和尚さんと鯉のぼり

 新緑がまぶしい五月の初め。音雨山おとうさん華麗宗かれいしゅう仁王寺におうじの覚詠和尚さんは山門に大きな鯉のぼりをかかげました。寺にポールはありませんので、山門に洗濯物のように吹き流し、まごい、ひごいを吊るします。それでも尻尾が地面につくことはありません。山門はそれだけ大きいのです。左右に阿形あぎょう吽形うんぎょうという一対の金剛力士像、つまり仁王様がどっしりと並び、山門を守っています。寺の名前もこの像に由来しているそうです。他意はありません。


 さて、鯉のぼりをかかげ終わった和尚さんですが、その表情はあまり冴えません。

「ああ、つまらんのう」

 と思わずつぶやいてしまいます。それというのも端午の節句に招待すると約束した男の子たちが、揃って、

「和尚さん、ごめんなさい。こどもの日はお父さん、お母さん、妹と千葉のネズミーランドへ行くんだあ」

 だとか。

「東京へ行ってプロ野球の東京キングを応援してくるね」

「おばあちゃんのところへ帰省するんだ」

 などと言ってみんな出かけてしまったのです。考えてみればこどもの日はゴールデンウィークの真っ最中です。家族はみんな遠くへ出かけてしまう。和尚さんはとっても寂しい気分になってしまったのです。でもそれは仕方のないことです。和尚さんはきっぱりと諦めて、日々を過ごすことに決めたのでした。


 和尚さんの生活にゴールデンウィークはありません。毎日、読経をあげ、境内を掃除し、裏庭で飼っている鹿たちに餌を与えます。もちろん三度三度の食事もとります。一人なので読経以外に喋ることもありません。和尚さんの日課とはそういうものです。

 さて、和尚さんの宗派である華麗宗は荒行の密教と言われています。総本山の御示威山おじいさん華麗宗かれいしゅう二王寺におうじ(和尚さんの寺とは一文字違いです。他意はありません)では、若い修行僧たちが日々、心身の鍛錬をしています。その内容といえば、まず、丸太のようなお経を全部、暗記しなくてはなりません『栖語彙項集すごいこうしゅう』『緋土意安久集ひどいあくしゅう』『苦才堆集くさいたいしゅう』の三巻の巻物です。本当に森から伐採して来た木のように太いお経ですので、書庫から修行場へ持って行くのにも苦労します。これを覚えるだけで半分以上の修行僧が脱落していきます。ただし、裏道があります。『省宗裏記しょうしゅうりき』と呼ばれる虎の巻がありまして、それさえ覚えておけば一応、第一段階は合格とされます。お経を覚える修行を終えると試験が待っています。『無秀拿むしゅうだ』と呼ばれるものです。これで満点をとらないと最終段階へは進めません。多くのものたちがここで本当に脱落してしまいます。救済措置はありません。さて試験に合格しますと、最後の荒行『孤之辺耶苦歳妖このへやくさいよう』が待っています。それは三年間に渡り、山腹にある不動堂に参籠し、食事は一日一食、睡眠も一時間しか取らないで、ひたすら護摩を焚き続けるというものです。外に出るのは真夜中、山中を駆け抜けるときだけという、過酷を通り越して狂気の沙汰といわれる修行です。当然、その荒行を成し遂げるには尋常ならざる精神と肉体を持っていなければなりません。今はぶくぶくと、かっぷくのいい和尚さんですが、修行僧の頃はボディビルダーも真っ青になるほどの肉体美を誇ったと、和尚さん自身が言っています。真偽のほどは明らかではありません。

「わしがそうだと言っているからにはそうなのじゃ!」

 と和尚さんが私に向かって言って来ます。だから、小説のキャラクターは作者に話しかけてはダメだって、言っているでしょうに。

「こりゃ、失敬」

 和尚さんはいつもと同じように謝って来ます。しょうがないなあ。

 

『孤之辺耶苦歳妖』の荒行が済むと晴れて一人前の僧侶と認められます。ただし、どこぞの寺の和尚におなりなさいと阿闍梨様が安住の地をくださるわけではありません。一人一人の僧侶がこの国の津々浦々を歩いて回り、托鉢をしながら、自力で寺を建立しなければなりません。和尚さんも国中を歩き回り、やっとの事でこの地にたどり着いたのです。


 和尚さんの回想が終わりました。外をふと眺めてみると、雨が降ってきました。

「千葉や東京も雨が降っているのかのう。晴れていればいいが。ああ、東京はドーム球場だったな」

 和尚さんは遠くに出かけている子供たちのことを心配しました。優しいなあ。

「さて、少し早いが鯉のぼりをしまうとしようか」

 和尚さんは立ち上がりました。

 雨はいつしか本降りになり、雷鳴も轟くようになりました。この季節にしては珍しいことです。春雷とでも言うのでしょうか? 

 ピカッ、ゴロゴロ。稲光がしました。雷雲がどんどん近づいてくるようです。でも、和尚さんは荒行を積んだ身、雷ごときではたじろいだりしません。

「あーあ、鯉のぼりがびしょ濡れだ。これはそのまま放置して、晴れた日に天日干しして乾かすとするか」

 和尚さんはそう言って母屋に戻ろうとしたその時!

 ビカッ、ズドーンととてつもなく大きな音がして、さすがの和尚さんもちょっと驚きました。すると、大きなまごいが突風にあおられて山門から外れてしまいました。

「これはいかん」

 和尚さんはちょっと慌てました。するとまごいは突然、巨大な竜に変身して、大空高く飛んで行きました。

「こいの滝登り、昇竜じゃ」

 さすがの和尚さんも腰を抜かしました。

 竜になったまごいが空の彼方に消えると、雲が切れて太陽が顔を出しました。

「これはうつつのことかのう」

 和尚さんは今起きたことが信じられないという表情をしました。そして、

「腰が抜けた。ぎっくり腰じゃあ」

 と叫びました。けれども誰も助けに来てはくれません。

「こりゃあ、這いつくばって母屋に帰らなばいかん。難儀じゃのう」

 一人やもめの悲しさがここで出ました。

「なんだか泥水のコーヒーを飲んでいるみたいで情けないのう」

 和尚さんはぬかるんだ境内を這いつくばって匍匐前進ほふくぜんしんしました。そこは荒行を果たした和尚さんです。なんとか母屋にたどり着きました。

「しかし、まごいは本当に竜になってしまったのかのう」

 泥んこになりながらも和尚さんはまごいのことを思いました。


 ゴールデンウィークが終わり、子供たちが境内に帰って来ました。和尚さんは腰が痛いので日々のお勤めを休んでいます。

「これからがわしのゴールデンウィークじゃな」

 と自嘲して和尚さんは笑いました。もちろん、鹿たちへの餌やりは忘れていませんよ。痛い腰をさすりながらなんとかやっています。

 そこへ一台のカブに乗ったにいちゃんが境内に入って来ました。

「なんじゃ、騒がしいの。子供たちが危ないではないか」

 和尚が少し怒ります。

「すいやせん。ニコニコクリーニングです」

 と、にいちゃんは全然和尚さんの叱責を気にする様子もなく名乗ります。

「わしはクリーニングなんか頼んでいないぞ」

 和尚が言います。

「でも、仁王寺さんの住所ですぜ。置いて来ますよ。毎度ありぃ」

 にいちゃんは帰って行きました。

「なにごとか」

 よいしょよいしょと、にいちゃんの置いていった品物に向かう、和尚さん。ビリビリと袋を開けると、綺麗にアイロンされた、まごいが入っていました。

「どういうことかのう?」

 和尚さんは狐につままれたような顔をしました。本当にこれはどういうことですかね。とっても謎めいています。でもまごいが帰って来てちょっと嬉しい和尚さんでした。

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