第十一章 後小松謙蔵の正体 10月2日 午前11時

 葵は麗奈の事務所で妙な感覚に囚われていた。

(男共の熱い視線は、随分と経験して来たけど、女子の熱い視線は、えーと……)

 彼女は相当困惑している。麗奈の部下である女の子は、まだ茜と年齢が変わらないくらい若そうだ。

(この子って、麗奈さんが自分の好みで採用したのかな? それとも、この子がここに来て目覚めてしまったの?)

 どんな屈強な男にも怯まない葵も、まだあどけなささえ残る女の子にジッと見つめられるのは怖い。

「あの」

 葵は堪らなくなって振り返った。

「は、はい!」

 事務員の女の子は、直立不動になり、葵を見た。

「何かあったら呼びますから、お仕事続けて下さい」

「あ、はい」

 その事務員は泣き出しそうな顔になり、自分の机に戻って行く。

(どうしてこんなに罪悪感を覚えてしまうの?)

 葵は、自分を死の淵まで追い詰めたあの星一族よりある意味手強い「敵」がいる事を知った。

「!?」

 その時、葵は事務所のドアのロックを壊そうとする音を聞いた。

(もう来たの!?)

「招かれざる客が来たようです。奥に隠れて下さい」

「え? あ、はい」

 彼女はある程度の事は麗奈に聞かされているのであろうが、全貌は知らないのだろう。アタフタしながら、麗奈の部屋に入った。

「ドアをロックして、私がいいと言うまで、絶対に開けないで下さい」

「はい」

 ガチャッとロックがかかる音がした。次の瞬間、ドアがこじ開けられ、黒尽くめの男が三人、フロアになだれ込んで来た。三人とも、ロシア製のピストルを構えている。

「あらあら、女しかいない事務所に、大男共がそんな物騒なものを持っていないと乗り込めないなんて、ロシアンマフィアも知れたものねえ」

 葵のその言葉に、三人はギクッとした。それでもすぐに気を取り直し、

「死ね!」

 問答無用の銃撃が始まった。葵はそれをまるで見透かすかのようにかわし、間合いを詰める。

「!」

 ギャング達は、まさか銃撃を掻い潜って相手が接近するとは夢にも思っていなかったのだろう、葵の急襲になす術なく倒れた。

「弱過ぎる……」

 葵は、いきなり飛び道具を使う連中は頭が悪いか弱いかのどちらかだと考えている。

「こいつらの場合、バカで弱いようね」

 気絶しているギャングを特殊なロープで全員縛り上げ、携帯を取り出す。

「ああ、総監? 何度も悪いんだけど、東京の治安てどうなってるのよ? また暴漢に襲われたんだけど」

 警視総監が電話の向こうで必死に詫びている。葵はクスッと笑い、

「冗談よ。とにかく、こんな邪魔な連中はとっとと連行して欲しいから、大至急護送車を手配してね」

 葵は麗奈の事務所の住所を告げると、サッサと携帯を切り、

「出て来て大丈夫ですよ」

と事務員の女の子に声をかけた。

「怖かったですゥッ!」

 事務員の子はそう叫ぶと、葵に抱きついて来た。

「あ、その、もう大丈夫ですから」

「は、はい」

 彼女は泣いていた。その上、ガタガタと震えている。相当怖かったのだろう。

(これは別にそういう事ではないわよね? 一般女子の、当たり前の反応よね)

 葵は、その子が特別な感情から自分に抱きついて来たのではないと強く言い聞かせた。

(そう言えば、王女様は元気かな?)

 不意に懐かしい顔を思い出してしまう葵だった。


「えーっ!? 銃撃されたあ!?」

 麗奈は葵からの連絡で、眩暈がしそうだった。

「それで、沙希ちゃんは無事よね?」

 事務員の女の子は沙希ちゃんか。横で聞いている篠原はその名を頭に刻み込む。こんな緊急時にも、彼のスケベセンサーは活動を続けている。

「被害は? え? 壁に弾痕?」

 ギクッとする篠原。

(ああ、弾の痕か)

 言葉とは恐ろしいものだ、と彼は思った。

「ふう」

 麗奈はグッタリとして椅子にもたれかかった。

「相手がロシアンマフィアじゃ、事務所の損害の賠償請求しても無駄よね」

「ロシアンマフィア!?」

 篠原は仰天した。麗奈は携帯をしまいながら、

「ロシア製の改造拳銃を持っていたようよ。見た目も白人らしいし、決まりでしょ」

「そうですね」

 篠原は眉をひそめる。

「それにしても、後小松のジイさん、どこでそんなつながりを持ったんだ?」

「院長はよくウラジオストックとかに行ってるらしいわよ。護のとこは、そういう情報は掴んでないの?」

 麗奈が不思議そうに尋ねる。篠原は苦笑いをして、

「後小松のジイさん個人は、ウチの管轄じゃないですからね。貴重な情報です。本部に報告しないと」

「そうね」

 麗奈はニヤッとした。篠原はその笑いに何かを感じて、

「何ですか?」

「葵も、何だかんだ言って、護の事を考えているのかな、なんて思ったの」

 篠原は肩を竦めて、

「あいつはそんな優しい女じゃありませんよ」

「ああ、言いつけちゃうぞ、葵に」

「どうぞ、どうぞ。俺の株はもう底値ですから、これ以上落ちる事はないです」

 篠原は苦笑いした。麗奈は彼の開き直りに呆れて、

「どうしてあんた達は、本当の気持ちを相手に見せようとしないのかな」

「ハハハ」

 篠原は照れたように頭を掻いた。


 後小松謙蔵は激怒していた。

「あの腰抜けの総理大臣め。たかが探偵事務所に何を恐れているのだ。役に立たん」

 日本の首相をそこまでこき下ろせる人間はそうはいない。

「何だ!?」

 イラついている所へ、更に追い討ちをかけるように悪い知らせが入って来る。

「何だと!?」

 麗奈の事務所を襲撃したギャング三人が、警視庁に逮捕されたという連絡だった。

「何をしているんだ!? 相手は女三人の事務所だろう!? あの弁護士のところも、女しかいないはずだ。どうしてあんたらは、そこまで使えんのだ!?」

 後小松は血圧が上昇し、倒れそうだった。相手は言い訳をしている。

「思ったより強かったなど、下らん言い訳だぞ。あんたらはプロだろう!? ここまでしくじられると、交渉相手を考えねばならんぞ」

 相手は仰天したようだ。

「別に取引先はいくらでもあるんだ。中国でも、インドでも、中東でも、私は全然構わないんだぞ」

 相手は何か新しい提案をしたようだ。後小松がニヤリとした。

「わかった。今度はうまくやってくれ」

 彼は嬉しそうに携帯を切った。


 日本国の総理大臣である橋沢龍一郎は、官邸の一室のソファで、与党進歩党の最高顧問である岩戸衆議院議員と相対して話していた。小柄で羽織袴姿の岩戸は、好々爺にしか見えないが、未だに政界に隠然たる発言力を持っている実力者であり、葵達月一族の秘密を知る数少ない人物でもある。

「なるほど。その後小松とかいうジイさんが、敵対相手を知らせずにお前に協力を求めて来たので、力を貸した、という事か?」

 岩戸老人は、顔は穏やかなままであるが、眼光が鋭くなっている。橋沢は額から流れ落ちる汗をハンカチで拭いながら、

「はい。ですから、私は、後小松氏にこれ以上協力できない旨を伝えましたので、後は岩戸先生のお力で、彼女達にその……」

「詫びを入れたいという事か、橋沢?」

「はい」

 橋沢は祈るような目で岩戸老人を見ている。

「相手が葵ちゃん達だと知っていたら、決して手を貸したりしなかったのだから、許して欲しいと言いたいのか?」

「はい、その通りです」

 橋沢は真剣な表情で言った。岩戸老人は、大きな声で笑い出した。橋沢はホッとして、顔を綻ばせる。すると、

「バカ者が!」

といきなり岩戸老人が怒鳴った。橋沢は子供のように怯え、身を縮めた。

「相手が彼女達とわかったから手を貸すのをやめた、だと? 貴様は何を考えている!? そもそもそんな連中に一国の総理大臣が、いや、国会議員が手を貸して良い訳がなかろう! どこまで愚か者なのだ、貴様は!」

 橋沢は何も言い返せない。岩戸老人は、彼の返事を待つつもりはないらしく、ソファから立ち上がった。

「あ、先生、お待ち下さい」

 このまま岩戸老人に帰られては、もはや頼る術がない。橋沢は慌てて立ち上がった。

「案ずるな、橋沢。葵ちゃんには伝えておくよ」

 岩戸老人は、振り返らずにドアに近づき、そのまま部屋を出て行った。

「あ、ありがとうございます!」

 頭を下げながら、橋沢は思った。総理大臣を辞めたい、と。


 皆村は、大日本医科大付属病院事件の担当刑事と共に、重要参考人である八幡原栄伍外科部長を訪ねていた。

「どうぞ、おかけ下さい」

 八幡原部長は、二人にソファを勧め、自分も向かいに座る。

「私は疑われているようですね」

 八幡原は皮肉交じりの口調で言った。

「いえ、決してそのような事はありません。これは形式的なものですから」

 担当刑事は作り笑いをして返す。皆村は、ジッと八幡原の顔を見ていた。

「そちらの刑事さんは、私をお疑いのようだ。先ほどから、ずっと睨まれていますから」

 八幡原は皆村にまで皮肉を言って来た。しかし皆村は、

「すみませんねえ、先生。この顔は生まれつきでしてね。申し訳ないです」

と皮肉で返した。八幡原は一瞬ムッとしたが、

「ああ、そうなんですか。それは失礼しました」

と作り笑顔で言う。狸め、と皆村は心の中で毒づいた。

「すでにお調べになっていると思いますが、私は、烏丸君が連れ去られた時、他の者達と一緒にそれを目撃しています」

「ええ、それは存じています」

 担当刑事が鬱陶しそうに応じる。しかし八幡原は、

「それから、烏丸君が殺されたと思われる時間は、彼がするはずだった手術を執刀していました。私に犯行は不可能ですよ」

と尚も言い募る。皆村もうんざりしていた。

(こいつ、自分が完璧なアリバイなのを誰かに叩き込まれたように話す。その不自然さに気づかないほどのバカなのか? それとも他に理由があるのか?)

 八幡原は皆村達が黙ったのをどう解釈したのか、得意そうに笑って、

「見当違いを理解して頂けたようですね。そろそろお帰り下さい。私も優秀な部下を失って、とても困っているのですから」

と言うなり立ち上がった。

「わかりました。また来ます」

 担当刑事が捨て台詞のように言うと、八幡原はバカにしたような笑みを浮かべて、

「何度来て頂いても、同じ事だと思いますがね」

と言い放った。皆村は、そこが自分の「陣地」でなかったから我慢したが、そうであったら、間違いなく八幡原を殴り飛ばしていただろう。

「よく堪えましたね。自分だったら、ぶん殴っているところです」

 部長室を出るなり、皆村は言った。すると担当刑事は、

「貴方がいてくれたからですよ。私一人だったら、殴っていたと思います」

「そうですか」

 思いは同じ。皆村は彼の事が好きになっていた。


 美咲はその直後、皆村から連絡を受けた。

「そうですか」

 何も得るものはないと思ってはいたが、八幡原の自信に満ちた態度は、美咲にある確信を抱かせた。

「やっぱり間違いないわね」

「えっ? 何かわかったんですか?」

 相向かいの席にいる茜が顔を上げて尋ねる。美咲も茜を見て、

「ええ。八幡原氏は、烏丸医師を殺害してはいないという事」

「でもそれは、アリバイが完璧なんだから、元々わかっている事ですよね?」

 茜はキョトンとして言った。すると美咲は、

「そうじゃないの。八幡原氏は、仮にアリバイがあいまいだとしても、烏丸医師を殺害していないの」

「はあ? 美咲さん、意味わかんないにですけど?」

 茜は、美咲が自分をからかっているのではないかと思い始めた。

「そして、二つの事件は紛れもなくある同一人物による計画よ」

 美咲は更に謎めいた事を言う。

「繋がりがあるのはわかりますけど。どうして断言できるんですか?」

 茜は興味津々の顔で尋ねる。美咲はマウスを操作しながら、

「有力容疑者にアリバイがある。それも、自分で作ったアリバイではない。誰かが用意したようなアリバイ。そして、過剰なまでの自信。一つ目の事件の容疑者の海藤氏は直接話が聞けていないけど、皆村さんに見せてもらった捜査資料からわかる事なんだけど、やっぱり証言が全く揺らいでいないの」

「それは、完璧なアリバイがあるからでしょ?」

 茜はまだ美咲が何を言いたいのかわからないようだ。美咲は手を止めて、

「容疑者が、犯人は自分ではないと言い切れるのは、どうしてだと思う、茜ちゃん?」

「それは、自分で殺害していないとわかっているからです。それ以上何があるんですか?」

 茜はまた、美咲が自分をからかっていると思い始めた。

「それ以上の理由があるのよ」

「それ以上? そんな事、あり得ないですよ」

 茜はムッとしている。美咲はその様子がおかしくてクスッと笑ってしまった。

「ああ、やっぱり美咲さん、私をからかっているだけなんですね?」

「違うわよ。わからないかな、それ以上の理由が」

 美咲は笑いを堪えながら言った。茜は腕組みをして、

「それ以上の理由なんてないですよ! あったら、美咲さんに今月のお給料、全部あげてもいいです」

「本当に?」

 美咲がニッとして尋ねたので、茜はギクッとしたが、

「ええ、本当ですよ」

「いいの、本当に?」

「いいですよ!」

 茜はムキになって来ている。美咲はニコッとして、

「じゃあ、今月分のお給料は私のものね、茜ちゃん」

「えっ?」

 美咲の微笑みが、「悪魔の微笑み」に見えた茜は、急に弱気になった。

「う、嘘です、ごめんなさい、美咲さん、さっきの取り消しです」

 茜は大慌てで言った。美咲はさも残念そうに、

「ああ、惜しかったなあ」

 茜はじれったくなって来て、

「早くそれ以上の理由を教えて下さいよ!」

と叫んだ。美咲はクスクス笑っていたが、

「じゃ、教えるわね」

「はい」

 茜は居ずまいを正して美咲を見た。

「二人は、誰が犯人なのか知っているからよ」

「あっ!」

 茜は賭けを下りて正解だったとつくづく思った。

「これ以上自信になる事はないでしょ? 自分が殺害していないのを証明するのは難しいけど、自分以外の誰かが殺害するのを知っていれば、警察にどれほど責められても、全く怯む事はないでしょ?」

「そ、そうですね」

 そんな犯行を計画したのだとしたら、その連中も凄いけど、これだけ少ない情報から、そこまで辿り着いてしまう美咲さんはもっと凄いと茜は思った。

「所長が、麗奈さんの事務所で次の標的となる人を特定できれば、犯行グループの先手を打てるし、犯人を捕まえる事もできるはずよ」

 美咲の言葉に、茜はすっかり感心していた。

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