第一章 都市伝説「黒い救急車」 10月1日午前11時
美咲はあるサイトの内容のプリントを葵達に渡した。
「それが所謂『都市伝説 黒い救急車』です。その話は作り話というのが多くの人の意見ですが、事によったら話の核となる部分が実話として存在しているのでは、という仮説もあるようです」
美咲は席に戻ってパソコンを操作しながら言った。
「このサイトの話を読む限りでは、作り話の域を出ていないような気がするが」
篠原はプリントから顔を上げて美咲を見た。美咲は頷いて、
「はい。そのサイトはほんの一例なんです。もっと詳しいサイトもありますが、量が膨大過ぎてプリントアウトできませんので、私がその都市伝説の概要をお話しします」
葵達は一斉に美咲を見た。美咲は葵と菖蒲の視線に少し気圧されたが、
「黒い救急車は、医療過誤によって命を落とした人々の怨念が作り出した妖怪だというのが、多くのサイトでの意見です。今お渡ししたプリントの内容もその説に立って書かれています」
「それを誰かさんが実体化したってわけね」
と葵。菖蒲は、
「続けて、美咲」
と葵に一瞥をくれてから言った。葵は苦笑いをして肩を竦め、美咲を見た。そこに茜がトレイに飲み物を載せて戻って来た。
「ありがと、茜」
菖蒲はそう言って自分の好きな紅茶のカップを取った。茜は作り笑いをして応じた。
「医療ミスを犯し、それをもみ消した上に患者の遺族達に何の補償も謝罪もしない病院に、黒い救急車は現れます。そして医療ミスをした医師、それに協力した看護師、さらに握りつぶした病院の経営者達を真っ黒な隊員服に身を包んだ救急隊員が強制的に救急車に押し込め、そのまま連れ去ってしまいます。そして数日後、攫われた人達は河原や公園、山の中などで変死体で発見されます。いくら調べても何故死亡したのかわからない状態で」
美咲の話を聞いているうちに、葵はバカらしくなってしまったが、自分の様子をしっかり横目で観察している菖蒲に気づき、欠伸を噛み殺した。
「まるで怪談ね。死んだ患者の怨念が救急車になって、自分達の命を結果的に奪った医師達を連れ去り、殺す。でも何で救急車なの? 殺すのなら、霊柩車の方がそれらしいと思うけど」
葵は菖蒲が睨んでいるのを無視して尋ねた。すると美咲は、
「そのことについて、お手元のプリントには書かれていないのですが、この伝説に関する最大のサイトにはこう書かれています」
美咲はブラウザを操作して、そのサイトを開いた。そして、
「何故黒い救急車なのか? その疑問はまだ完全に解消されたわけではないが、一つの説がある。人の命を救うはずの病院で、命を奪われた患者達は、人を助けるために現場に向かう救急車で、命を助けるべき立場の医師達を拉致し、殺害する事で、その矛盾を指摘しているのではないか。だから霊柩車ではなく、黒い救急車なのだろう」
とそこに書かれている文章を読み上げた。菖蒲はニッコリして美咲を見て、
「ありがとう、美咲。そのくらいでおおよそのことは把握できたと思うわ」
「はい」
美咲も微笑んで応じた。茜は給湯室から戻り、自分の席に着くなり、
「それで、菖蒲さんの元同僚の人は、やっぱり医療ミスをしたんですか?」
と尋ねた。菖蒲は紅茶のカップをソーサーに戻し、
「それが金村君は一度もミスはしたことがないのよ。もし本当に黒い救急車が存在するとしても、彼が殺される理由がないの。そこが今度の事件の最大の謎」
「謎でも何でもないだろ、姉さん。犯人が只単にその都市伝説を利用して警察の捜査を攪乱しようとしているだけさ。動機は他にあるよ」
篠原の素っ気ない言葉に、菖蒲はムッとして、
「うるさいわね。私だってそのくらいのことはわかってます。謎なのは、どうしてそんなわかり易いことをわざわざしたのか、よ。現実に何人もの病院関係者や患者さんが、黒い救急車が現れ、黒い救急隊員が金村君を連れ去ったのを目撃しているの。そんな大掛かりな事をして、どうするんだろうって、疑問に思うでしょ、護君」
「……」
篠原は「護君」と呼ばれるのが本当に鬱陶しいようだが、何故かそのことを菖蒲に言わない。
「目撃者はいるんですか?」
葵が退屈そうな顔で尋ねた。菖蒲は葵を睨み据えて、
「いるわ。たくさん。でも、警察は犯人の偽装工作だと断定していて、全く目撃証言を無視して捜査しているの。このままじゃ、この事件は迷宮入りしてしまうわ」
葵は菖蒲の鋭い視線をまともに受けていられないのか、美咲を見て、
「都市伝説の方では、その辺はどういう展開になっているの?」
と尋ねた。美咲はマウスを動かしながら、
「目撃者は多く存在しますが、誰も詳細を覚えていない、ということになっているようです。つまり、目撃者は黒い救急車によって記憶を操作されていると解説されていますね」
「警察がそう考えるはずもない。救急車の目撃証言を無視しているのが本当なら、そこには何か理由があるはずだな」
篠原の「無視しているのが本当なら」という言葉が引っかかったのか、菖蒲は不機嫌そうな顔で、
「無視しているのは本当よ。私も証言しているんだから」
「えっ? 姉さん、現場にいたのか?」
「たまたまね」
篠原は葵と顔を見合わせた。菖蒲は篠原を見て、
「黒い救急車は、間違いなく現場に現れて、金村君を連れ去った。そして彼は後日遺体で発見された。それは動かし難い事実なのよ。それなのに警察は、救急車の事を何も調べていないし、目撃者の事情聴取もしていないわ」
「事情聴取もしていないんですか?」
さっきまでとは違う顔をして、葵が言った。菖蒲はニヤッとして、
「とうとう興味を示したわね、葵。この殺人事件は、決して怪談ではないし、都市伝説でもないのよ。事実なの。それなのに、誰かが圧力をかけたのか、警察の捜査がどうも信用ならないの」
茜は大原が信用されていないようなことを言われた気がしてムッとしたが、さすがに菖蒲に対して口答えする勇気はないらしく、何も言わなかった。
「都市伝説の解説では、黒い救急車のことを調べようした人達は皆、謎の死を遂げていると書かれています。だから未だに真相がわからないのだと」
美咲が言い添えた。篠原は腕組みをして、
「都市伝説とか怪談話は大概そうだよな。だったらどうして黒い救急車は殺された患者の怨念だということがわかるのか、全く説明がつかない。それはすなわち、誰かが調べたという事だからな。調べようとした者が皆怪死しているのなら、そんなことすらわかるはずがない」
「そうね」
珍しく自分の意見に葵が同意したので、篠原はギョッとして彼女を見た。葵は菖蒲の意見に賛同したくないので、自分に同意したのだろう。彼はそう考え、葵が自分に理解を示してくれたなどという楽観的な考えを捨てた。悲しい習性である。
「警察は信用できないから、未来の義理の妹に事件の調査の依頼に来たのよ、葵」
菖蒲は妙に嬉しそうに言った。葵は苦笑いして、
「妹になるかどうかは、まだ未定ですから」
「あら、護君とは遊びだっていう事?」
「姉さん!」
葵より篠原が慌てた。美咲と茜は顔を見合わせた。菖蒲はフッと笑って、
「冗談よ。いちいち真に受けないでよ、護君」
と言ってから、
「警察が事件を有耶無耶にしようとしているのははっきりしているわ。そんなことはさせない。だから貴女に頼みに来たのよ」
「その辺の事情はウチの事務所に近い警察関係者に調べてもらいましょう」
葵はそう言いながら、茜に目配せした。茜はニコッとして、
「了解です、所長」
と携帯を取り出し、メールを打ち始めた。
「依頼料は高いですよ、菖蒲さん」
葵が言うと、菖蒲は、
「護君につけといて」
「ええっ?」
護はまだ菖蒲さんに翻弄されている。情けないな、と葵は思った。しかしやっぱり、この人苦手だ。帰ったらたっぷり塩を撒かなくちゃ。
「一つ訊いていいですか?」
葵が居ずまいを正して菖蒲を見た。菖蒲はゆっくりと葵に視線を移して、
「何かしら?」
と貴婦人のような仕草で言った。葵はその仕草に苦笑いして、
「何故菖蒲さんはこの事件が有耶無耶になるのを阻止したいのですか? 亡くなった金村さんとはどういうご関係なのですか?」
「……」
菖蒲は一瞬口を開きかけたが、何故か躊躇した。葵はそれを見逃さなかった。
「なるほど、仇を討ちたいのですね、金村さんの」
やっとこの女の弱みを握ったわ、と葵は心の中でガッツポーズをした。菖蒲はそれでも表情を変えずに、
「別に彼とは特別な関係ではなかったわよ、葵。何を勘ぐっているのか知らないけど、貴女の想像とは違うわ、確実に」
と応じた。しかし図星に近い事は、葵を見なくなった事で明らかだった。
「帰るわ。今日は午後から出勤しますと言ってあるから」
菖蒲は不意に立ち上がり、
「護君、病院まで送ってくれる?」
「ああ、いいよ」
篠原も、初めて姉が狼狽えたのを見て、笑いを噛み殺して応えた。
台風のような菖蒲が、篠原と共に事務所を出て行くと、
「大原さん、こっちに来るそうです」
と妙にハイテンションな茜が言った。葵は茜を見て、
「そんなに急がなくてもいいのに。ズルズル引き延ばして、虐めてやるつもりなんだから」
「ひっどーい。所長ってば、サディストなんですね?」
茜の言葉に葵はフフンと鼻で笑って、
「とんでもない。菖蒲さんが究極のサディストよ。発する言葉全てが他人を傷つけているんだから」
「ああ、そうかも」
茜はすごく納得してしまった。美咲が、
「いずれにしても、この事件、何か裏がありそうですね」
「それはね。だからあの意地悪姉さんの話に乗ったのよ。でなければ、誰があんな依頼受けるもんですか。多分タダ働きになるんだし」
「えっ? 篠原さん、払ってくれないんですか?」
茜が素っ頓狂な声で尋ねた。葵は呆れ顔で、
「いくら私でも、護に請求できないわよ。それをしたら、あいつ腹いせに今までの情報料を逆に請求して来るわよ」
「篠原さんはそんな人じゃありませんよ、所長」
美咲がたしなめるように言った。葵は美咲を見て、
「そんな奴なのよ。あの姉にしてあの弟。日本最悪の姉弟だわ」
と身震いしてみせた。美咲は呆れて溜息を吐いた。
「ホントにもう……」
葵は急に思い出したように、
「ああ、そうだ、茜、もうすぐお昼だから、大原君にここじゃなくてこの先にあるファミレスで落ち合いましょうってメールしておいて」
「えっ? ファミレスですかァ?」
茜が不満そうに言うと、
「別にいいのよ、高級レストランでも。但しその場合は貴女の来月のお給料から差し引くけどね」
「いいです、いいです、ファミレス大好きーっ!」
茜の慌てぶりに、美咲はクスッと笑った。
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