖蒲拉致の話を篠原からされて、葵は仰天した。

「あんたがついていながら、何してたのよ!?」

 愚問とわかっていたが、口に出してしまう。葵自身も、完全に意表を突かれたのだ。

「すまん。油断した。まさか、真昼間に堂々と押し込んで来るとは思わなかったんだ」

 篠原の声に元気がない。

「ごめん」

「何が?」

 葵に謝罪された事は、今まであっただろうか? 篠原はふとそんな事を考えた。

「あんたのお姉さんが連れ去られたのに、酷い事言った。ごめん」

「いいよ。お前に謝られると、何か怖い」

「……」

 葵は何も言い返せない。

「実行グループは目撃者の証言から、ロシアンマフィアのようだ。そっち関係を調べるために俺は一度本部に戻る。麗奈さんの護衛は、大原に直接頼んだから、安心してくれ」

「わかった。落ち着いてね、護」

 葵は篠原を気遣って言った。すると篠原は、

「姉貴は大丈夫だよ。連れて行ったのは、普通の救急車だ。黒くなかった」

「という事は、菖蒲さんは餌って事?」

 葵の問いかけに篠原は、

「姉貴が知ったら激怒しそうだけど、多分そういう事だろう。用があるのはお前の方さ」

「なるほどね」

 葵は篠原に礼を言い、携帯を切った。

「連中も焦っているのね」


 美咲と茜も、菖蒲が連れ去られたと聞き、驚いていた。

「菖蒲さんをどうするつもりなんでしょう?」

「所長をおびき出したいんだと思うわ」

 美咲の答えに、茜は首を傾げて、

「用があるなら、直接所長を襲えばいいのに」

「それに失敗したから、菖蒲さんを人質にするんでしょ?」

 美咲が呆れて言う。茜はニヤッとして、

「菖蒲さんが人質でも、所長は全然躊躇しないと思いますけど」

「茜ちゃん……」

 妙に嬉しそうな茜を見て、美咲は溜息を吐いた。

(確かにそうかも知れないけど、それを言葉にしないでよ、茜ちゃん)


 後小松謙蔵は、院長室で皐月菖蒲拉致を成功したと報告を受けた。

「初めからこうすれば良かったな」

 後小松は電話の相手に皮肉っぽく言った。

「その女は使える。殺すなよ。人質としての価値の他にも、使い道があるのはあんたらもよくわかっているはずだ」

 後小松の言葉は、謎めいていた。

「それから、探偵事務所と接触している刑事も目障りだ。早く始末しろ」

 彼は携帯を切り、その醜く太った身体を椅子に沈める。

「最後に役に立ったな、橋沢。お前の支援は、次の総選挙では見送るがな」

 後小松はニヤリとした。


 皆村秀一は、自分の署に戻るため、車を走らせていた。

(全く、何なんだよ、この事件は?)

 イライラする彼の心を静めるかのように、携帯が鳴った。

「おお」

 皆村は目の前に迫った署の駐車場に素早く車を乗り入れ、携帯に出た。

「すみません、お待たせして」

 相手は美咲だ。

「実は、皐月菖蒲さんが、何者かに拉致されたんです」

「さつき、あやめ?」

 皆村には、その名前がすぐに誰なのかわからない。

「黒い救急車の目撃者です」

「ああ」

 ようやく彼女の傲慢な物言いがリフレインする。

「それが何か?」

 皆村にとって、菖蒲の事などどうでもいい事だ。

「皆村さんも気をつけて下さい。狙われているかも知れません」

「まさか」

 皆村は一笑に付した。しかし美咲は、

「可能性はあります。ですから……」

 美咲が自分を心配してくれている。皆村は感動していた。

(生きてて良かった)

 そうまで思ってしまった。

「ありがとうございます。気をつけます」

「そうして下さい」

 皆村は名残惜しそうに携帯を切り、車を降りた。

「しかし、そこまでするって、一体何を考えているんだ、その連中は?」

 彼は首を傾げて署の玄関に向かう。

「ぐっ……」

 背中に衝撃が走る。ふと腹を見ると、ワイシャツに血が滲んで来ていた。

「……」

 彼はその場に倒れ伏した。玄関前に立っていた制服警官が驚いて彼に駆け寄る。そして銃撃を受けたのに気づき、周囲を見回した。


 菖蒲の勤務する大学病院に到着した大原は皆村が狙撃されたと聞き、驚愕していた。隣の麗奈もビックリしている。

「わかりました」

 大原は携帯を閉じ、麗奈を見た。

「貴女も警戒した方がいいですよ、先生」

「みたいね」

 菖蒲は連れ去られただけなのに、皆村は狙撃? この差は何? 麗奈は怖くなった。

「僕では守り切れないので、茜ちゃんを呼びますね」

「あら、どうして?」

 麗奈の質問に、大原は苦笑いして、

「トイレまではついて行けませんから」

「ああ、なら、私、男子トイレでもOKよ。気にならないから」

「ハハハ」

 貴女が気にならなくても、男の方が気にしますよ、と大原は思った。


 葵も、皆村が狙撃された事に衝撃を受けていた。

「そのつもりになれば、いつでも殺せるって意味?」

 菖蒲は拉致され、皆村は狙撃。その差に疑問を感じた葵は、

「まさかね」

とある推測を思いつき、すぐに考え直した。


 美咲は、いつも冷静な彼女がどうしたのだろうというくらい、驚いていた。

「時間的に、私が連絡した直後だわ」

 彼女は茜と共に麗奈の元に向かっていた。葵が心配して、美咲も麗奈につくように言ったためだ。

「美咲さんのせいじゃないですよ」

 茜も美咲の狼狽振りを気にして慰めの言葉をかけた。

「皆村さんは、私達とつながりがあったから、狙撃されたのよ。私が皆村さんと会ったりしなければ……」

「考え過ぎですよ、美咲さん。そんな事を言い出せば、大原さんがあの刑事さんを紹介したんですから、大原さんも悪くなりますよ」

「そ、そうね」

 ネガティブな思考は何も生み出さない。それが、美咲の座右の銘だ。すぐに悪い考えを振り払う。

「刑事さんのお見舞い、行きます?」

 茜が水を向けると、美咲は、

「私が行っても、皆村さんの容態が良くなる訳ではないわ。それより、元を叩かないと」

「そうですね」

 いつもの美咲に戻ったのを確認した茜は、前を見て言った。

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