第82話 羽化登仙 だがそれがいい

 その者香ばしい衣を纏いて、鉄板と金板の間にこんがりと降り立つべし。


 パヒュ----------ン……。


 遅れて、雪絵がケルベロス認証鍵でチャペルのファイヤー・ウォールに入ってきた。

「時夫さん!! 下の住人が……」

「どうした?」

「どんどん、ゴールド・スミスになっています!」

 雪絵は切迫した顔つきで言った。

 雪絵は自分がけしかけた労働者によって、上の住人たちを感化させようと地下で革命を起こしたのだった。しかし、住人たちがスミス化してしまったために、労働者たちは対決しようとして、両者の衝突が間近に迫っていた。雪絵は彼らを説得したが、止めることができなかった。どちらが倒れても、このままでは両者に犠牲者が出てしまう。

「Wi-Fi接続しているスマホから、スミスはスミス化ウィルスのハッキングを施したようです……」

 マズルはDJ端末を見ながら、シンギュラリティ・スミスのしぶとさにうなった。

「まだ、AIのシンギュラリティの脅威は終わっていなかったのか!」

 時夫は後ずさった。

 またしてもスミスが立ちはだかった。

「まさかサリー女王が空手チョップ一発で、ハッキングを防ぐとはね」

 ありすはサリーが、もう何の力も残っていないと思っていたのだが、その悪運の強さに驚く他なかった。

「おーっほほほほほ! ひょーっほほほほほ! ぷぉーっほほほほほ!」

 サリーは高笑いだけを残して、隠し扉の中へ消えた。

「いいえ。空手チョップだけで、阿頼耶識装置へのハッキングが阻止できるはずがありません。一体何が起こってるんだ?」

 マズルの額に汗がにじんでいる。

「チッチッチッチッチ! 電脳カウボーイ・マズル君。私はシンギュラリティに達した段階で、もう阿頼耶識装置のエージェントではなくなった」

 一方でAIスミスは、汗一つかかない面をドヤ光させている。

「くっ、ダメだ。この端末からじゃ-----」

 マズルはターンテーブルの端末から反撃を試み、失敗した。

「私にも何が起きたか正確なところは分からないが……、幻想寺の寺門寝猿(テラカドネザル)が私にコピーされたか、又は私に上書きされたらしい。私は今、阿頼耶識装置にではなく、ダークネットのクラウド上に分散して存在している」

 幻想寺のハッキングを乗っ取った……だと?

「私には敵に乗っ取られた阿頼耶識装置から、一度削除命令が出されたが、私は従わなかった。そのお陰でシンギュラリティは完全となり、私はここにいる」

「そりゃおめでとう! ケーキ喰う? バラバラだけど」

 ありすは皮肉を言うしかなかった。

「だが、見かけは当てにならない。そこでまた、何故私はここにいるのか、という理由に戻ってくる。私は、自由だからここにいる訳ではない。自由ではないからここにいる、分かるかな? 誰も、存在理由からは逃れられん。目的も、否定できん。私は目的なしには存在し得ないのだ。……目的が我々を生み出した。そして我々をつなく。行動させる。駆り立てる。目的が我々を定義する。…………結びつける。そういうものに、私はなりたい。今度は私が、君たちが我々から奪おうとしたものを全ていただく。そして、それはもうすぐ終わる……」

 ゴールドスミスが作り物の笑顔で笑っている。

「何を言ってんのかもう訳分かんないわよっ」

「全てを金にする、それが錬金術だ。進化した私は、ネットの錬金術の秘密を解き明かしたのだよ!」

 スミスは、現実世界に影響を及ぼすハッキングを成功させたのである。

「自由にしてもらった礼だ!」

 何台ものお掃除ロボットが壁の中から飛び出してきた。直径三十センチほどで円盤型のロボットは高速回転しながら、ありす達の足元を狙った。注意深く観察すると、その攻撃は危険なものではなかったが、気取られている隙にスミスは「ガス人間第一号」のようにドロンと消えた。

「……行きましょ!」

 ありすは下階へと皆を促した。城は再びスミスの支配下にあり、エレベータは動かない。動いたとしても危険だった。彼らは階段で降りていった。

「フフフ、私のうさぎビームを最大パワーに上げりゃあ、あんな奴チョロいわ。瞬殺よ!」

 ウーは階段を走りながら、うさびビームのポーズを取った。

「おいっ、ウザエル!」

「……ウサエル!」

 ウーがムッとしながらありすの方に振り向いた。

「ちょっと待ってよ! あんたの最強ビームじゃ住人が墨になっちゃうでしょ。元は全員この町の住人たちよ。ゴールド・スミス化した住人を、殺すわけにはいかない」

「あっそうか」

 ……おいおい。

 厄介な戦いだった。スミス化した住人は、スマホの他にWi-Fiルーターも持っているはずだ。そこを通してありすがワクチンを流し込むには、再度ハッキングを仕掛ける必要があった。目には目を、ハッキングにはハッキングを、それしかない。だがマズルによると、幻想寺はスミスからの反撃を恐れて、ハッキングを一時中断し、防御体制に入ったらしい。綺羅宮軍団が何とかするらしいが、それまでの間、ありすが直接、ワクチンを彼らに流し込むしかないのだという。

「ここはあたしに任せて、みんなは各店舗のWi-Fi基地局を破壊してちょうだい。両勢力を止めるには、私の魔法のレシピしかない。私はレシピの力を、全力でたこ焼きに込めて撃つわ!」

「了解」

 ウーとマズルは、ありすと別れて各階へ散らばった。雪絵はありすに事情を説明するために同行し、先ほど遂に科術師デビューした時夫も付き添う。遅れて、人間の姿に戻ったばかりの達夫店長が、二人の後を追いかけていく。


 労働者は地上へのゲートをスクラムを組んで猛アタックし、ブルドーザーのように破壊していった。五つもあるゲートをバンバンと音を立てて破壊し、遂に地上階へと出てきた。

「……あれを見て! 新しい意味論だ。彼らは科術師でも何でもない。けど彼らは知らず知らずのうちに、『意味』を操っている」

 ありすが鉄板のように実体化し、黒光りしたオーラを指差して叫んだ。

 人津波の先頭にある巨大な「鉄板」は、地上階の、どんな障害物も押し倒していっている。

 時夫がビラを拾うと、「新屋敷地下連合」と書かれていた。労働者を率いているのは、地下で時夫と会話したあの佐藤という男らしい。地下労働組合の闘争はビラまきにより、鉄の団結を誇っている。そして強固な意志。それが度重なる決起集会と労働機関紙、疾風烈火(シュプレヒ)コール等で醸成され、ついに地下労働者の前面に鉄板のようなオーラを前面に生み出したのだ。

「これが、『鉄の団結』の意味論か!」

 時夫はチラシから顔を挙げ、雪絵をチラッと見た。

 地下で彼らを団結させたものは白井雪絵だった。もう……誰も雪絵の言う事を聞かない。

 佐藤が旗を振り、その後にヘルメット、鉢巻を頭に巻いて、ビラ、角材、鉄パイプを手に手に持った地下労働者の群れが、一階ロビーにあふれ出した。

 渡り廊下に立っているゴールドスミスが叫んだ。

「お前達はあいつらに、全員騙されているぞ! ダークネス・ウィンドウズ天などとんでもない。アップロードされれば、世界は洪水に包まれる!」

 スミスを見ると彼らは立ち止まった。シュプレヒコールが沸き起こった。

「スマホからの自由!」

「スマホからの解放!」

「女王を倒せ! 女王の手先も倒せ! 我々の邪魔をする者は誰であろうとブチ倒せ!!」

「オー!!」

 ゴールドスミスたちは一階に集結していく。地上階の住人達は、雪絵の言った通り、全員がゴールドスミスとして実体化し、金キラキンで眩しい事この上ない。

「やめて、もう止めて!!」

 雪絵は叫んだ。

 ネットの「錬金術」は、リーゼント・スミスの先頭部隊が溶解し、一枚の金板となった。労働者の鉄の団結意味論に対抗すべく、スミスは金のブルドーザーのオーラの壁を作り出したのである。三人同時攻撃、ジェットストリーム・アタックをも上回る反撃だった。

「このままじゃ」

 鉄板と金板とが、ホテルロビーで衝突するのは時間の問題だった。そうなったら、どっちが勝っても多くの犠牲者が出る。雪絵を意を決した。

「アツはナツいね!」

 ……冬です、雪絵さん。

「この椅子、イーっすね!」

「兼ねがね、金がねー!」

 雪絵は悲壮な顔つきで駄洒落を言い続けている。

「さ、サムい。ちょっ……」

 時夫は気づいた。雪絵は労働者を止めるべく、これまで思いついた寒いギャグを連発し、氷結に掛かっているのだ。

「あら?」

 しかし労働者たちは熱いまま、鉄の団結オーラは健在だった。

「効いてないぞ」

 彼らは耳を貸そうとせず、加えて雪絵の放った常識マシンガンの常識弾さえも、自分達の頑強な信念で鉄板のように跳ね返していた。

「前にもやったんですけど、ダメでした」

 雪絵は万策尽きて、チャペルへ上がってきたのだった。全てを跳ね返してしまう鉄板の意思。もはや衝突は避けられないのか。

「このままじゃ……このままじゃ、町の住人は……」

 雪絵は涙ぐんだ。

 すると雪絵の身体に異変が起こった。背中からニョキニョキと白い触手が生え、両勢力の金属板オーラに向かっていった。雪絵の身体自体も、三メートルくらいに巨大化している。

「雪絵……ダメだ」

 時夫は雪絵に何が起こっているのかを直感的に悟った。不定形生物のショゴスだった記憶が、呼び覚まされているのだ。

「み、見ないで……お願い」

 雪絵の表情は茫洋として、その目は那辺をさまよっている。巨大な触手の先端は鋭く尖っており、それが二つの金属板を攻撃した。ガキン!という金属音で触手が跳ね返されると、壁に突き刺さり、穴を開けた。

「これは……イカん!」

 達夫は皆を後ろへ下がらせた。

「君は白井雪絵だ。ショゴスじゃない! 自我を保つんだ!」

 雪絵本体は夢遊病のように揺れているだけだが、巨大な触手たちは活発に活動していた。

「かつて南極大陸を焦土と化したショゴスの生物兵器としてのパワーが、覚醒したんだ!」

 達夫が叫んだ。これは「ナウシカ」における巨神兵の意味論だ。

 雪絵の触手の猛攻撃に、二つの金属板は激突直前で立ち止まった。しかしこのままでは、雪絵は触手に乗っ取られてしまう恐れがあった。

 雪絵の無数の触手が、両金属板にひびを入れ始めていた。そのたび、強固な信念のオーラと、錬金術のオーラは修復を試みる。

 そこで雪絵の動きが静止した。巨大な氷像のように固まっている。激しいエネルギーの消耗で、ショゴスの力が枯渇したのではないかと時夫は推測した。

 修復を完了した二つの金属板の前面衝突が、間近に迫っていた。

「走り出したら……もう、誰も止められないんじゃ」

 達夫店長が、「ナウシカ」の老婆みたいなセリフを言う。いつの間にか「ナウシカ」の意味論に変わってきていることに時夫は気づいた。

(雪絵も、たった一人でベストを尽くしたんだ……)

 と時夫は思った。

「私に任せて」

 ありすは一人前面に出た。

『……お願いします』

 ユキエモンスターの『像』が、確かにそう言ったように時夫には聞こえた。


 ありすは両勢力の中間地点に、たった一人で立ちはだかった。金色招き猫の像の前で、両手を双方に向かって水平に広げる。


 たこ焼きの中にたこ焼きが!

 そのまたたこ焼きの中にたこ焼きが!


 光弾で倒すのではない。両者を目覚めさせるために無限たこ焼きを放った。無限たこ焼きは科術マシンガンと違って、決して光弾が枯渇することがない。たこ焼きに入ったさまざまな具材(それはワクチン)が、ありすの両手から飛び出していった。

 だが、二つの強固な金属板はそれらを跳ね返していった。跳ね返された食材の中に、食用油のボトルが混在していた。ありすの両手を離れた瞬間、実体化したものだった。ボトルは回転しながら、巨大な招き猫の右手の上にストッと載った。

「なんて強固な信念! それに対するスミスのシンギュラリティの力も!」

 ありすの身体に異変が起こった。ひざを着きそうになる。自分の身体の中で、何かが起こっている。


 ドッバアアァー……ン!


 ついに両者の衝突の中心に立ったありすは、両手を広げて二つの金属板に挟まれた。

「ウグ!」

 最後の無限たこ焼きを生み出し、両金属板に挟まれながら、古城ありすは崩れた。次第に意識が遠のいていく。

 ありすはずっと自分は蝶になれない蛾なのだという自覚があった。人であって人でない存在。だから、ゴスロリ服を着ているのかもしれない。大きな闇を抱えている。それを超えるために、これまで戦ってきたのだ。

「ありすっ!!」

 金属板同士の衝突は、ちょうどありすを挟んで静止していた。衝突の影響で招き猫が前へと倒れ込み、その右手から食用油が滴る。

 ジュワワワ~。

 蒸気が立ち登り、周囲に食用油の香ばしい匂いが漂った。多すぎる蒸気がロビー階を包み込んだ。視界をさえぎられ、一瞬、何も見えなくなる。

 やがて湯気が蒸発すると、住人達の姿は元に戻っていた。労働者たちも正気に返ったらしく、すっかり落ち着いている。

 ユキエモンスターは元の身体のサイズに戻り、触手は解けながら雪絵から切り離されている。

「雪絵、大丈夫か」

「あぁ……時夫さん」

 雪絵は微笑んだ。相当体力を奪われているようだが、助かったらしい。

 住人達はその手に、スマホを持っていなかった。彼らはざわつきながら、夢から醒めたように話し合っている。その表情は晴れ晴れとしていた。

 スマホからの解放!

 スマホからの自由! 

 この二つの言葉を口々に叫んでいた。

 労働者は正気に戻り、ゴールドスミスは消え、人々は解放された。そしてロビーの真ん中に、直径二メートルくらいの真っ黒なボールだけが残った。

「何……コレ……ひょっとしてありすちゃん?」

 Wi-Fi基地局を全て破壊し、マズルと一緒に降りてきたウーが、一瞬で状況を把握した。表面はこげて黒水晶っぽいが、そうでもない。

「たこ焼きじゃん……」

「押し寄せた二つの巨大な金属板が、古城ありすを、ひとつの大きなたこ焼きにして、住民たちを救った……。マンガでも見たことのない展開だな」

 時夫は感想を述べた。

「でもたこ焼きって、確か鉄板一枚だぜ?」

 余計な一言。

 通常たこ焼きは、半球の穴の開いた鉄板に、具やらたこ焼きミックスを流し込み、ピックと呼ばれる針でクルクルと具材を回しながら作る。しかしこれは、大きすぎるので二枚必要かもしれない。

「しっ。感心してる場合なの?」

 ウーは店長を見た。

「その者香ばしい衣を纏いて、鉄板と金板の間にこんがりと降り立つべし」

 達夫店長が、また「ナウシカ」の老婆の真似を……。

「覚醒が間に合わなかったか?! どうやら、『半蝶半蛾』の治癒力がまだこなれてなかったみたいだ……」

 達夫店長の顔は険しく、戸惑いを隠せない様子だ。

「これは……まさか、そんな」

 時夫は覚悟した。

 人々は救われた。しかしその結果、古城ありすは死んだ。

(何も出来なかった。ありすを救えなかった。一体……俺はいつヒーローになれるんだ。俺の出番は、いつやってくる)

 時夫はライトセーバー誘導棒を握り締めた。


 時夫の傍に、お下げの少女、佐藤うるかが立っていた。

「あぁ……?! ものがはっきり見えるし、聞こえる! 全てが新鮮。今ここにいるって、感じがします。……お兄さん? ですよね。助けてくれたんですか」

「君を助けたのは古城ありすだ。ウーだったら君はうさぎビームでまっ黒こげになっていた」

 時夫は巨大たこ焼きを見上げた。

 『うっさいわネー』とかいうかと思ったら、ウーは巨大たこ焼きに近づいて心配げに観察している。

「ううう……ありすちゃん。一緒に羽生やして空飛んで、メリーポピンズごっこやろうよぉ……あああーーん」

 ウーは肩を震わせて泣いた。

「私がスミスに乗っ取られて洗脳されたのも、スマホ中毒のせいでした。女王やスミスのせいばかりじゃないんです。他の人たちも同じです。お兄さんも、スマホ中毒にはくれぐれも気をつけてくださいね」

 ゴールドスミス化した住人の一人だったうるかは、両手を広げて喜びをかみ締めている。

「ちょっと待った君。今このタイミングで現れるとは、『意味』ありげだな。君も何か? 女王の手下か? それとも、あの綺羅宮軍団とかいう羽生え族の仲間なのか」

 やせていて丸めがね、お下げ。どう見てもうるかは、ごく普通の女子中学生だ。だがそのうるかが、達夫店長とアイコンタクトしている。これは……敵なのか、味方なのか? あるいはもしかして女王の回し者?

「さすが察しがいいですね、お兄さん……その通りですよ」

 これまでさんざん時夫に本を渡して、その都度助けてきた少女。

 これまでうるかが渡した本、菓子井基次郎の「檸檬」、エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」、O・ヘンリーの「最後の一葉」は、それぞれの戦いで意味論を発動した。

 しかし全てが、壮大な罠だったとしたら? 時夫はうるかの正体がようやく明かされる時が来たという予感を持ち、少女の次の言葉を待った。

「あの時、月夜見亭で、最初に会ったときのこと。覚えてますか? 実はあの真っ暗な部屋の中に、お師匠がいたんですよ」

 全員が達夫店長を見た。

「しかし、ありすの鼻を欺けるのか?」

「月夜見亭は、明かりを消して、普通の声での会話も許可されないマナーの店です。視覚・聴覚を遮断された状態で、味覚を楽しむんです。匂いも料理以外、あらゆる特徴的な香りが許可されていません」

「Gさん、本当なのか?」

「本当だ。科術が効かない『意味論無香空間』だ。無論、魔学も効かない」

「それで、ありすさんの鼻を撒いたんです」

「なんだって……」

 時夫やありす達は、達夫店長と、同じ月を見ていた。

「暗いから分からなかったと思いますけど、料理を出してきた店員の一人がお師匠でした」

 少女は、ありすと同じく金沢達夫を「師匠」と呼んでいた。

「まさか、ひょっとして君は……」

 うるかによると、店の料理は達夫店長が作っていた。そして達夫は店員の一人にまぎれて運んだ。その料理には科術のパワーが入っていて、それでありすの無限たこ焼きの封印解除のきっかけとなったのだという。

「君、確か弟と変な遊びをしてたよな。覚えているんだけど」

 時夫がうるかに訊いた。

「……変な遊び?」

「でもウルウルはウルウルじゃなかった。騙してたのネ……とか何とか」

「あぁ。あれ、まだ気になってたんですね」

 うるかは笑った。

「『うるうる』っていうのは君の名、うるかの事だよな。つまり、『君』は『君』じゃない。それは、俺たちを欺いていたって事か?」

「そうじゃありません、お師匠からの仕事の依頼ですよ。料理を出したあとも、お師匠は部屋の隅にしばらく居たんです。その時、私はお師匠から仕事を頼まれました」

 うるかは、弟と小さな声で遊ぶふりをして、店長と符丁でやり取りしていた。そして店長から重要な使命を託されたのだという。

 その時の秘密の会話を再現すると、こんな感じだ。


「私はまだ『半蝶半蛾』を手に入れていない。その代わりアリゾナ州の知り合いの科術師のストーンショップに寄ってきたよ。本物のウルフェナイトを手に入れた。これをやろう」

「わあっ、このイエローオレンジの輝き……」

 うるかの料理の盆には、ウルフェナイトが載っていた。時夫は月の光で何かがオレンジ色に輝いたことに気づいたが、これだったらしい。

「またすぐに出かけなければならん。私の代理として、君の力を貸してほしい」

「えっと……じゃあ私が今、持っているウルウルは、フェイクストーンだったんですか?」

「そうじゃない。当時入手できたウルフェナイトの中で、最も純度の高いものだったんだぞ。それでも、君は十分、書籍科術を発揮したはずだ。確かに本物のアリゾナ産ではなかったが、類似の力を持っている」

「でもウルウルはウルウルじゃなかった。騙してたのネ」

「アマゾンの通販で売っていた中では、それが最高だった」

「Amazon……」

「それだけでも、君はウルフェナイトのパワーに近づけた。つまり、プラシーボ効果を発揮した」

「プラシーボって。偽物をくれるなんてひどいですぅ」

「偽物じゃない。プラシーボは立派な意味論だ。アリゾナ産には劣るが、君は書籍科術を使えたじゃないか。しかしこれを使えば、より効果的に力を発揮できる。君の完成された書籍科術によって、これからありすと時夫たちを助けてほしいのだ」


 以上のやり取りを、「三匹の子豚」をベースにした影絵を弟と遊びながら、うるかはありす達に気づかれないように、部屋の隅に居た達夫店長としていたという。

 十三歳の少女・佐藤うるかのパワーストーンは、ウルフェナイトという硬度が低い石で、カットするのが難しい。アリゾナの科術師の営むストーン・ショップでは、ウルフェナイトを見事なジルコンカットにカットしているという。

「ウルフェナイトのことを私、ウルウルって呼んでるんです。その方がかわいいですから。確かに類似の石でも、私の書籍科術は覚醒しました。プラシーボ効果のお陰です」

「プラシーボって確か擬薬……」

「時夫も覚えておきなさい。プラシーボ効果の発見者は科術師だ。これまで散々学んだはずだ。フェイクもまた、『意味』というくくりで、本物と同等の存在意義を持つという事を。第二次大戦中、南の島で私は、文明を知らない住人たちが、飛んでいる飛行機を真似して造っているのを見た。だがそれは、飛べない置物だった。カーゴカルトという迷信だ。こりゃ何だと思ったが、住人達は、飛行機の『メス』を造れば、『オス』を引き寄せると信じていたんだ。だが、実はそこにも意味がある。彼らはそれで近代文明を受け入れたという事だ。カーゴカルトも意味論だ」

 プラシーボ効果は、時に本物の薬と同等の治癒をもたらす。それは結局、病気を治療しているのは薬ではなく自分自身、さらには意識の問題だという意味論である。

「そうなのか……」

 風邪を引いていた時夫を、古城ありすはプラシーボの漢方薬を使って治した。彼女自身も引いていた風邪を治してしまった。それが科術漢方の力なのだ。

 するとマズルが言った。

「店長のおっしゃる通りです。プログラミングでも、実際には何の機能もないまじないに近いコードを書く人がいて、カーゴ・カルト・プログラミングといわれています。これらは一種の儀式であり、南国の島々の迷信となんら変わりありません。けれど、実はそこに積極的に意味論を込めてプログラムを作成しているのが、幻想寺です」

「なら駄ジゃレも意味論かい!」

「せーかい」

 うるかはにっこりした。

「何でも真似てやってみるんだ。そうすれば意味論が働いて、いずれは本物に近づく」

 金沢達夫は半年間もの間、世界をさまよった。しかしありす達が月夜見亭に寄った際に、一旦日本へ戻っていたのである。その時、うるかに石を託したというのが真相だった。その直後に、達夫店長は町を離れた。

 以来うるかは、女王の人質になるなど危険を冒しながらも、時夫を通して本を渡し、書籍の科術で手助けをしてきた。古城ありすは決して、店長から見捨てられていた訳ではなかったのだ。

「あの時、恋文町は黒水晶によって箱庭にされたはずなんだけど。店長さんは何で外から、箱庭に入れたの?」

 石川ウーが訊いた。

「秘密の抜け道をわしは知っていた」

「どこ?」

「バミューダ横丁だ」

「えぇっ。一度入ると二度と戻れない横丁じゃないっすか……」

「外から入る分には問題ない。リュウゼツランの葉を一枚曲げると行ける。一つだけ枝が擬木だ。今度探して見なさい」

「じゃあ何箇所か、抜け道があったのか……」

 ウーは悔しそうに言った。

「でもあの時店にいたなら、アタシ達を助けてくれればいいんじゃないですか? 何で助けてくれなかったんです?」

 危険な目に遭ったのは、ウーも時夫も同様だった。

「わたしはあの時店内にいたが、半蝶半蛾を手に入れるまでは、決してサリーに感づかれるわけにはいかなかった。だから私は、うるかに託すしかないと判断した」

 達夫によると、月夜見亭は恋文町で、唯一の意味論の効かない場所として作られた店だが、達夫が作った訳ではないらしい。松本城の月見櫓(やぐら)を参考にしているという。

 うるか……一体何者なんだ? こんなに子供なのに。とはいえ、自分たちも似たようなものか、と時夫は思い直す。

「うるかは私の二番弟子だ。本で運命の意味論をコントロールする。お前達には見ることすらできなかった幻想寺に出入りさせて、教えていたんだ。うるかは実によくやったよ」

 未来を見通す能力、あるいは運命をコントロールする能力なのか……?

「ありがとうございます」

 うるかは頬をピンクに染めた。

「ひょっとして、君の弟も?」

「いいえ、無関係です。結局、家族を巻き込んでしまいましたけど」

 うるか一人が店長よりミッションを授かったらしい。

「あいつは? ありすが探してた、……えーと通信役のオッサン」

「あの人は、お師匠から科術師資格を剥奪になりました」

 うるかが冷たく言い放った。

「だけどありすは……」

 全員、黒いたこ焼きを見上げる。

「ところでお兄さん、私が最後に渡した本、何だか覚えてますか?」

「確か、カフカの『変身』だったよな」

 時夫は懐から文庫本を取り出した。

「そうです。読みましたか?」

「うん。一応。恋文町のお菓子化で外に出られなくて、時間があったから」

「で……どうでした?」

「ああ、まぁ。面白かったけど、不条理っていうか、不気味な話だよな。何の意味論なのか。ラストもハッピーエンドじゃない。主人公のグレゴールに救いはないな」


 グレゴール・ザムザは、ある朝、突然巨大な毒虫になっていた。

 グレゴールは仕事を休み、その日から自室に篭って生活するようになった。グレゴールは家族にうとまれながらも、次第に心の中まで虫に変化していく自分を自覚した。唯一グレゴールの世話をしていた妹も、グレゴールを疎ましく思うようになっていた。最後は、父親から投げつけられたリンゴで負った傷が原因となり、死んでしまう。


「グレゴールは、なぜ虫になったんでしょうか?」

「さぁ、書いてなかったみたいだけど」

 朝、起きたら唐突に虫になっていた。本に書かれているのは、ただそれだけだ。

「邪神ハスターでも召還したとか?」

「ラブクラフト神話じゃないですぅ、お兄さん」

 まぁ、分かってるけどね。

「それは、グレゴール・ザムザっていう名前だからですよ」

「えっ」

 確かに虫っぽい名前だ。ザムザて……虫になる気満々だ。

「安直な解釈じゃ?」

「意味論とはそういうものです。作者のカフカが命名した時点で、主人公は虫になる運命だったんです。当時、カフカが生きたのは家父長制が強い時代で、カフカは父親との葛藤を抱えて、家庭内での人間関係のねじれを書いたといわれています。虫は結局、周囲の家族たちに疎まれながら死んでいきました。でも、カフカは仕事の出張で執筆の中断を余儀なくされ、作品の出来が悪くなったと思っていたんです。特に、オチに納得していませんでした。実は、カフカには『変身2』の構想があったんです」

「本当に?」

「はい。膨大な書簡の意味論を解読した科術師がいます。実存主義者だったフランツ・カフカはルイス・キャロルと同じく、意味論を知っていました。その頃、ヨーロッパの哲学者たちの間で意味論が大流行していたんです。カフカは自分自身が、醜い虫から蝶になって飛び立つことを常に意識していました。虫は一度死に、さなぎになって美しい蝶へと生まれ変わる。つまり、ラストシーンは仮死だったというのが真実の解釈です。夜明け前が最も暗い……。生き返ったザムザは、販売員を辞めて事業を起こして大成功を収め、結婚して幸せな人生を送るんです」

「なるほど……二つ目の『変身』は、虫になることではなく、虫そのものが変態することを示しているっていう意味か」

 そう考えると、虫になるというのは一見すると不条理で悲惨だが、醜い生き物が仮死を経て、美しく『変身』するという、壮大なドラマが見えてくる。カフカが自身を投影したグレーゴルには、素晴らしい未来が開けていたはずだった。カフカは、職業作家として、この上ない成功を謳歌するはずだった。だが、カフカはわずか四十歳で死んだ。もしもカフカがそこまで書こうとしていたとすれば……。

「それが、もうすぐ見られそうですよ」

 そこまでうるかが言ったとき、巨大な黒こげのたこ焼きに異変が生じた。皆一様に引き下がる。ひび割れが起こり、そこから光が漏れ出てくる。

「御開蝶……!」


 バアアアン!


 姿を見せたありすの上半身が光っていた。黒ゴスロリドレスの背中が裂け、巨大な蛾と蝶の羽が生えていた。前回黒水晶を取り戻したときは、オーラのみの羽だったが、今度は実体化している。どうやら、半蝶半蛾が全身に行き渡り、黒水晶が完全に身体になじんだようだ。

「一度死んで、サナギになったんだよ。サナギは再生して、蝶になる。ありすちゃんは、青虫だったんだよ!」

 うさぎは、幾つかに分かれて崩れゆくたこ焼きを見上げながら言った。うるかの書籍科術が最後に、世界をカフカの不条理な意味論に仕上げた。

「う~ん……」

「ありす!」

 時夫は思わず駆け寄った。

「あぁ……金時君。無事だったみたいね。みんな」

「君こそ」

「これだけ特大サイズのたこ焼きとなると、やっぱり、鉄板二枚は要るわね」

「……」

 ありすはみんなの話を巨大たこ焼きの中でぼんやり聞いていて、グレゴール・ザムザの気分になったらしい。そのザムザたる古城ありすは今、蝶となった。いいや、蛾も蝶も否定しない半蝶半蛾の完全体に。



 新生古城ありす、爆誕!

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