風の葵 黒い救急車

神村律子

プロローグ 皐月菖蒲(さつきあやめ)の訪問 10月1日午前10時

 あの凄絶な「星一族」との戦いの傷がようやく癒え始めた頃。


「所長、どうされたんですか?」

 水無月探偵事務所の所員である神無月美咲は、所長の水無月葵からの連絡を携帯電話で受けていた。

「ね、美咲、そこにあの人来てる?」

 葵の声は、辺りを憚るかのように、小さかった。美咲はキョトンとして、

「あの人って誰ですか?」

「外科医よ、外科医!」

 葵の声は相変わらず小さかったが、トーンは強くなった。美咲はその言葉でようやく葵が誰の事を言っているのか理解した。

「いらしてませんよ。お話があったんですか?」

 美咲は自分の席に座りながら尋ね返した。

「今朝早く、携帯にメールが入っていたのよ。用があるから、事務所に行くって。私は出張中ってことで頼むわ」

「ええっ? そんな、困りますよ。所長に御用がおありなんですから、出かけるのはまずいですよ」

 美咲もその「外科医」が苦手なのだ。もちろん、葵は美咲以上に苦手である。

「それなら、病院に入院していますってことにして」

「そんなことしても無駄ですよ。あの人は、東京中の病院の連絡先をご存じなんですから」

「どうしたらいい?」

 天下無敵とも思える程の強さを誇る水無月葵にも弱点はあった。美咲は呆れ顔で、

「とにかく、事務所にいらして下さい。そんな嘘や誤摩化しが通用するような方ではないですよ」

「わかったわよ。顔は出すけど、用件は貴女が聞いておいてよ」

 葵はそう言うとサッサと携帯を切ってしまった。美咲は溜息を吐き、携帯を机の上に置いた。

「所長、どうしたんですかァ?」

 そんな二人の会話をソファに座って聞いていた事務所の経理担当の如月茜きさらぎあかねがニコニコして尋ねた。

菖蒲あやめさんがいらっしゃるのよ。所長、あの人の事、本当に苦手なのよね」

 茜の顔色が「菖蒲さん」という名前を聞いて変わった。その可愛らしい、表現を変えれば幼い容貌からは想像もつかない程強くて、ヤクザを何十人相手にしても怯む事を知らない茜も、その「菖蒲さん」は怖いのだ。

「わ、私ィ、早退していいですかァ?」

 茜は苦笑いして言った。美咲は軽蔑の眼差しで、

「構わないけど、後で菖蒲さんに何されても知らないわよ」

「そ、そんな、脅かさないで下さいよォ、美咲さーん」

 茜は立ち上がって美咲に近づいた。美咲はパソコンを操作しながら、

「別に茜ちゃんに会いに来るわけではないんだから、そんなに怖がらなくても大丈夫よ」

「こ、怖がってなんかいないですよ。ただ、あの人、ちょっと苦手なんで」

 茜は腕組みをしてそう言った。美咲は茜を見て、

「それはわかるけど、早退はまずいわよ」

「わかりましたよ。何か買って来た方がいいですかね?」

 茜は自分の小さめのショルダーバッグを机の引き出しから出した。美咲はニッとして、

「買い物に行くフリをして逃げようとしてもダメよ」

「そ、そんなつもりないですってェ! 菖蒲さん、お茶受けにうるさいからァ、何か買って来ようかなって思っただけですよォ」

 茜は嫌な汗をかきながら必死になって否定した。美咲はクスッと笑って、

「そんなに気を遣わなくてもいいわよ、茜ちゃん」

「そうですかァ?」

 茜はバッグを引き出しにしまい、椅子にドスンと腰を下ろした。

「所長は来ないんですかァ?」

「来るわよ。でもすぐには来ないわね、多分」

 美咲がそう言った時、ドアフォンが鳴った。二人は思わず顔を見合わせた。

「菖蒲さんですか?」

 茜が立ち上がって美咲のパソコンのディスプレイを覗き込んだ。美咲はマウスをクリックして、

「そうね。菖蒲さんのご到着よ」

と言うと、立ち上がってドアに近づいた。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開くと、そこにはグレーのスーツに身を包んだ「私女優よ」と言い出しそうな美貌と高慢さを兼ね備えた顔の女性が立っていた。黒髪をバッサリと肩上でカットした髪型は、葵が言った「外科医」という職業故の長さなのだろうか? 年は葵より上だろう。貫禄すら漂わせているその風貌は、他者を威圧するオーラのようなものを放っていた。

「逃げたのね?」

 その女性は事務所に足を踏み入れるなり、そう言った。美咲は苦笑いをして、

「いえ、逃げたのではありません。今こちらに向かっているところです」

「おかしいわね。私が葵にメールしたのは、今から3時間も前よ。どうしてまだ着いていないの? 私の家の方が、葵のマンションより遠いはずよ」

 女性の言葉に美咲はたじろいだが、

「水無月は朝が弱いんです。その後眠ってしまったようで」

「そんな言い訳聞きたくないわよ」

 女性はスタスタとソファに近づき、優雅に腰を下ろした。茜はさっきから硬直したままだ。

「あら、茜。貴女もここにいたのね? 葵とはうまくやってる?」

「は、はい、菖蒲さん」

 茜の声は完全に裏返っていた。菖蒲と呼ばれたその女性はフッと笑って、

「何そんなに緊張しているのよ。私は別に貴女達に怒っているんじゃないわよ。葵に腹を立てているだけ。将来義理の姉になる私に対して、こんな対応をするなんて」

「はあ……」

 茜は美咲と顔を見合わせた。将来義理の姉になるとはどういう意味なのか? それはこの後すぐにわかる。

「姉さん!」

 美咲が閉じかけたドアを押し戻して、男が入って来た。彼の名は篠原護。防衛省統合幕僚会議情報本部の所属だ。葵の幼馴染みで、自称「恋人」である。葵はそれを完全否定であるが。篠原は美咲に「ごめんな」と手で合図して中に入った。

「何があったんだ? 葵に話があるって、病院に欠勤届まで出してさ」

 彼はソファに悠然と座っている菖蒲に捲し立てた。しかし菖蒲はニッコリして、

「あら、私が自分の可愛い弟の将来の奥さんに会いに来るのが、そんなに迷惑なの、護君?」

と尋ね返した。篠原は向かいのソファに腰を下ろして、

「そうじゃないって。あまり葵にプレッシャーかけるなよ。そうでなくても、俺達ギクシャクしてるんだからさ」

「ギクシャク? 貴女達、うまくいっていないの、護君?」

 菖蒲がいちいち「護君」と言うのが恥ずかしいのか、篠原は赤面して、

「姉さんには関係ないだろ? 俺と葵のことなんだから」

「悲しい事言わないでよ、護君。二人っきりの姉弟じゃないの」

 菖蒲は悲しいそうなフリをした。そのあまりにもあからさまな演技に、篠原は呆れ顔で、

「葵だってこの前死にかけたんだ。彼女もいろいろ大変なんだよ。そんな時に姉さんのいらない嫌味を聞かされたら、あいつだって参っちまうよ」

「いらない嫌味?」

 菖蒲の顔が一瞬にして氷のように冷たい表情に変わった。美咲と茜はビクッとして二人から離れ、給湯室の陰から姉弟の言い合いを見ていた。

「私は一度だって葵に嫌味なんか言った事なくてよ」

 菖蒲はそれでも穏やかに反論した。しかし篠原は、

「姉さんの葵に対する言葉は全部嫌味じゃないか。わからないのか?」

とさらに言い返した。菖蒲はそんな弟の暴言を去なすように、

「護君、姉に対して言葉が過ぎるわよ。美咲と茜が、貴方の暴言にびっくりして、隠れちゃったじゃないの」

「……」

 篠原はもう何も思いつく言葉がなくなったのか、額に手を当てて項垂れてしまった。美咲と茜は思わず顔を見合わせた。

「美咲、すぐに葵に連絡を取ってちょうだい。事は一刻を争うの。私の事が嫌いだからって、逃げ回っていたら、人がまた死んでしまうかもよ」

「えっ?」

 菖蒲の不吉な言葉に美咲と茜ばかりでなく、篠原までもがビクッとした。

「どういう意味だよ、姉さん? 何があったんだよ?」

 篠原の問いかけを完全に無視した菖蒲は、

「美咲。早く葵に連絡して」

「は、はい」

 美咲は大慌てで携帯を取り出し、葵に連絡した。すると、

「ただ今到着いたしました」

と葵がドアを開いて現れた。

「葵!」

「所長!」

「やっと来たわね、葵」

 菖蒲がゆっくりと立ち上がり、葵を睨んだ。葵は愛想笑いをして、

「いらっしゃいませ、菖蒲さん。事件が起こったのですか?」

と篠原を横に移動させて菖蒲の向かいに腰を下ろした。

「あーら、そうして二人で並んで座ると、本当にお似合いだこと」

 菖蒲の強烈な皮肉とも取れる言葉に、葵は苦笑いをしただけだったが、篠原はムッとして、

「姉さん! そういう嫌味を言うためにここに来たのなら、俺は姉さんを力ずくで連れて帰るぞ」

と怒鳴った。しかし菖蒲は、そんな篠原の怒りを全く意に介していないらしく、

「実はね、葵、貴女に調査の依頼に来たのよ」

「調査の依頼?」

 葵はいきり立つ篠原を押し止めながら、菖蒲に尋ねた。菖蒲はゆっくりと頷いて、

「そう。私の勤務していた病院で殺人事件が起こったの」

「!」

 葵は美咲と茜に目配せした。美咲は席に戻り、パソコンを開いた。茜は給湯室で飲み物を準備し始めた。

「被害者はその病院の外科医で、金村芳樹かねむらよしき、三十歳。大学の医学部で、私と同期だった男よ」

 菖蒲は先程までとはうってかわって、真剣な表情で話し始めた。ようやく篠原も落ち着きを取り戻し、ソファに座り直して自分の姉の持ち込んだ話に耳を傾けた。

「三日前の事件ですね。確か、ワイドショーとかでも大きく取り上げていました」

 美咲がパソコンで検索しながら言った。菖蒲はチラッと美咲を見てから葵を見て、

「貴女、黒い救急車って聞いた事ある?」

「は? 黒い救急車、ですか?」

 葵は美咲に視線を送って検索を促した。すると茜が、

「私知ってます。それ、都市伝説ですよね?」

と口を挟んで来た。菖蒲は意外そうに茜を見上げて、

「へェ、茜が知っているなんて意外ね。そう、都市伝説よ、黒い救急車は」

「姉さん、その都市伝説が、姉さんの元同僚の医者の殺人事件とどう繋がるんだよ?」

 篠原は菖蒲の勿体つけた話の進行にイライラしていた。菖蒲は真顔のまま葵と篠原を見て、

「金村君は、その黒い救急車に殺されたのよ」

「何ですって?」

 葵は仰天した。篠原も唖然としている。茜が、

「じゃあ、あの都市伝説は本当だったんですか?」

と身を乗り出して菖蒲に尋ねた。菖蒲はフッと笑って、

「それはどうかわからないけど」

 葵は美咲を見た。美咲は頷き、

「では、その黒い救急車の都市伝説について、解説したサイトが見つかりましたので、今お話します」

と言った。

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