和尚さんと桜の木
四月に入るとさすがの冬将軍も討ち滅ぼされて、北国の鄙びた寺にも春が訪れて来ました。ここは、
ああ、そういえば一つ大きな特徴がありました。境内の真ん中にそそり立つ一本の桜の木。ソメイヨシノにしては奇怪なほど樹齢を重ねた巨木です。今日び、都会では街路樹の桜を
「いいも悪いもわしの好き好きじゃ」
和尚さんダメダメ。前にも言ったでしょ。小説内のキャラクターが、作者に話しかけてはいけないんですよ。
「こりゃ、失敬」
またそれですか……
終わりかけの梅の枝に
「ようやく咲いたな」
和尚さんの顔もほころびます。待ちに待った桜の開花です。すると山門から世にも美しい女性が境内に入って来ました。
「お久しぶりでございます、和尚様」
女性が和尚さんに挨拶をします。知人のようですね。
「やあ、来ましたか今年も。さくらさん」
和尚が女性の名前を呼びました。さくらさんと。桜の花がほころんだ瞬間にさくらさんという女性がこの寺を訪れる。これって何かの偶然でしょうか?
「今年はどれくらい、おられるのじゃ?」
和尚さんが聞きます。
「そうですね。二週間が限度でしょうか」
さくらさんが答えます。
「そうか。まあ、その間ゆっくりしてくことじゃな」
と和尚さんが労うと、さくらさんはこう答えました。
「いえ、そうはいきません。この二週間は和尚さんに替わって掃除、洗濯、炊事と働かせていただきます」
「無理をせんでもいいのじゃ。わしは、あんたがいてくれて、あんたの顔を見れるだけで幸せなのだ」
和尚さんは柄にもなく甘ったるいことを言いました。
「とりあえず、昼餉を作ります。和尚さん、じゃなくて、あなた」
はあ、この二人どういう関係なのでしょうか? 聞きたいところですが、作者が小説のキャラクターに質問することはできません。それどころか、この二人の関係を想像して創造しなくてはいけません。私の細腕に二人の行くすえがかかっているのです。
さくらさんが来てから寺は華やぎだしました。それはまるで、一本桜の花が一斉に咲き出してほのかな香りを放つのに似ていました。境内に遊びに来る小さな子供たちはさくらさんに遭遇すると、
「あっ、春に来るお姉さんだ」
興奮して、さくらさんに抱きつきました。ということは毎年春に、さくらさんは来るってことですね。それはともかく、子供たちとさくらさんのたわむれを和尚さんは目を細めて見ていました。
夕餉もさくらさんが作りました。和尚さんは、
「これはご馳走じゃな」
と言ってニコニコしながら箸をとりました。
「毎度のことながら、男やもめで野菜をきちんととっていないでしょう?」
「いやいや。一汁一菜少食が僧侶の決まり。ちゃんと献立をクックパッドを見ながら作っておるよ」
へー、和尚さん。インターネット使えるんですね。スマホは持っていないのに。
「ならいいけれど。時にはタンパク質や糖質も取らなくちゃダメですよ。栄養のバランスが大切ですからね」
「はいはい。分かりました」
「はいはいするのは赤ちゃんだけ。はいは一回」
「ああ、はいはい。あれっ、また二回言ってしもうた」
和尚さんがボケをかましました。さくらさんが大笑いします。二人だけの食事ですが、いつもは一人で黙って義務としての栄養補給となっている和尚さんの食卓に暖かいぬくもりが感じられました。
開花から一週間で一本桜は満開を迎えました。日頃は子供たちの遊び場となっている境内に、ご近所の人たちが花見に来ました。和尚さんは、得意の般若湯を
その夜。
満開に咲いた一本桜の幹にもたれかかって、和尚さんがなにか言っています。
「願わくば 花の下にて 春死なん」
西行法師の歌です。どうしたことかいつも明るい和尚さんの元気がありません。一体なにがあったのでしょうか? 和尚さんのつぶやきを聞いてみましょう。
「ああ、今年も桜が満開になってしまった。あとは花びらが落ち、葉桜の季節が来よう。さくらともまた一年、会えなくなる。さみしいことだ。できることなら瞬間接着剤を使って花びらを枝にくっつけてやりたい」
和尚さんの言葉はさくらさんへの愛情表現に聞こえました。この二人はどういう風に出会い、どうして親密な関係になったのでしょう。
「あなた、夜露は身体の毒ですよ」
そう、さくらさんが言いながら母屋から出て来ました。
「ああ、さくら。わしが君に出会ったのは高校一年の事だった。その時君は僕より十歳も年上だったな」
「そうですね」
「その時は君が桜前線だとは気づきもしなかった」
「それはそうでしょう。桜前線が人間の姿をしているなんて考えるのは、三流の小説家ぐらいですわ」
「そうじゃの。そしてわしは高校を卒業する年に君に求愛した。君はどんな気持ちだったのかのう」
「それは嬉しかったですよ。でも私には重大な秘密があった。それを言ったところで信じてもらえるとは思わなかった」
「でもわしは信じた。三流の小説家を目指していたからな」
「ふふふ」
「そして年に二週間しか逢えぬことを覚悟して結婚した」
「事実婚ですけどね」
「君は毎年、九州から中国、四国、近畿、東海、関東、東北と巡りここにやって来る」
「はい」
「この一本桜は丈夫で花がたくさん咲くから君も長くこの地にとどまれる」
「でもせいぜい二週間ちょっとですわ」
「わしはいつのまにか、君と年齢が逆転してしまった。君はあの時のまま美しい」
「ありがとう。一年のほとんどは仮死状態ですからね」
「じゃが、桜の花の咲かぬ春はない。君は仮死状態から覚め、また南から北へと進む。そしてここに来る」
「あと一週間ね。私は北海道に行かなくちゃいけないわ。道民は春の来ることを心から待っている」
「そうじゃな」
和尚さんは目頭を押さえました。泣いているのでしょうか?
「いやはや、羽虫が目に入った」
違ったようです。
「さあ、残り少ない結婚生活を楽しみましょう」
「そうじゃな。いつまでも新婚気分が味わえて、これはこれで良いものじゃ」
二人は母屋に戻りました。そして、とりとめのない会話をいつまでも楽しみました。
一週間後。
「そろそろ、おいとまいたします」
さくらさんが三つ指を立てました。桜の花は散りゆき、木には若葉が茂っていきます。
「そうか。行くか」
和尚さんはそう言うと立ち上がって見送りに出ました。
「また来年、参ります」
「うむ、待っておるぞ」
「さようなら」
「さらばじゃ」
遠く離れゆく我が妻の背中を消えゆくまで見送った、和尚さんはまたいつものやもめ暮らしに戻りました。
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