ザ・ボーイ・シングス

@moyaman

凍えた犬

「東京?」

 僕は橋本に聞いた。橋本は、白くて、Tシャツと短パンが合体したようなひらひらした服を着ていた。僕は今日はTシャツにジーパンだ。お父さんが服を選んでくれる。「おしゃれな男はモテるぞ」とお父さんは言うけれど、僕は動きやすかったらなんだっていい。

「そう。日本で一番の都市だって」

「どうやって行くの?」

「新函館北斗から新幹線で行くんだよ」

 僕らは「函館山」の頂上で寝っ転がっている。傍に僕のアコギも放り投げてある。「ギターのできる男はモテるぞ」とお父さんは言うけれど、僕はそもそもモテようとは思ってない。嘘じゃない。仕方なくやっているだけだ。

 橋本は体を起こして僕に向かって明るい声で言った。

「ねえねえ翔太君、約束通りギター弾いてよ」

 昨日の休み時間にかけっこをした。勝者は敗者に一つ命令できる。なんて残酷な罰ゲームなんだ。女子に負けると思ってなかった僕は、どんなことをしてやろうかと楽しみにしていたのに、惜しくも負けてしまった。でもあれはほんと僅差だった。

 僕は放課後家に着くとカバンを投げ捨ててギターに一目散に駆け出すほど、夢中になっていた。お父さんは端で見ているだけで、ギターはできない。僕に買い与えやらせるだけだ。ギターに関してはもう何も言ってこなくなった。お母さんが言うには、僕がかまってくれなくて寂しいらしい。自業自得だ。

「わかったよ」

 ギターができることは誰にも話してなかったのに、学校で席が隣になった橋本につい言ってしまった。どうしてだろう。橋本はそれ以降ギターについての話はしてこなかったのに、昨日のかけっこで無残に敗北し、膝から崩れ落ちてうなだれている僕の耳元で、「ギター弾いているとこ見たい」と小声で言ってきた。屈辱一色だった僕の心はそのときなぜか高揚した。どうしてだろう。

 僕はギターを肩にかけ、伏せ目がちに演奏し始めた。橋本はパチパチと拍手をしている。


「どうだった?」

「かっこよかった!」


 僕らのいる函館山から見える景色は、百万ドルの夜景とか世界三大夜景とか言われている。本当かどうかはわからない。でも十二歳の僕が見ても、夜の函館はとても綺麗だ。お母さんは「裏夜景のほうが好き」と言うけれど、表があってこその裏だと思う。

 お父さんは「夜景を綺麗にみせるために街灯をたくさん設置するから、なまらお金かかるんだ」と言っていた。お金のことより、「なまら」のほうが気になった。身近な人で「なまら」なんて言うのはお父さんとお爺ちゃんだけだ。「世代交代とともに方言がなくなっていっている」とお爺ちゃんは嘆いていた。

 今日、どうしてここにいるのかというと、僕がこの場所を指定したから。橋本は明日引っ越してしまうから。彼女にどうしても伝えたいことがあったから。

僕らは函館山の麓に住んでいる。3年生のときに初めて会ってから、よく一緒に遊んだ。家も近かった。

 親の仕事の都合だと先生は言っていた。遠くに引っ越さなきゃならないなんて、どんな仕事なのだろう。僕にはわからない。でも確かなのは、橋本は今大きな病気を抱えていること。お母さんが教えてくれた。「今はもう治る病気なんだけど、そのためには東京の病院に行かなくちゃならないの」と言っているお母さんの顔は、僕を慰めているようだった。病気と聞いたときは驚いたけど、死ぬわけじゃないと知って安心した。

 橋本は、病気のために今バレエをやめている。一時的にじゃなく、すっかりやめちゃったのだ。自分の病気を知って、親と喧嘩したらしい。二週間前に学校で僕に「もうバレエはやめた」と言ってきた。怒っているのか、悲しいのかよくわからない表情だった。

 橋本の夢はバレリーナである。いつもキラキラした目で僕に語っていた。僕の夢は野球選手だが、なれるとは思ってない。でも橋本はバレリーナになるんだろうなといつも思っていた。夢を追う橋本の笑顔は誰よりもまぶしかった。

 僕にバレエ引退宣言をしてきた日から、橋本は暗かった。後ろの席の拓海にそのことを尋ねたら、「いつもと一緒じゃね」と言っていたが、僕は橋本が本来の橋本とは違うと確信していた。そして原因がバレエをやめたことと病気であると。


 町に明かりが付き始めて、ようやく暗くなっていたことに気づいた。


「橋本」

「ん?」

「橋本さ、何かで悩んでて、辛いんでしょ?」

「……どうしてわかるの」

「顔見たらわかるんだ。橋本、明るくしてるけど、辛そうだもん」

 眼に涙を浮かべた。初めて見る、明るさのない顔。

「うん…辛くて、苦しいよ。だって、病気のせいでバレエやめちゃったし、それにもうみんなと会えないんだよ。もう翔太君に会えないんだよ…」

 ボロボロと涙をこぼしている。

「電話もメールもするから。それに、大きくなったら会いに行くから」

 泣きじゃくりながらも橋本は頷いていた。

 橋本が落ち着いてから、僕は再びギターを手に取った。

「歌作ってきたんだ。橋本のために。聞いてくれる?」

 僕の目を見る大きくて丸い目は、とても優しい目だった。

 僕は橋本の笑顔が好きだ。

 その笑顔を、失ってほしくない。

 しばらくは会えないかもしれないけど、また今度会ったときも、笑っていて。

「この町で、橋本のこと応援してるから。バレエも、あきらめないで」

 太陽はもうほとんど見えなくなっていた。

 函館山から見える景色は、とても綺麗だった。



顔をあげて見えた 朝が暗くて

雨に打たれて 風に飛ばされたりしている


それを何かに変えていけるかな


僕の声が聞こえているかい


凍えた犬よ 鎖も檻も 壊せるはずさ

それでも立てないのなら


この景色を思い出して

ほら かじかんだ手で明日を描こう


外に出ないで なぜ世界がわかる

上を見ないで 光はないとなぜ言える

君が踏み出すすべてを 照らす光だ


今進まないで いつ前を向ける

今動かないで いつ楽しめる

未来では何が君を待っている


それぞれ選んだ道があるさ

僕らは一人じゃないから


成長した自分に会える

さあ 震える足で明日へ進もう

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