第五章 医療界の妖怪 10月1日午後6時

「あらあら、美咲はこのまま後小松総合病院へ直行するそうよ」

 葵が携帯のメールを読みながら言った。給湯室から戻って来た茜が、

「美咲さん、はったらき者ォ! 私はもう帰りますけど」

 嬉しそうに言った。すると葵は、

「残念ね、茜。貴女も働き者になってちょうだい」

「えっ?」

 葵の不吉な言葉に茜はギョッとした。葵はニヤッとして、

「大原君に連絡して、例の所轄の刑事の事を聞いて来て。美咲の話だと、あまり協力的ではなかったようだから。作戦変えないといけないかも」

 大原に連絡するのが仕事とわかり、茜は途端に上機嫌な顔になり、

「わっかりましたァ! 私如月茜は神無月大佐を見倣い、働き者になります!」

 敬礼した。葵はプッと吹き出して、

「何よ、それ。大原君と会うの、嫌じゃなかったの?」

「そ、そんな事ないですよ。嫌だなんて言った事ないじゃないですかァ」

 茜は妙にソワソワしながら身支度をし始めた。葵はキョトンとして、

「茜、ロリコン男は嫌いなんでしょ?」

 茜はその言葉にビクッとして、

「き、嫌いですよ。でもォ、大原さんはロリコンじゃないですってば」

「そうなの?」

 葵は納得しかねるという顔で応じた。茜は苦笑いして、

「そうですよ。所長は大原さんを誤解してますよ。大原さんは普通の人です」

「ま、奇人だとは思ってないけどさ。でも、今日だって……」

「ファミレスの件ですか?」

 茜は携帯でメールを早打ちしながら葵を見た。

「そうそう。大人の女性は苦手だって言ってたじゃないの。あれはロリコンの証明でしょ?」

 葵の仮説に茜は反論した。

「大原さんは、美咲さんみたいなおしとやかな女性が苦手なんですよ。もっとその、元気がいい、キャピキャピしてる女子が好きなんですよ、きっと」

「そうかなァ」

 葵は腕組みしてソファにもたれ掛かった。茜は自分の机から離れると、

「大原さん、すぐに会えるそうです。行って来ます」

 足早にドアに向かった。葵は、

「あっ、私ももう出るから、報告はメールか明日事務所で直接でいいわよ」

「はーい」

 茜は振り返らずに出て行った。葵は溜息を吐いて、

「あいつ、最近よくわからないな」

と呟いた。


 夕闇の中、美咲は麗奈の運転するセダンで後小松総合病院に向かっていた。

「院長はスケベジイさんだから、気をつけてね」

 そう言っている麗奈は挑発的な服装に着替えていた。ブラウスのボタンを2つ外し、少しでも屈めば胸が丸見えになりそうだ。スカートも美咲が恥ずかしくなる位短い。スーツの色も淡い紫で、院長の好みなのだろうか?

「それでは襲って下さいと言っているようなものですよって言いたそうね」

 麗奈は呆れ顔の美咲をチラッと見て言った。美咲は苦笑いして、

「そうは言いませんが。麗奈さんの戦略なのだろうと思っただけですよ」

「そう」

 麗奈は嬉しそうに呟いた。そして、

「後小松院長は色々と怖い方々と繋がりがあるらしいの。多分菖蒲はそれを知って貴女を私に紹介してくれたのね」

「えっ?」

 美咲はギクッとした。麗奈はフッと笑って、

「心配しないで。私は貴女達と同じ月一族よ。但し、忍びじゃないけどね」

「そうなんですか」

 美咲は意外に思って麗奈を見つめた。麗奈は前を向いたままで、

「私も護君と同じで養子なのよ。養子になった理由は今説明していられないけど、貴女なら一族の考えはよく理解しているから、察してくれるわね」

「ええ。月一族の姓のみで血を繋ぐのには限界がありますから、養子・養女を出しているのだとか」

「第一義的にはね。理由はそれぞれの事例ごとに別にもあるわ」

 麗奈はまたも嬉しそうに言った。

「私は貴女達のような身体能力がないから、菖蒲が貴女を引き合わせてくれた、と思うのよ、怪力の美咲ちゃん」

「えっ?」

 美咲は自分の力を知っている事を告げられ、真っ赤になってしまった。

「ごめんなさい、それは貴女にとってあまり知られたくない情報なのね。もう言わないわ」

「いえ、別に……」

 美咲は火照る顔を右手で扇ぎながら応じた。

「院長の後ろには暴力団以上に危険な連中がいるわ。彼は外国のギャング達とも親交があるらしいの」

「ギャング?」

 美咲はギョッとして麗奈を見つめた。すると麗奈はニコッとして、

「あんまり見つめないでよ、美咲ちゃん。運転操作を誤っちゃうわよ」

「あ、はい」

 美咲は前を見た。すると視界に「後小松総合病院」の看板が見えて来た。ライトアップされていて、病院とは思えないような赤地に白の看板だ。

「趣味悪いでしょ。今時品のない飲み屋だってあんな色の看板付けてないわ」

「そうですね」

 美咲はクスッと笑った。

( この人、こんな言動しているけど、やっぱり法律家なのよね。改めて一族の懐の深さを感じたわ )


 その頃、皆村は美咲が張った付箋紙の箇所を賢明に調べていた。彼は他の刑事に美咲の付箋紙を見られないように全て剥がし、どこに張られていたのかメモしておいた。もう署内には当番の者しかいない。捜査本部の人間は全員聞き込みに出かけた。

「これは……?」

 皆村は一つの付箋紙に目を留めた。

「目撃者の証言が黙殺されている?」

 皐月菖蒲のことだ。しかしその名前は記されていない。

「確か、現場でも大声で捜査本部の連中に食ってかかってた女がいたな」

 あんな女、美咲さんに比べれば……。

( 俺は何を考えているんだ? )

 皆村は自分が何かというと美咲の事を引き合いに出して考えている事に気づき、赤面した。

「何かと黒い噂が絶えない後小松総合病院。医師会の圧力。何かあるな? 捜査本部も真剣に調べている様子がない」

 付箋紙を丁寧に机の引き出しの仕切りの中に片づけると、皆村は立ち上がった。

「神無月さんは今どこにいるのだろう? まさか、奴のところに?」

 彼は自分に対して言い訳しながら、後小松総合病院に行く事にした。

「もしそうなら、彼女が危ない。後小松は只の医者じゃないんだ」

 彼は所轄署を飛び出し、自分の車で後小松総合病院に向かった。


 他方、茜は大原とファミレスで会っていた。

「あのォ」

 ニコニコしながらもモジモジして、茜は尋ねた。

「どうして待ち合わせ場所、ここなんですか?」

 彼女は夜景の見える展望レストランで会いたかったのだ。しかしそんな要求をできるほど茜は図々しくない。

「えっ? 茜ちゃんはファミレスが好きなんじゃないの?」

「はっ?」

 大原の途方もない発言に、茜は完全な間抜け面で応じてしまった。

「え、え、どういうことですか?」

「水無月さんに教えてもらったんだよ。茜ちゃんは高級レストランより、ファミレスの方が落ち着くんだって」

「……」

 茜は項垂れてしまった。

( 所長め、この怨みいつか必ず……)

 しかしそれは絶対に無理だとも思う茜だった。そして、

「ところで、美咲さんが会った刑事さんの事なんですけど」

「皆村さんがどうかしたの?」

 大原は真顔になって尋ねた。茜も真剣な顔で、

「美咲さんの印象だと、あまり好意的ではなかったらしいんです。大丈夫なんですか?」

「ああ、それね。大丈夫だよ。別に協力したくないとかじゃないから」

 茜はキョトンとして、

「そうなんですか? 神無月大佐の攻撃に耐えられるなんて、凄い人だなと思ったんですけど」

「ハハハ。全く逆。皆村さんは多分瞬殺されたんだよ、神無月さんに」

 大原が陽気に言ったので、茜はホッとした。

「じゃ、作戦は成功したんですね?」

「取り敢えずはね。ただ、皆村さんと神無月さんを直接会わせるのは控えた方がいいな」

「どうしてですか?」

 茜はウエイトレスが持って来たサラダに手を付けながら尋ねた。

「皆村さん、硬派じゃなくて、只の純情派だったんだ。神無月さんはタイプど真ん中だって言ってたよ」

「そうなんですか」

 茜はサラダを頬張りながら応じた。大原は微笑んで、

「あの人、もっと頑固な人なのかと思っていたけど、そうじゃなかった。鉄のように見えても、実は脆かったりする場合もあるんだよね」

「そうですね。大原さんはどっちですか?」

 茜はフォークを置いて大原を見た。大原は茜がジッと見つめたので赤面した。

「僕はノミの心臓さ。好きな人に見つめられると、何も言えなくなるんだ」

「……」

 茜はその言葉を曲解した。

「そうなんですか。そうなんだ……」

 彼女はシュンとしてしまった。大原は茜が思ってもいない反応を示したので、ビックリしていた。

「どうしたの、茜ちゃん? どこか具合が悪いの?」

「はい。胸の辺りがキリキリと締め付けられるようで……」

「ええっ?」

 大原は立ち上がって、

「それならすぐに病院に行こう。こんなところで食事している場合じゃないよ」

「美咲さんのところに行きたいんですか、大原さん?」

 茜は涙ぐんで尋ねた。大原はキョトンとして、

「えっ? 何で神無月さんのところに行くのさ? 病院に行くんだよ」

「だって、美咲さんは後小松総合病院に行ったから……」

 大原はそこでようやく茜が何を言っているのか理解した。彼は照れ笑いして、

「僕は大人の女性は苦手なんだよ、茜ちゃん」

と言い、茜をソッとエスコートした。茜は大原に手を握られて耳まで真っ赤になってしまった。

「さ、病院に行きましょうか、お姫様」

「は、はい」

 茜は幸せで死んでしまいそうなくらいだった。


「こんな時間にいらっしゃるとは、どういう風の吹き回しですかな、先生?」

 院長室で対面した後小松院長は、美咲の想像どおりの男だった。脂ぎった顔。自分で靴の紐も結べないと思われる程の膨らんだ腹。全部親指に見えそうな太い指。髪が歳の割に黒々としてフサフサなのは、恐らくそういう事なのだろうと推測した。

「あーら、いつもこのくらいの時間に来て欲しいって言ってたの、院長先生ですわよ」

 麗奈は中身が丸見えになりそうなのも気にせず、低めのソファに腰を下ろした。美咲のスカートの丈でもちょっと躊躇するくらいの高さだ。恐らく、院長の「趣味」でこの高さにデザインしたのだろう。

「ほらほら、美咲ちゃん、自己紹介!」

 麗奈は隣を叩いて座る事を促しながらそう言った。美咲は仕方なくソファに近づき、

「水無月探偵事務所の神無月美咲と申します」

 院長に名刺を差し出し、腰を下ろした。院長はでっぷりとした腹を摩りながら名刺を受け取り、

「ほォ。探偵さんですか。どういうご関係ですかな、松木先生とは?」

「恋人なんです」

 麗奈はニッコリして言った。院長もその答えには仰天したようだ。美咲は呆れてしまって何も言えない。

「何だね、君も女が好きなのか?」

 院長は残念そうに美咲を見て言った。美咲も、この場限りはそれでもいいかなと思うくらい、後小松院長の目はエロ親父全開だった。

「い、いえ、違います。松木先生とはそういう関係ではありません」

 根が正直な彼女は、ついそう答えてしまった。そして、院長の視線の先が自分のスカートの裾に集中しているのに気づき、慌ててハンカチで隠した。

「あーら、残念。美咲ちゃんは私より院長先生の方が好みなのね」

 麗奈はとんでもない事を言い放った。美咲は慌てて否定しようとしたが、

「ほォ。例え嘘でも嬉しいねェ、探偵さん」

 猫なで声の院長の声を聞き、ギョッとして目を向けた。彼はすでに舌なめずりをしている肉食獣のような目で美咲を見ている。

「それで美人の探偵さん、私にどんな御用ですかな?」

 院長は片時も美咲のスカートから目を離さずに尋ねて来た。美咲はハンカチでしっかりガードしながら作り笑いをして、

「実は先日こちらの病院でありました、ある事件についてお尋ねしたいのですが」

 美咲のその言葉に、院長室の空気が一変した。

「事件? 何の事ですかな?」

 院長はようやく視線を美咲の顔に移した。美咲はその眼光の鋭さに一瞬気圧されそうになったが、

「黒い救急車の事件です。こちらの病院の外科医だった金村さんが殺された事件です」

 あれほど嫌らしい顔をしていた院長が真顔になり、やがて険しい顔になった。

「その件は警察に全てお話しました。貴女に話す事は何もありません」

「……」

 美咲は麗奈を見た。麗奈はニッコリして、

「あらァ、院長ったら、急に怖い顔してェ。麗奈、泣いちゃうからァ」

 クネクネしてみせた。まるでキャバ嬢である。しかし院長は麗奈の御機嫌取りに無反応で、

「お引き取り下さい。そのような事で貴女達と話すつもりはありませんので」

 立ち上がり、ドアを開いた。麗奈は肩を竦めて、

「わかりました。出直します。さっ、美咲ちゃん」

「は、はい」

 麗奈はあっさり引き下がり、美咲を促して院長室を出た。

「さようなら」

 院長は冷たくそう言うと、バタンとドアを閉じた。

「すみません、私の段取りが悪かったみたいです」

 美咲は小声で麗奈に詫びた。麗奈は歩き出しながら、

「いいのよ。私も最初は院長室に入るまで苦労したから。それに、今回は顔合わせだと思っていたしね」

「はァ」

 麗奈は始めからすぐに帰るつもりだったようだ。


「美咲さん……」

 皆村は、イライラしながらハンドルを握っていた。事故渋滞に巻き込まれ、後小松総合病院まで後もう少しのところで、全く動けなくなってしまったのだ。

「ここまで来て……」

 美咲の強さを知らない皆村は、彼女が大変な目に遭っているような気がして、居ても立ってもいられない程だった。


「そうだ。水無月探偵事務所。そこを潰してくれ。報酬は弾む。それから、あの出しゃばり女も何とかしろ。そう。医者も弁護士もだ。目障りだからな」

 後小松は携帯に怒鳴っていた。

「私を誰だと思っているのだ。只の医者と思っている奴らには、とことん思い知ってもらうぞ」

 彼の目はギラつき、人の命を何とも思わないような兇悪な様相を呈していた。


 美咲は麗奈の車で自分のマンションに送ってもらっていた。

「病院で分かれても良かったのですが」

「もう、つれないわね、美咲ちゃんは。私におうちを知られるのがそんなに嫌なの?」

「いえ、そういう訳では……」

 実はそうなのだが、「そうです」とは言えない。

「ふーん」

 麗奈はニヤニヤしていた。

「どうしたんですか?」

 美咲は麗奈のニヤニヤが気になって尋ねた。

「彼氏でも来るのかなァ、なんて思ったのよ」

「いえ、今は誰も……」

「あら、美咲ちゃん、フリーなの?」

 つくづく正直過ぎるのはいけないと痛感する美咲だった。

「だったら尚の事、これから食事に行きましょうよ、美咲ちゃん」

「いえ、その、所長に会わないといけないので……」

「じゃあ葵には私から電話しとくわよ」

「……」

 もう降参するしかないのか? 美咲は仕方なく麗奈と食事に行く事を決意した。その時だった。

「えっ?」

 携帯が鳴り出した。

「あっ!」

 まさしく地獄に仏だった。

「誰?」

 麗奈が覗き込んだ。美咲は彼女に携帯を見せて、

「刑事さんからです」

「刑事?」

 麗奈はキョトンとした。

「はい、神無月です」

 美咲は弾んだ声で応じた。


 皆村は、あまりにハイテンションな美咲の声に仰天した。

「あ、急に電話してすみません。今、大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。どちらにおいでなんですか?」

 ああ、勘違いしそうだ。皆村は自分を必死に抑えた。

「今、後小松総合病院に向かう途中なんです。貴女がそこで大変な目に遭っているのではないかと思いまして」

「そうなんですか」

 確かに違う意味で大変な目に遭ってしまったのだが。

「私、もう病院を出て、自分のマンションに向かっているところなんです」

「そ、そうなんですか」

 皆村はホッと一安心したが、その後の言葉を思いつけない。すると、

「あの、皆村さんはもうお食事すませましたか?」

「は?」

 思ってもいない問いかけに、皆村はパニックになりそうだった。

「よろしかったら、一緒に食事しませんか? 今日のお礼もしたいので」

「え、ええっ?」

 つい大声を出してしまった。美咲は驚いたようだ。

「あの、ご迷惑ですか?」

「と、とんでもないです。是非、お願いします」

 皆村は見えていない美咲に対して深々とお辞儀をした。


「ひどーい、美咲ちゃんたら。私を放置して、男と食事ィ?」

 麗奈が口を尖らせて言った。美咲は苦笑いして、

「違いますよ。麗奈さんもご一緒に。刑事さん、黒い救急車事件の担当の方なんです」

「あらま、そうなの。それは貴重な存在ね」

 麗奈はニコッとした。すると美咲は、

「でも麗奈さんの今の服装、あの刑事さんには刺激が強過ぎるような……」

「平気よ。私は気にしないから」

「いえ、そういう事ではなくてですね……」

 美咲はこの「暴走列車」をうまく制御できるのか不安になった。

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