第64話 透明なありす

 グニャグニャとした文字が動き出す。やがて、オドロオドロシイ音楽と共に形を成していく。その文字は、「恋文Q」


 もう……。「不思議の国のアリス」の意味論から、金沢時夫は逃れる事は決してできないのだ。その上物語とは違い、永未来永劫、目覚めることのない夢の中に閉じ込められている。いいや、これは夢なんかじゃなく、まさにこれがこの恋文町の現実なのである。「不思議の国のアリス」なんかよりも、厳しい現実がそこにはあった。イヤハヤ、もはや一体「何」が現実で、そうでないんだか。

 時夫は悩んでいた。思春期! 「思い悩む春」と書いて思春期! いやそういう事じゃない。老若男女、誰でも悩むはずだ、こんな状況。誰か、この状況を的確に説明してくれる人求ム!

「違うわよ金時君。思春期の『思春』は、恋心の事を意味するのよ、少なくとも世間じゃあネ」

 ハッ、しまった。俺はいつの間にか声に出していたらしい。ありすの顔が目の前にあった。

「……私が何とかしなきゃいけないんだ。『不思議の国』を脱出するのは、結局アリスの役目なんだから。君に、何としても東京に行ってもらわなくちゃ」

 ありすはそう言って、再び腕を組み宙を睨んでいる。

 ありす達は、寺フォーミングの進む幻想寺の捜索を打ち切った。巨大化の進む構造物で何が起こっているのか、ありすにも判断がつかなかったせいだった。そこで綺羅宮神太郎の新しい科術が始まっているのかもしれない。天才科術師・古城ありすをして「お菓子な国現象」及び、この町で進行しつつある様々な現象に対応不能となっている。八方塞の中、全てはありすが現在解読中の古文書にかかっているといえた。

「ちょっと出てくる」

 時夫は一時避難中の「半町半街」を出た。

「傘、持ってきなさいよ」

 外は飴が止んでいたが、古文書とにらめっこしているありすはお店の傘を時夫に持たせた。


 曇天だが、空に浮かんでいる雲は全て綿菓子だ。いつ何時、降飴が再開するか分からない。だから科術の結界つきの傘を持たなければ時夫も砂糖と化してしまう。

 恋文ビルヂングに戻って、外からアパートを眺めると、もうそこは自分の部屋じゃないような気がした。二階を見上げると外見上は静かだが、中で何が行なわれているか知れたものじゃない。一人でここに長居したくないので、停めてある自転車にまたがると、いつか真夜中に発見した貨物線を目指した。あの線路の謎は、未だ解けていない。一体どこに繋がっているのだろう。地図にも載ってなかった気がする。ひょっとしてこの町を脱出する唯一の解決策、それが貨物線ではないだろうか。

 恋文セントラルパークを横目に、中央道路をひたすら漕いでいく。木々は飴細工と化して、何もかも飴のように光り輝いていた。飴のように、ではなく「飴」そのものだ。恋文はわいの煙突が遠くに見える。こちらの煙は出ていない。

 飴が降ると、傘を差しながら自転車を漕ぐ事は困難を伴う。横殴りの飴が、時夫の身体に降りかかってしまうからだ。だから急がなくてはいけない。途中、恋文はわいの横を通り過ぎた。ありすが閉鎖して以来、休業に追い込まれていた恋文はわいは、改装中のようなシートに覆われていた。

 だがあの夜、迷子になった挙句、偶然発見した貨物線を時夫が見つけることは結局出来なかった。

 時夫は諦めて自転車をアパートへ置くと、ひとり恋文町の住宅街をぶらついて、恋文銀座の端っこに位置する洋品店へと来た。遠くに白彩工場の煙突が見え、こちらは相変わらず白い爆煙を吐いていた。随分久しぶりに、この洋品店のショーウィンドウを眺めるような気がする。右から順にマネキンを眺めていった。


 石川うさぎ。

 古城ありす。

 白井雪絵。

 そして真灯蛾サリー。


 やっぱりそうだ。このマネキン達、彼女たちにそっくりだ。時夫が出会った順に、左から並んでいる!

「ありす、ウー、そ、それに雪絵……」

 時夫は急に嫌な予感に襲われた。ありすやウーは、俺が作ったキャラクターたちだったのか。暇な俺が作った美少女キャラ達。まさか。もしそうなら、これまでに起こった出来事の全てが自分の、俺の中の妄想だったとしたら……そうだとしたら、白井雪絵は?

 冬休み初日、俺は風邪を引き、暇だった。それで部屋を飛び出し、何の気もなく普段歩かない恋文町を散策した。この平凡な町を、だ。その瞬間から、全ての不思議現象が始まったのだ。時夫が体験した、あまりに荒唐無稽な出来事の数々。しかしその全ては自分の妄想であり、現実ではなかったのかもしれない。時夫の想像力が全てを生み出しているだけで、この町で不思議な事は何も起こってはいない……。今この瞬間も、町の全てが飴のように光っているのも、雨後で時夫の瞳にそう映っているだけなのかもしれない。飴なのか、雨なのか。飴なはずがないじゃないか。もしそうだとしたら、やっぱり彼女らは本当に存在しないのだろうか? ついさっき分かれたばかりの古城ありすとの会話が、時夫の、心象風景の中の出来事でしかなかったとしたら。

「ありえない。そんな、そんな事絶対ありえない……!」

 時夫は焦燥感に襲われて辺りを見回した。町が、ぐにゃぐにゃと歪んでいく。めまい、動悸、夜泣き、疳の虫を起こした。くだらないことを考えた。もしこれまでの出来事が幻ではなく本当だったとしても、意味論が支配するこの町じゃ、こんな事を考えた暁には本当に全てが消え去るかもしれない。それはある意味、時夫の現実への帰還を意味するはずだ。だが、その代わりに彼女たちにはもう本当に会えないだろう。ダメだ、考えちゃいけない。許せない。時夫は急ぎ「半町半街」の方角へ向かって走り出した。

 目の前から佐藤うるかが歩いてくるのが見えた。

「あっ……、また会いましたね?」

 うるかは一応普通の少女である。だから実在しても不思議じゃない。今はそれどころではない。

「君か。すまないが今、急いでるんだ」

 時夫が立ち去ろうとしたとき、目の前を大型トラックが通り過ぎていった。トラック・オブ・ザ・イヤー。明らかな軍仕様。これは、J隊のトラックだ。荷台に土砂を積んでいる。その土砂は、「富士山」だった。富士を積んだトラック……実際はそっくりの形に積まれた土砂だが……をパトカーが追いかけていく。

「コラーッ! 前のトラック、何やってるんだー。違法だぞ!! 止まれ、止まりなさい!」

 乗っている警官は、あの恋文交番の警官だった。

「富士山なんか積んで走って、お菓子になったらどうするんでしょうね」

 うるかは、呆れた声で時夫に言った。

「大変なことになりましたね。本当にこの町。一体、何がどうなってるんですか。お兄さん知ってるんですよね。教えてくださいよ」

 そんな事を言いつつ、うるかの声はそれほど「驚いていない」ようにも聞こえる。なら、大変な事とは何の事なのか、聞いてみたい気もするが、少女の平然とした様子では、うるか一家はまだ無事のようである。いやそれだけでなく、うるかの表情は何か町の事情を知っていて、あえて時夫に訊いているようでもあった。

「こっちこそ聞きたいことがある。君は……俺が知らない、この町の秘密について、何か、隠してることがあるんじゃないのか?」

 うるかはこれまで、何冊かの本を時夫に渡した。それも決まって、大きな闘いが起こる前に、だ。そしてそれらの書籍は、毎度敵を倒す有効な科術として発動した。闘いの行方を左右した意味論の「武器」を提供したこの少女は、一体何者なのか。佐藤うるかは、科術師である可能性があるのだ。

「君は……知ってるんじゃないのか、この町が、なぜこんな事になっているのかを!」

「ハイコレ。コレが最後の一冊です」

 三つ編み少女うるかは謎めいた微笑を口角に浮かべると、カバンからまた文庫を取り出した。それを問答無用に時夫の手に押し付けると、スタスタと駅前の方へ向かって歩いていった。彼女は今、白彩の方へ歩いていったようだが。あの店に何か「用」でもあるのか? そう思いつつ、時夫は渡された本を凝視した。


 カフカ「変身」


 最後の一冊、だと……? そりゃ一体どういう……。やはりあの眼鏡っ娘(こ)の正体は。いや、それだけじゃない。「佐藤うるか」。名前だ、あの少女の名前。

「ちょっと待て、『砂糖(を)売るか?』 だって? オイ!」

 すでにうるかは「年末」の恋文銀座の雑踏の中へと消えている。彼女はやはり、白彩の方へ行ったような気がした。白彩で働いているのか。それとも、闘いにでも行ったのか。お前何者だ、「砂糖売りの少女」よ。まぁよい、後だ。あの少女の詮索は……。今は一刻も早く「半町半街」へと戻らねばならない。うるかは実在したが、ありす達の実在はまだ確かめていないのだから。一刻も早く確かめなければ! 俺の妄想でない事を証明するために。


「ウー、古城ありすは……?!」

 「半町半街」に駆け込んだ時夫は、「薔薇喫茶」とここを行ったり来たりしている石川ウーの姿を見つけて駆け寄った。とりあえずウーには出会えた。良かった、彼女は実在している。

「何よやぶから棒に」

 冷蔵庫の中を見ていたウーは、一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、また冷蔵庫に視線を戻した。

「ウー、ありすはどこ行ったんだ?」

 見たところ、店内に黒ゴスロリ科術師の姿はなかった。

「多分……出かけたんじゃない」

 ウーはありすの所在を確認していないらしい。その事を、特別気にも留めていないようだ。

「多分って、何処行ったか君も知らないのか? 何も告げずに?」

「焦って何言ってんのよ。コレを見て」

 ウーの差し出したメモ用紙に、水滴の中に丁寧に描かれた魚の絵があった。

「なんだこれは?」

「書き置き? 置手紙?」

「これが?」

「一滴鱒(いってきます)、じゃないの?」

 う~ん、なるほど。

「……雪絵さんが居なくなって以来、ありすはあたしに口を聞いてくれなくなった。無口になった。自責の念にさいなまれているらしいわね」

「行ってきます、か……」

「水臭いわよね。ちっとあたし忙しいから、薔薇喫茶に戻らなきゃ。お店混んでんの。この町の食糧難を救うために。それとマズルも探さなくちゃ。じゃネ、時夫君」

 こっちもつれないな。ま、しょうがない。

 この店……なんで客が全く来ないのだろうか。このありすの店『半町半街』は、時夫が一人きりになっても何も問題が起こらないくらい、客が来ない。いや、今まで客というものが訪問したところを時夫は見たことがなかった。……俺以外。本来の店長も不在なので、ほとんどありすの「家」と化している。きっと、この店の漢方も扱うチェーン店、コンビニ・ヘブンの方が儲かってるのだろう。

 時夫はダイニングのテーブル席に腰を下ろすと、壁掛けカレンダーをじっと睨んだ。カレンダーの数字は永遠に年末だった。日付が重ねられるごとに、夜空の満月(ホットケーキ)が巨大化してゆく。そうしておそらく「何か」が起こるのだ。もちろんそれは女王の地上での「羽化」に決まっている。そして俺達は出られない。まじめな話、この囚われた世界に、永久に閉じ込められるなんて真っ平ゴメンだ。俺は、何としてもお菓子の国を、不思議の国を脱出する!! そして、海賊王に俺はなる!

「決めたわ」

 ガラガラと引き戸を開けて古城ありすが戻ってきた。

「ありす……」

 時夫は立ち上がって黒ゴスロリ科術師をじっと見つめた。

「何、金時君」

「その呼び方、やめてほしいね。自分が本当に金時豆になった気がするんだ。この意味論の支配する恋文町ではな」

 時夫は微笑んだ。

「今更じゃない? 何言ってんだか。そんな事気にしなくていいわよ」

 なんて、いい加減な。相変わらずだな。ま、はなから許してやるつもりだったけど。

「それで?」

「白彩の煙突、勢いよく煙が出てた。奴らは雪絵さんを使って、いよいよ実験の最終段階へと移ったのかもしれない。君はどこへ行ってたのよ」

「何とか脱出できないかと思って、いつか見た貨物線を探しに行ったんだ。結局見つからなかったけどサ」

「相変わらずね。無駄な事を」

 そういってありすは腕を組み、大きな黒い瞳で時夫をひたすらじっと見る。

「地下へ、行くつもりなのか?」

「えぇ……。『白彩』に行って来る。連中は雪絵さんまで手に入れた。もう女王と蜂人が地下から這い出てくるのに何の障害もない」

「そんな事やめろよ」

 絶対罠に決まっている。地下の奴等が欲しいのは最終的に古城ありすだ。

「さっき行こうと思って出かけたんだよ、あたし。でも、その前に金時君に一言言っとこうと思って……」

 やけに感傷的だな。あんな手紙では伝えられないと悟ったか。

「ありす、君の科術は白彩じゃ無効になるはずだろ。それなのに何故行く? 勝機でもあるのか」

「なら、その前に一つお願いがあるんだけど。デートしてくれる?」

 「決めた」と、さっきありすが言ったのは白彩へ突撃することではなかったらしかった。つまり、白彩へ行く前に金沢時夫とデートする事だったらしい。

「付き合ってくれない。話があるのよ……」

 ありすの顔つきはあくまで真剣だった。声が少し震えている。

「ここじゃちょっと」

 今、「薔薇喫茶」に行っているウーに、聞かれたくないことでもあるのだろうか。

「分かった」

 デートか……いいよ。デートでも何でもありすがそれで元気を出してくれるなら。そんなんでいいのならな。するとありすは微笑んで、メモ用紙に、サラサラと何かを書き始めた。そっぽを向いて、書いたメモを時夫に渡す。

「ん? 今度は何だ?」

 よく出来た蟻の絵だった。蟻が10匹描いてある。北部で定刻軍と戦ったせいか、ありすは見ないでも正確な蟻の絵を描くことができていた。

「蟻が10匹で『ありがとう』、か」

 随分遠まわしな「ありがとう」じゃないか。字で書いたほうが簡単なのに。やれやれ、素直じゃない。


「あぁーまたお醤油足りなくなったぁ……」

 恋文町のローラー・バニーこと石川ウーが、ローラースケートで「半町半街」に駆け込んできた。

「マズルも居ないシィ~」

 依然マズルと会えなかったらしいウーは、お店の前にポツンと突っ立っているありすを見つけて、

「何してんの? ありす」

 と声をかけた。ありすはなぜだか揺れている。

「いや……何となくゆれていたい気分なの」

 古城ありすはゆらゆら揺れながら微笑んだ。耳にイヤフォンをしてないので、音楽を聴いている訳でもなさそうだ。

「こんな時に?」

 店から醤油を持ち出すと、ウーは薔薇喫茶の方角へと走り去った。

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