第十章 やはり崩せないアリバイ 10月2日 午前9時
その男は苦り切った顔で椅子に沈み込んでいた。男の名は橋沢龍一郎。与党進歩党総裁にして、日本国の首相である。彼は以前、葵達月一族に自分の計画を潰され、敵対勢力である星一族を利用して復讐をしようとしたが、その星一族に逆に利用されてしまった。そして、今度は進歩党の支援者の一人である後小松謙蔵の頼みで各方面に圧力をかけたが、まるで機能していない。
「あのジジイ、相手がわかっていないのか……」
彼は椅子の肘掛けをガンと叩き、歯軋りした。
「相手があの女達だと知っていたら、手を貸したりしていない」
いくら傲慢で有名な橋沢首相でも、二度も酷い目に遭えば、葵達とやり合おうなどとは思わない。
「岩戸の爺さんを通じて、形だけでも詫びを入れて、戦線を離脱しないと、私の政治生命が危ない」
彼は、葵達月一族がどれほどの存在なのか、骨身に沁みて理解していた。
「欲の皮の突っ張った老いぼれと心中するつもりはない」
その言葉を聞けば、後小松謙蔵は、
「お前には言われたくない」
と反論するだろう。
「最高顧問につないでくれ」
橋沢首相は、インターフォンに言った。
「後小松総合病院の時と同じですね。最有力容疑者にアリバイがあります」
美咲が皆村からの情報を葵に報告した。
「大日本医科大学付属病院の外科部長である八幡原栄伍氏は、烏丸氏が連れ去られた時、現場にいました。多くの医師や看護師が彼を目撃しています」
美咲は続けた。
「烏丸氏は、何度か医療ミスで患者を死亡させていて、それを八幡原氏の力で握り潰してもらったために、まさにアゴで使われてて、同僚には『殺したい』と言っていたそうです」
「
葵は眉をひそめる。美咲は頷いて、
「その可能性が高いからこそ、アリバイも高く確実なものにしているのでしょう」
葵は腕組みをして、
「またそれか。有力容疑者には、アリバイ。それで、死亡推定時刻にはその外科部長はどこにいたの?」
「烏丸氏が担当するはずだった手術を執刀中でした。これも完璧なアリバイです」
葵は肩を竦めた。
「わかり易過ぎて、バカらしくなって来るわ。犯人は他にいるって事よね」
「その可能性も高いですね」
美咲の意外な返答に葵は目を見開き、
「フーン。美咲には、他の犯人像も見えてるって事?」
「見えているというか、この事件、あまりに不自然なので……」
美咲は資料を捲りながら、
「これだけ大仰な仕掛けを施していながら、最有力容疑者ははっきりしていて、その上鉄壁のアリバイに守られています」
「そうねえ。三流の推理小説だって、もう少し読者にわからないように筋立てするわよね」
美咲は葵の言葉に大きく頷き、
「そこなんです。この不自然さは、意図的なものなのか、偶然の産物なのか、わからないんです」
「なるほどね」
葵は、推理力と分析力では、美咲には敵わないと認識している。
「あんまり難しい話で盛り上がらないでくださいよお、お二人共」
茜が口を尖らせたままでコーヒーと紅茶を運んで来た。
「あら、相思相愛の茜さんには、この事件、どう見えるのかしら?」
葵が意地悪な目で茜を見上げた。茜は机にコーヒーを置きながら、
「何ですか、その、相思相愛って?」
「あれ、意味わからなかった?」
葵が更に追い討ちをかける。美咲は呆れて二人のやり取りを見ていた。
「そうじゃありませんよお。私と誰が、相思相愛なんですかあ?」
茜は頬を紅潮させて、わざとらしく尋ね返す。葵は二マーッとして、
「大原君に決まってるじゃないの。だって、彼、大人の女性は苦手なんでしょ?」
茜はムッとして葵から離れ、美咲に紅茶を渡すと、
「大原さんはロリコンじゃありません! それと、私も子供じゃありません!」
と葵を睨みつけてから、スタスタと給湯室に行ってしまった。
「所長、からかい過ぎですよ」
美咲が
「貴女がいつも茜に甘いから、今日はビシッと言ってあげたのよ」
「ホントですか?」
美咲は目を細めて葵を見た。葵はニヤリとして、
「まあ、そんな事より、次に狙わそうな病院を予測してみましょう。これ以上事件が続くと、私が菖蒲さんに殺されちゃいそうだから」
「それはないのでは? 菖蒲さんが所長を殺害する事はできないと思いますよ」
美咲が大真面目な顔で言ったので、葵は大笑いしてから、
「菖蒲さんが私を殺すとしたら、言葉で殺すでしょうから、証拠が残らないわね」
「もう! 真面目に考えて下さい」
美咲は頬を膨らませて言った。そして、
「それより、麗奈さんは大丈夫なんですか?」
「あら、心配?」
葵が嬉しそうに尋ねたので、美咲は、
「違いますよ! あの人も狙われているんですよ!?」
と強い調子で言い返した。
「それなら、ボディガードをつけたから大丈夫」
「え?」
美咲はそれが誰なのか気づき、ハッとした。
「でもそうすると、菖蒲さんが……」
「それも平気。私達を始末するのは、おおっぴらにするつもりはないようだから、菖蒲さんのガードも護がするわ」
「ええ? 麗奈さんと菖蒲さんを同時にガードするなんて、無理ですよ」
「それができるんだなあ、護には」
葵が妙に嬉しそうに言ったので、美咲はキョトンとしてしまった。
「酷いわ、護君たら。私を病人扱いしてえ」
心療内科の受診を終えて、診察室から出て来た麗奈は、廊下で待っていた篠原護に言った。
「護君はやめて下さいよ、麗奈さん。その呼び方、ゾッとするんです」
篠原は真顔で言う。麗奈はクスッと笑って、
「なあるほどお。菖蒲がそう呼ぶんだっけ。じゃ、何て呼べばいい? 護?」
「あ、いや、それも……」
「ああ、そうか。これは葵の呼び方よね。どうしよう、呼び方がないわ」
麗奈はわざとらしく困った顔で篠原を見上げる。
「護でいいですよ。苗字で呼ばれるのも、何か違和感あるし」
「ありがと、ま・も・る」
麗奈は篠原の左腕にスッと自分の右腕を絡ませた。
「え?」
ギクッとする篠原。
(おいおい、麗奈さんて、女が好きだったんじゃないのかよ?)
「あら、護。何を怯えてるのよ。私は別に貴方に襲いかかろうなんて思っていないわよ」
「はあ……」
姉以上に疲れそうだ、と思う篠原であった。彼は麗奈の腕を振り解くと、
「それから、ここへ連れて来たのは、姉の依頼なんですからね。俺が麗奈さんを病気だって思ってる訳じゃないですから」
「それと、護衛の問題もあるんでしょ?」
麗奈は真顔で言った。篠原は頷き、
「そうです。本当は、美咲ちゃんか葵がつくべきなのでしょうけど、いろいろと事情があるんですよ」
「私のせい?」
「わかっているのなら、護君に大人しく従っていなさい」
突然菖蒲がそこに現れた。ここは菖蒲が勤務する大学病院である。現れて当然なのだ。
「うるさいわねえ、菖蒲。あんたのせいで、私と美咲ちゃんとの楽しい一時が失われてしまったのよ!」
「お黙りなさい、麗奈! 楽しいのは貴女だけで、可哀相な美咲には拷問同然なのがわからないの?」
「ご、拷問?」
麗奈の眉が釣り上がった。
「貴女ねえ……」
麗奈が反論しようとすると、
「忙しいので、病気の貴女とはこれ以上付き合っていられないの。また後でね、護君」
と菖蒲は立ち去ってしまった。相変わらず台風のような女だ、と麗奈は思い、溜息を吐いた。
「後小松を訴える前に、あいつを訴えようかしら」
「協力しますよ、麗奈さん」
篠原が楽しそうに言った。麗奈は思わず噴き出し、
「可哀相なお姉さんねえ、菖蒲は」
「俺はそれ以上に可哀相な弟ですよ」
篠原はニヤリとして返す。麗奈は苦笑いして、
「そうかもね」
と言ってから、
「それより、また犠牲者が出たんでしょ? どうなってるのよ、あの事件?」
「俺もいろいろ探ってはいるんですが、どうも妙な連中が動いているようで、難しそうです」
「妙な連中?」
麗奈が篠原を見上げた。篠原は麗奈を見て、
「テロリストです」
「テロリスト?」
さすがに怖い物知らずの麗奈もビクッとした。
「何が目的なのか、見当がつかないんです。後小松とテロリストって、接点がない気がして」
「そうね」
麗奈は腕組みをし、
「もう一つ気になっているのは、金村医師と今度の犠牲者の烏丸医師との関係ね。全くつながりがないみたいね」
「ええ。まさかとは思いますが、模倣犯の可能性もありますね」
「黒い救急車まで造る模倣犯?」
麗奈が呆れ気味に問い質す。篠原は肩を竦めて、
「もしかすると、救急車はレンタカーで、それぞれ関係のない犯人が借りただけとか?」
「葵に怒られるわよ、護。真面目に考えなさいよ」
「はい」
篠原は頭を掻いた。
葵と美咲は、都内にある病院を検索していた。
「内部で揉め事が起こっていて、何かありそうなところって言っても、難しそうね」
葵がモニターから顔を放して言う。美咲はマウスを操作しながら、
「そうですね。物量作戦で行きますか?」
「そうね」
美咲は常時利用している情報屋達に一斉にメールを送った。
「昨日みたいにお手上げの返事ばかりでは困るけど」
葵が呟く。美咲もそれを心配していた。情報屋は、自分の身に危険が及ぶような事は決してしない。報酬をはずんでも、動いてくれない場合もあるのだ。
「あ!」
葵は自分の席に戻りながら、大声を出して立ち止まった。
「な、何ですかあ、いきなり? ビックリさせないで下さいよお」
カップを片付けていた茜は、危うくトレイから落としてしまいそうになった。
「黒い救急車って、医療ミスをした医師を連れ去りに来るのよね?」
葵は茜の抗議を完全に無視して美咲を見た。
「ええ。でも、それは直接は関係ないのでは?」
美咲も葵の意図がわからず、キョトンとしている。
「医療過誤のエキスパートがいるでしょ、知り合いに!」
「ああ!」
そこまで言われて、美咲は合点がいった。しかし、茜は、
「何の事?」
と首をかしげたまま、トレイを抱えて給湯室に歩いて行く。
「麗奈さんに確認してみて。第二の殺人事件の犠牲者の烏丸氏が、接触して来ていなかったかを」
「はい」
美咲は携帯を取り出し、麗奈に連絡した。
「わあお」
病院の待合室の椅子に座っていた麗奈が、思わず声をあげた。周囲の患者が彼女を睨む。
「麗奈さん!」
篠原が小声で窘める。麗奈は肩を竦めて、
「ごめーん。美咲ちゃんからだったので、つい嬉しくて」
と言うと、携帯を開いた。
「はあい、美咲ちゃん、お久ー」
電話の向こうで呆れている美咲の姿が、篠原にははっきりと思い浮かんだ。
「え? 何だ、お仕事の話?」
麗奈の顔が真剣な表情になる。篠原はそれに気づき、彼女に顔を近づけた。
「ええ、そうね。それは私も思い出さなかったわ。さっすが、美咲ちゃん」
美咲は、その事に気づいたのは葵だと正直に話したようだ。麗奈は篠原をチラッと見てから、
「そういう謙虚なとこも大好きよ。じゃあね」
と携帯を切り、
「烏丸医師も、私のところに相談に来ていたわ。すっかり忘れてたんだけど」
「繋がったんですね、二つの事件が?」
篠原が興奮気味に言うと、
「まだそこまでは断定できない。ただ、全く無関係だと思われた二人が、本当はそうではないかも知れないとわかったのは収穫ね」
麗奈はすっかり法律家の顔になっていた。
「葵は、私の事務所に来た医師の中から、次の犠牲者が出るかも知れないと考えているらしいわ」
「となると、麗奈さんの事務所が危ない可能性がありますよ」
篠原が立ち上がった。すると麗奈は、
「それもご心配なく、護。すでに葵が向かったらしいわ。貴方はここにいるように、ですって」
「はあ、そうですか」
篠原はガッカリしたように椅子に戻った。
「あらん、そんな私から離れたいの、護? 酷いわ」
「違いますよ。離れたいのは、もう一人のマルタイ(犯罪の目撃者や重要な証言をする人で犯人等に命を狙われている者)ですよ」
篠原の言葉に、麗奈はクスッと笑い、
「ホントに可哀相なお姉さんね、菖蒲は」
「そうですかね」
篠原は、やっぱり俺の方がずっと可哀相だと思った。
葵はその頃、麗奈の事務所に到着していた。
「いらっしゃいませ」
妙に愛想のいい事務員が出迎えた。心なしか、彼女の顔が紅潮しているように見えた。
(もしかして、この子もあっち側の人?)
葵は背中を見せないようにしようと思った。
「水無月探偵事務所の水無月葵です。麗奈さんから連絡があったと思いますが」
「はい。どうぞ、こちらです」
事務員はスタスタと奥へ歩き出す。葵は後ろ手にドアをロックして、事務員に続いた。
「この棚に保管されています」
事務員はたくさん並んでいる書棚の一つを指し示し、錠をはずした。
「ありがとう」
葵が微笑んで礼を言うと、事務員は、
「い、いえ」
と赤くなって俯く。
(本物だわ)
葵は溜息を吐いた。
「コーヒーをお淹れします」
事務員はそそくさと給湯室に歩き出した。
(麗奈さんほど攻撃的ではなさそうね)
少しだけホッとした葵だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます