第九章 第二の殺人 10月2日午前6時

 皆村秀一は、眠れぬ夜を過ごした。


 神無月美咲。すでに皆村の中では半ば神格化した存在の女性。その彼女が、実は忍びの一族で、あの傲慢極まりない女医の依頼で、黒い救急車事件を調査していると知り、彼はショックを受けていた。

 それはいい。美咲と一緒にいられる口実ができる。そして彼女は自分を頼りにしてくれている。

 だが、皆村は不安だった。

(もしかして、俺の方が美咲さんの足手まといではないだろうか?)

 彼も警視庁の所轄の人間である。伏せられてはいるが、アフリカの小国イスバハン王国の王族が絡んだ事件、そして内閣官房長官まで関わっていた改進党代表誘拐事件。その二つの事件に大きく関わり、解決したと噂の探偵事務所がある話は耳にした事がある。美咲はその事には言及しなかったが、警視庁そのものを動かし、警察庁の大原とも繋がりがある以上、彼女達がその探偵だというのはまず間違いないだろう。

(そんな美咲さん達と俺なんかが一緒に行動していていいんだろうか?)

 僻みではなく、そう思う。

「えっ?」

 その時、携帯が震えた。

「はい、皆村」

 それは合同捜査本部からだった。黒い救急車に連れ去られた烏丸暁の遺体が、大日本医科大学付属病院から程近い公園の滑り台の上で発見されたと。

「すぐに行きます」

 皆村は無精髭もそのままで、警察寮を飛び出した。そして携帯で美咲に連絡した。彼女から、例え何時でも構わないので、何かあったら連絡を下さいと言われているのだ。

「はい、神無月です」

 美咲はワンコールで出た。起きていたのか?

「朝早くにすみません。烏丸医師の遺体が発見されました。現場は……」

 皆村は走りながら美咲に伝える。

「ありがとうございます」

 携帯が切れた。もう少し話していたかったと愚かな事を考えながら、彼は署の中に飛び込んだ。

「早いな、皆村。お前が一番だ」

 夜通し連絡係をしていた先輩刑事が眠そうな顔で出迎えた。

「では、現場に向かいます」

 皆村は車のキーを掴むと、駆け出した。


「元気ねえ、美咲は」

 葵はリビングルームで一晩中菖蒲の小言を聞かされ、ヘロヘロだった。美咲は苦笑いして、

「私は直接の被害者ではありませんから。何かわかりましたら、すぐに連絡します」

「ええ。頼むわ」

 葵はそう言うと、またソファに倒れ込んだ。

「では、行って来ます」

 美咲はバッグを持ち、部屋を出た。

「あんたもいい加減出かけなさいよ」

 葵は向かいのソファで同じようにヘロヘロになっている篠原に言った。

「いや、今日は休暇とった。葵の介抱をするよ」

「パカ!」

 菖蒲は言いたい事だけ言うと、麗奈を無理矢理連れ出し、帰って行ってしまったので、同じように連れ立って帰ってしまった茜達もいないため、今は二人きりなのだ。

「あんた、こんな状況を利用して、私を襲うつもりじゃないでしょうね?」

「あれ、襲って欲しい訳?」

 篠原がニヤリとする。葵は顔を赤くして、

「殺すわよ、つまらない冗談言うと!」

「お前に殺されるなら本望だよ」

 篠原は菖蒲がいないといつもの「スケベ」に戻ってしまう。

「菖蒲さんがいた方が、あんたが大人しくていいわね」

「じゃ、呼び戻そうか、姉貴を?」

 篠原が携帯を取り出すと、

「やめてよ、嘘に決まってるでしょ!」

 葵は慌てて篠原の携帯を取り上げた。

「ところでさ」

「何!?」

 葵は携帯を投げつけるように篠原に返す。篠原はそれを難なく受け取り、

「茜ちゃん達、どうしたのかな?」

「そんな事気にしてどうするのよ?」

 葵は立ち上がった。篠原は葵を見上げて、

「羨ましいなと思ってさ」

「何が?」

 葵はバスルームに歩き出す。それに気づいて篠原も立ち上がる。

「今頃どこかのいいところでさ……」

「大原君は、あんたと違って一年中発情してないわよ!」

 葵は振り向き様に怒鳴った。篠原は肩を竦めて、

「人間は一年中発情してるんだぜ、知らないのか?」

「それはごく一部でしょ! 大抵の人は、理性で抑えているのよ!」

 葵が勢い良くドアを閉じる。そして聞こえる、カチャッというロックの音。

「おーい、一緒にシャワーしないのかよ?」

 篠原が遥か遠くにいる人に話しかけるような声を出す。

「誰と、誰が?」

 葵の怒りに震える声が尋ね返す。

「俺と、お前が」

「あり得ない!」

 篠原はフッと笑い、リビングルームに戻った。


 そして如月茜。彼女は、葵のマンションを大原と出た後、大原にアパートまで送ってもらった。彼女はドキドキしていた。しかし……。

「じゃ、お休み、茜ちゃん」

 大原は爽やかな笑顔で帰ってしまった。

「……」

 呆然と見送った茜だったが、

「大原さんて、鈍感なのかな?」

と前向きに考えた。

 美咲からのメールで事件の進展を知った茜は、大急ぎで事務所に向かった。そして、大原の携帯に連絡を取る。

「大原さん? 黒い救急車の事、聞いてます?」

 大原ももちろん、警視庁を通じて情報を得ていた。

「じゃ、また」

 茜は頭を仕事モードに変換した。


 皆村は現場に到着していた。さすがに今日は美咲はまだ来ていないようだ。

 彼は遺体発見現場に案内された。

「遺体は、公園のベンチの上に仰向けの状態で遺棄されていました。死亡推定時刻は明け方の五時から六時頃。死因は鋭利な刃物による失血死です」

 昨夜顔を合わせた担当刑事が説明してくれる。

「拉致してから時間が経過していますね。すぐに殺していないのは、我々の担当している事件と同様ですね」

 皆村は忙しく動き回る鑑識課員達を眺めながら言った。

「現在大日本医科大学付属病院にも捜査員を派遣して、関係者の事情聴取をしています」

 担当刑事は更に説明した。皆村は担当刑事を見て、

「犯人の遺留品は?」

「発見されていません」

「そうですか」

 自分の担当している事件でも、何も遺留品は発見されていない。

「それにしても」

 その担当刑事は呟くように言う。

「犯人の目的は何なのでしょうね」

「ええ」

 皆村にもそれは最大の謎であった。皆村は現場を見回している時、美咲がいるのに気づいた。

(あれ、美咲さん、来ていたのか?)

 美咲は皆村より先に来ていた。それも、大原と共に。

(美咲さんて、大原と?)

 いや、確か大原は子供みたいな女と連れ立っていたはずだが? 皆村は頭が混乱した。

「ああ、皆村さん」

 美咲と大原も皆村に気づき、近づいて来る。皆村は担当刑事に会釈して美咲達に近づいた。

「おはようございます」

 大原は鯱張(しゃちほこば)る皆村を見て笑いを堪えていた。

「お、おはようございます」

「おはようございます」

 美咲は別に皆村の様子の異変に気づく事なく、笑顔で挨拶した。

「何も出ないようですね」

 大原が残念そうに言った。皆村はもう一度現場を見渡して、

「ああ。何を考えているのかわからない犯人だからな」

と呟くように言った。すると美咲が、

「犯人が考えているのは事件の真相を知られないようにする事だと思います」

「えっ?」

 美咲は二人を見ながら、

「これだけ大掛かりな事をして事件を起こすという事は、どう考えても何かを知られたくないからです。私達は何か大事な事を見落としているのかも知れません」

 皆村は思わず大原と顔を見合わせる。

(彼女は何かに気づいたのか?)

 皆村は、美咲の考えを聞いてみたくなった。

 皆村と大原が同時に美咲を見た。

「もう一度後小松総合病院を調べてみます」

 美咲はそう言うと皆村と大原に会釈し、立ち去った。

「何だよ、お前、美咲さん狙いなのか?」

 皆村は美咲を見送りながら大原に囁く。大原は苦笑いして、

「とんでもない。僕は大人の女性は苦手なんです」

「え?」

 皆村は驚いて大原を見た。

「お前、そういう趣味なのか?」

「そういうって、どういう事ですか?」

 大原は不思議そうな顔で皆村を見ている。

「あ、いや、何でもない」

 そう言いながらも、確認しておきたかったので、

「お前はあの子供みたいな子と付き合ってるんじゃないのか?」

「そのつもりなんですけど。僕は遊ばれているのですかね?」

 大原は大真面目な口調で言う。皆村は呆れ顔で、

「子供に遊ばれちゃあ、お前もおしまいだな」

「ハハハ」

 大原は陽気に笑った後で、

「皆村さん、あまり彼女の事を悪く言わないで下さいね。普段温厚な僕も、怒ってしまいますよ」

と急に真顔で言う。皆村はビクッとした。大原の腕前は知っているからだ。

「わ、悪かったよ。お前が羨ましくて、ついいじめたくなったんだよ」

 皆村は頭を掻いて言い訳した。大原はフッと笑って、

「心配しないで下さい。美咲さんを狙ったりしませんから」

「あ、あのなあ……」

 皆村が何か言い返そうとした時、大原の携帯が鳴った。茜からだ。

「失礼」

 大原は携帯で茜と話しながら歩いて行く。

「けっ」

 皆村は鑑識の仕事が終了したのを確認し、近づいた。

「皆村さん」

 大原が後ろから声をかける。

「何だ?」

 鬱陶しそうに振り返る皆村。大原は嬉しそうな顔で、

「神無月さんを狙っているのは、僕の知っているだけでも、外務省と国会にもいますよ」

「え?」

 意外なライバルの多さに、皆村はギョッとした。

「それじゃ」

 大原は敬礼して立ち去った。


 美咲は事務所に戻っていた。

「おはよう、茜ちゃん」

「おはようございます、美咲さん」

 コーヒーの香りがフロアに立ち込めている。

「どこかに行ってたんですか?」

「ええ、現場にね」

「え?」

 茜はまたおかしな妄想を始めそうになり、それを頭の中から追い出した。

「そう言えば、大原さんに途中で会ったわ」

 美咲は茜が自分と大原の事を疑っているのを察知していたので、そう付け加えた。後で知られて、

「隠していた」

とか言われても困るからだ。

「そ、そうですか」

 茜はドキドキしていた。

(やっぱりそうなのかな?)

「皆村さんもその後に来たわね」

「皆村って、あの感じが悪い刑事ですね」

 茜はどうにもあの刑事とは馬が合わないと思っている。

「ちょっと顔が怖いけど、別に嫌な人ではないわよ」

 美咲は苦笑いしてフォローした。だが、皆村が聞いたら、ショック死してしまうだろう。

「そうですかあ?」

 茜は同意しかねるという顔だ。

「あいつ、私の事バカにしてましたよ」

 茜は剥れた。美咲は微笑んで、

「そんな事ないわよ。茜ちゃん、考え過ぎよ」

「そうですかあ?」

 茜はそうだと思わない時に「そうですかあ?」を連発するのはよくわかっていたので、美咲は話題を変えた。

「所長から連絡あった?」

「いえ、まだですよ」

 茜はポンと手を叩いて、

「美咲さんが所長のマンションを出る時、篠原さんて、まだいました?」

「いたけど。それが何か?」

 美咲には茜の質問の意図がわからない。

「なーるほどお、そういう事ですかあ」

 妙に嬉しそうな茜を見て、美咲はようやく彼女の「邪推」がわかった。

「また変な事想像してるでしょ、茜ちゃん?」

 顔を赤らめながら言う美咲を、茜は面白がり、

「美咲さんこそ、何を想像したんですか? 私は別に何も言ってないですよ」

「し、知らない!」

 美咲はプイッと顔を背けて、自分の席に座った。

「美咲さんのそういうところが、アホな男共にはいいらしいんですよねえ」

「どういうところ?」

 美咲はプリプリしたままだ。茜は悪戯っぽく笑い、

「美咲さんの可愛いところですよ」

 その言葉にまた赤くなる美咲。

「もう、茜ちゃんたら、私をからかうのが好きなんだから!」

「ああ、ごめんなさい、美咲さん。そんなつもりじゃないですよお」

 美咲がムッとしたままパソコンを起動させたので、茜は慌てて詫びた。


 後小松謙蔵は、また何者かと携帯で話していた。

「警察は抑えているはずなのに、何故動いている連中がいるのだ?」

 相手が何か言っている。

「言い訳はいい。私の力を見くびらないでもらいたいな。国会議員の一人や二人、辞任させる事など、雑作もないのだぞ」

 後小松は怒りのあまり、額に血管を浮き上がらせていた。

「仕事を急げ。何ならマスコミに意図的に誤情報をリークさせろ。私が潰れる時は、あんたも潰れる時なのだぞ、よく覚えておけ」

 後小松は相手が話を終えないうちに携帯を切ってしまった。

「使えない連中だ」

 後小松は携帯を叩きつけるようにソファに投げた。


 葵は篠原の「アプローチ」を振り切り、事務所に着いた。

「お疲れ、二人共」

 葵がそう言ってフロアに入ると、

「所長こそ、お疲れだったんじゃないですか?」

 茜がニヤニヤして言う。葵はバッグを自分の机の上に置きながら、

「ああ、菖蒲さん? ホント、疲れるわ、あの人」

「違いますって。その後ですよ」

 茜が尚も言う。美咲は顔を赤らめてモニターを見たままだ。

「その後って、何?」

 葵はお惚けではなく、本気で尋ねた。

「嫌ですよお、私に言わせないで下さい」

 茜の嬉しそうな顔と美咲の恥ずかしそうな顔を見て、葵はようやく合点がいった。

「ええ、そうね。大変だったわ、もう。腰が抜けるかと思ったわ」

「ええええ!?」

 そんな解答を期待していなかった茜は、顔を真っ赤にした。彼女も所詮は美咲と同じで、「耳年増」なのだ。葵から見れば、「子供」である。

「茜こそ、大原君とはどうだったのよ?」

「い?」

 思ってもいない反撃を食らい、茜はオロオロした。すると美咲までが、

「そうかあ。茜ちゃんも熱い夜を過ごしたのね」

と突いて来る。

「や、辞めて下さい、お二人共! 大原さんはそんな人じゃありませんてばあ」

 涙ぐんで反論する茜を見て、葵と美咲は顔を見合わせた。

「さてと。バカ話はこれくらいにして、事件の調査を本格的に始めるわよ。相手はこっちを敵と看做したのだから、私達も本気で行くからね」

 葵が美咲と茜を見て言う。

「はい、所長」

 美咲と茜は葵を見て返事をした。

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