第三章 崩せないアリバイ 10月1日午後2時

「どうして私を見たんですか?」

 美咲が疑惑の眼差しを葵に向けた。葵は愉快そうに微笑んで、

「だってェ、初対面の男の人を一撃で落とせるのは美咲だけだしィ」

 急に十歳程若返った口調で言った。茜がそれを受けて、

「そうですねェ。美咲さんてば、初対面の男子には無敵ですからねェ」

 同調した。大原は苦笑いして、

「僕の先輩は、高校時代から筋金入りの硬派なので、そういう作戦は成功しないと思いますよ」

「それは普通の女子だからよ。神無月大佐にかかれば、どんな難攻不落の要塞もあっと言う間に陥落しちゃうわよ。大原君、試してみる?」

 葵が冗談でそう言うと、茜が仰天して、

「や、やめて下さいよォ、所長! 美咲さんが相手じゃ、私惨敗しちゃいますゥ」

「ハハハ、そうかもね」

 二人が面白がっているのを美咲は呆れて見ていた。

「ホントにもう……」

 すると大原は全員が凍りつくようなことを言った。

「僕は、大人の女性は苦手なんですよ」

「……」

 葵と美咲は目が点になってしまった。茜は何とも複雑な顔をした。

「多少は自覚してたんだ、大原君……」

 葵がやっとそれだけ言った。


 警視庁管内のとある所轄署のロビーは、「後小松総合病院殺人事件」のせいで、いつになくごった返していた。普段はそれほど出入りしない新聞記者やテレビ局のクルー達がたむろしている。外には野次馬もいる。大した用もないのに建物の中に入って来る人間もいた。「黒い救急車」の事は伏せられてはいたが、ネットではそれとなく噂され、知っている人は知っているという状態だった。

「邪魔な奴らだ」

 ロビーにいる連中を見渡して、1人の刑事が呟いた。彼の名は皆村秀一みなむらしゅういち。どちらかというと「強面こわもて」の部類に入る、バリバリの現場担当。今回の事件の捜査本部の一員で、後小松総合病院の胡散臭さに不満を持つ男だ。ガタイの良さとその面構えで、取り調べと聞き込みにはかなり長けていたが、どうしても先走る癖があり、上層部には煙たがられている。それでも彼が捜査本部から外されないのは、年齢(まだ二十八歳)の割に高い検挙率を誇っていたからだ。

「何も話す事はないですよ」

 皆村に気づいたマスコミの連中が彼に群がるが、皆村は何も答えず、ロビーから奥へと歩を進めた。その時女性警察官が、

「皆村さん、警察庁の大原さんから紹介された方がいらしてますよ」

 声をかけた。皆村は鬱陶しそうな顔で、

「ああ、そう言えば、そんな連絡受けたな。面倒臭いから適当にあしらっといてよ」

「何言ってるんですか。署長もご存じなんですから。ちゃんと応対して下さいね」

 女性警察官はムッとして言い添えた。皆村は肩を竦めて、

「へいへい」

 応じると、その紹介された人物が待っている応接室に向かった。

「大原の奴、俺が死ぬ程忙しいのに、変な事言って来やがって……」

 皆村はブツブツ言いながら応接室のドアを開いた。パーテーションの磨りガラスの向こうに薄らと人影が見えた。

( 女?)

 髪が長いのはわかった。

( ったくよォ、大原の奴、どんなとこに頼まれたんだよ。ちょっと怖い顔して話せば、すぐに帰るだろう )

 皆村は頭の中でいろいろと作戦を考えてパーテーションの向こうに回り込みながら、

「時間があまりありませんので、手短にお願いしますよ」

 その女性の座っているソファの反対側に腰を下ろした。

「……」

 皆村は固まってしまった。そこにいたのは、ガサツで軽薄な女性記者ではなく、深窓の令嬢のような上品なスーツ姿の女性。しかも自分のタイプど真ん中だったのだ。

( や、やばい……)

 皆村は決して女性が苦手な訳ではない。普通に話くらいはできる。しかし、それがタイプの女性だと全然違ってしまう。もうまともに顔を見る事が出来ない。話をするなんて絶対無理。

「ご迷惑をおかけします。なるべく短くすませるように致しますので、よろしくお願いします」

 もちろん、その女性とは神無月美咲。別名「撃墜女王」(水無月葵談)。美咲はゆっくりと頭を下げた。皆村は卒倒しそうだった。

( ひーっ、仕草が全部素敵過ぎる……)

 皆村が全然自分の方を向いてくれないので、美咲は少し悲しくなってしまった。

( そんなに私の事が嫌なのかな? 所長の作戦が裏目に出たのね )

 葵の「色仕掛け作戦」の内容はこうだ。

 硬派で鳴らしている男は、清純派に弱いはず。美咲はそんな男のストライクゾーンど真ん中の存在だ。だから、彼女が何を訊いても全部答えてくれる。捜査上の秘密でさえ、聞いてもいない事まで全部話してくれるだろう。

( そんな簡単にいくワケないのよ。所長は男性を見くびり過ぎだわ )

 美咲は皆村が顔を俯かせたままなので、何とかこっちを向いてもらおうと思い、

「大原さんから聞きました。甘いものがお好きだそうで。どうぞ後で皆さんでお召し上がり下さい」

と近くの和菓子屋で購入した饅頭の詰め合わせをテーブルの上に置いた。しかし皆村は、

「あ、ありがどうございます」

 相変わらず美咲の方を見ないで答えた。とうとう美咲は我慢できなくなり、

「あの」

「はい?」

 皆村はそれでも俯いたままだ。

「そんなに私の事がお嫌なんですか?」

「へっ?」

 皆村はビクッとした。

( やべ、彼女を不愉快にさせちまったぞ……。大原に言いつけられて、俺は署長に大目玉だ。それは困る。でも顔を見るのは無理だ。眩し過ぎる……)

 ここまで来るともうバカである。皆村はその時はたと気づき、ジャケットの内ポケットからサングラスを出してかけた。

( これで何とか……)

 皆村はゆっくりと美咲の方を見た。美咲は皆村が何故いきなりサングラスをかけたのか理由がわからないので、呆気に取られていた。

「さて。何でも訊いて下さい」

 皆村は引きつったような笑顔で美咲に言った。

( しっかし、これでもまだ眩しい……。ホント、女神みたいな人だ)

 皆村には美咲がどんな風に見えているのだろうか? 美咲はニッコリ微笑んで、

「ありがとうございます。ではお尋ねします」

 皆村は居ずまいを正した。美咲は真顔に戻り、

「後小松総合病院殺人事件の事についてなのですが、疑わしい人物はいるのですか?」

 皆村も真剣な顔で、

「容疑者とまでは言えませんが、それに近い存在の人物はいますね」

「それはどなたですか?」

 皆村は危うく、

「そんなこと教えられるわけねえだろ、何考えてるんだ?」

と言いそうになったが、こちらを見ている美咲の眼は、今にも泣き出しそうにウルウルしている。実は美咲の目は元々ウルウルしているのだが、知らない男には泣きそうな瞳に見えてしまうのだ。葵はこれを「悪魔のウルウル」と呼んでいる。皆村はその瞳にまさしくノックアウト寸前だった。彼は遠のきそうな意識を何とか保ちながら、

「海藤充。同僚の外科医です。ガイシャとは悉く対立していたようです」

「そうなんですか」

 美咲はごく普通に相槌を打っただけなのだが、皆村はもはや神無月教の熱狂的な信者になってしまっていて、

「もっと詳しく教えて下さい」

 そう言われたような気がしてしまった。

「しかしですね、動機はあるんですが、厄介な事がわかりまして……」

「厄介な事、ですか?」

「ええ」

 皆村は、まるでスキューバダイビングをしていた人が、酸素ボンベの故障で慌てて海上に顔を出した時のようにゼイゼイと息をした。

( ダメだ。限界に近い。どうすればいい? )

 皆村は美咲と話す事に息苦しさを感じていた。美咲は皆村の様子がおかしいので、

「あの、お身体の具合が悪いのですか?」

 小首を傾げて尋ねた。皆村はそれを見てしまった。まさしくそれは「悩殺」ポーズに等しかった。

「い、いえ、そんな事はありません。ちょっと失礼します」

 皆村はバッと立ち上がると応接室を飛び出し、男子トイレに駆け込んだ。

「畜生、何であんなに綺麗な人がこの世にいるんだ?」

 皆村は手洗い場で顔を洗い、火照る自分を冷やそうとした。

「よし! なるべく彼女を見ないようにしよう。サングラスをうまく使えば、どっちを見ているのかわからないだろう」

 皆村は意を決して応接室に戻った。

「申し訳ありません」

 皆村は美咲を視界に入れないようにしてソファに座った。美咲は何が何だかわからない状態だったが、話を進める事にした。

「厄介な事って、何ですか?」

「あ、ああ、そうでしたね」

 皆村は自分が何を話したのか思い出すのに手間取ってしまった。

「ガイシャが拉致された時、海藤はその場にいたんです。他の目撃者と共にガイシャが連れ去られるのを見ているんですよ」

「という事は、犯人ではあり得ないのですね」

 皆村はつい美咲を見てしまいそうになるのを必死で堪えながら、

「そうです」

 美咲はちょっと考える仕草をしてから、

「金村さんが殺害された日時はどうですか? その時もアリバイがあるのですか?」

 皆村は顔を美咲に向け、視線だけ下に向けて、

「はい。海藤は、金村氏が拉致された当日、アメリカに出張しています。帰国したのは、金村氏の遺体が発見された翌日です。つまり、昨日まで日本にいなかったのですよ」

「……」

 美咲はちょっと驚いていた。

( 拉致された日にアメリカに行って、遺体が発見された翌日に帰国なんて、都合が良過ぎるアリバイね )

「出入国管理局にも照会しましたが、海藤は確実に渡米していました。完璧なアリバイがあります。直接手を下す事は不可能なんです」

「作ったようなアリバイですね」

 美咲の言葉に皆村は苦笑いして、

「確かに作為が感じられますが、海藤が実行犯でない事は動かし難い事実です。こればかりは、どうする事も出来ません」

「そのようですね」

 美咲は完全に探偵モードに入っていた。さっきまでの「悪魔のウルウル」は消え失せ、今度は凛々しい顔だ。皆村はそれをつい視界に入れてしまった。

( この人、泣いても怒っても笑ってもど真ん中だ……)

 神無月大佐はこうして皆村を完全攻略してしまった。しかも全く無意識のうちに。

「あの」

 美咲が声をかけると、皆村はビクッとして彼女を見た。

( しまった、真正面に……)

 皆村は美咲の顔をまともに見てしまった。意識が遠のきそうだったが、

「な、何でしょうか?」

 問い返した。美咲は何故か申し訳なさそうな顔で、

「捜査資料とかを見せて頂く事は出来ますでしょうか?」

 普通ならテーブルを蹴飛ばして、

巫山戯ふざけるな! 何でてめえにそんな大事なものを見せなくちゃならねえんだよ!」

 怒鳴りつけるはずだが、今の皆村にそんな発想はなかった。

「ちょっと待って下さいね」

 言うや否や、彼は応接室を飛び出し、捜査本部のある第一会議室に走った。そしてそこにある山のような書類を抱えると、他の刑事達が唖然としている中、美咲の下へと駆け出した。

「どうぞ。お持ち下さい」

 美咲はその書類の山を見て呆気に取られた。

「いえ、あの、これ、資料の原本ですよね? 持ち出すのはまずいのでは?」

「大丈夫です。大原に頼んで全部うまくやりますので。お役に立てて下さい!」

 何故か皆村は敬礼して言った。

「はァ」

 美咲はどう答えていいのかわからない状態で皆村を見上げた。

「やっばり、良くないですよ、捜査資料の持ち出しは。これ、ここで全部目を通しますので」

「はっ?」

 皆村は美咲の返答に仰天した。そこにある資料は、仮に分速千文字で読んだとしても五時間はかかる量だ。

「そう言えば、自己紹介もしていませんでしたね」

 美咲は立ち上がって名刺を差し出した。

「水無月探偵事務所の神無月美咲と申します」

「あ、自分は刑事課の皆村秀一です」

 皆村は慌てて名刺を探して美咲に差し出した。美咲は名刺を受け取り、

「素敵なお名前ですね」

 葵に言われていた言葉を口にした。皆村は真っ赤になった。

「いや、そんな事は……。貴女のお名前は本当に素敵ですが」

「ありがとうございます」

 返事も葵の仕込みである。

「その、自分はこれから捜査会議がありますので、おそばにいられないのですが」

 皆村は火照る顔をハンカチで拭いながら言った。美咲はソファに腰を下ろして資料を見渡し、

「大丈夫です。何かわからない事があれば後程お伺いしますので。どうぞ、会議にいらっしゃって下さい」

「は、はい」

 会議は二時間はかかるだろうが、神無月さんが捜査資料に目を通し切るのは早くても五時間後だ。その後もう一度ここに来て話せばいい。皆村は自分が美咲と話せるのを楽しみにしているのに気づいてギョッとした。

( 俺、何考えているんだ? )

「では、失礼します」

「お手数をおかけしました」

 退室する皆村に、美咲は立ち上がってお辞儀をした。


「皆村、捜査資料をどこに持って行ったんだ?」

 会議室に入るなり、刑事課の課長が怒鳴った。皆村はハッとして、

「いえ、あのその、えーと……」

 大バカである。捜査会議があるのに、捜査資料を持ち出して貸してしまうとは。皆村は課長にさんざんどやされ、仕方なしに応接室に向かった。

「返してもらうしかないか」

 彼は落ち込んでいた。美咲にそんな事を言うのも恥ずかしいが、捜査会議があるのに資料を貸した自分を軽蔑されるのではないかとも思った。

「あの」

 応接室にそっと入ると、美咲が捜査資料を抱えてパーテーションの向こうから現れた。

「あっ」

 皆村は、美咲が捜査資料が必要な事に気づいたのだと思った。

「すみません、それ、必要でした」

「そうですよね。でも、間に合って良かったです」

「はっ?」

 美咲の言葉に皆村はキョトンとした。美咲はニコッとして、

「全部目を通しました。ありがとうございました」

「……」

 皆村は呆然とした。

( 嘘だろ? )

「では私はこれで。まだご連絡致します」

「は、はい」

 美咲はニッコリしたまま応接室を出て行った。皆村は美咲が気を遣って嘘をついたと思ったのだが、資料のところどころに付箋紙が張ってあるのに気づいて、

「本当に読んだっていうのか?」

と驚愕してしまった。


「なるほど。それは鉄壁のアリバイね」

 美咲からの報告を受け、葵は椅子に身を沈めて呟いた。茜がコーヒーを出しながら、

「でも、胡散臭いですよね、そのアリバイ」

「そうは言っても、どんな方法を使っても海藤氏に犯行は不可能なのよ。それだけは動かし難いわ」

 美咲が言った。葵は、

「やっぱり、裏があるわね。美咲、後小松総合病院の情報を収集して。まともなやり方だと、何もわからないかも知れないわ」

「そうですね」

 美咲は自分の席に着き、パソコンを起動させた。

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