お尻から床に落ちた。ジンジンとした痛みが走る。


「いきなり何するんです、危ないじゃないですか!」


 老婆にちょっと怒ってそう言う。そして閉じていた瞳を開ける。

 ――しかし、そこに老婆の姿はなかった。


「え? なにこれ、ここ……」


 ここ、どこ!?


 目の前にいたはずの老婆はもちろん、部屋中に所狭しとあったはずの鏡だってない。

 そもそも、ここは、あの鏡の部屋じゃなかった。

 私は狐につままれた気分で辺りを見渡した。


 足元は石造りの道。左右には煉瓦造りの壁。前方からは光が漏れ、人々の喧騒が聞こえてくる。背後へ振り向くと、そこにもレンガの壁、そして廃材のような木材と共に、古ぼけた楕円形の鏡が一つ。鏡の部屋にあった鏡とよく似ていたが、あの鏡はこんなに安っぽくも古ぼけてもいなかった。


 薄暗い路地裏の袋小路。

 そうとしか表現できない場所に、私は一人で座り込んで居た。


「嘘でしょ……本当に鏡の中に入っちゃったってこと?」


 そんな馬鹿な話があってたまるものか。

 私はとにかく、自分の考えを否定したくて、光を求めて人々の喧騒がする方へと向かった。


「眩しいっ……」


 強い日差しが目に刺さる。

 そして私は、ゆっくりと瞼を開いた。


 ――まず最初に目に飛び込んできたのは、豚の顔をした人間だった。

 まるでアニメの中から出てきたようなダンディな豚顔のおじさんが、葉巻を咥えて私の目の前を通り過ぎていく。そして次には、ウサギ耳の可愛らしい女の子が忙しなく走り去っていく。

 

 白人のような見てくれの人間もいたが、まず髪の色が全然違った。ピンク、紫、青、緑。コスプレイベントでなければ、まずお目にかかれないような髪色がずらりと並べ立てられている。


「嘘、でしょ……?」


 ヴィーン、ヴィーン、ヴィーン……。


 そう私が呆然と呟いたところで、持っていた粗末なトートバッグから振動がした。

 驚いてトートバッグの中を見ると、そこにはよく出来た木製ケースに収まったスマホが一つ。

 私はすぐさまスマホの画面を確認すると、『異世界屋』という発信元が表示されていて、私は即座にその電話に出る。


「も、もしもし!」

「……ふぇふぇふぇ、どうだい、少しは理解できたかい?」

「お婆さん!? 異世界屋のお婆さんですよね!?」

「あぁ、そうさお嬢ちゃん」

「どど、どういう事なんですか? 私、お婆さんに突き飛ばされて……それで……っ!」


 鏡に向かって倒れ込んだ、そのはずだった。


「どうもこうも、そこは鏡の先さ。ウチの店の名にもあるだろう? そこは鏡の先にある、地球がある宇宙とは別の世界、異世界だよお嬢ちゃん。ところで、お嬢ちゃんってのも呼びにくいね、あんた名前は何ていうんだい?」

「さ、佐藤です! 佐藤璃緒菜! ってそんなのはどうでも――」


 私の名前なんてどうだっていい、異世界ってどういうこと!? どうやったら帰れるの!?


「ふーんよくある名前でつまらないね。……まぁいい。で、佐藤。あんたにはその世界でやって貰うことがある。まずはその路地を出て左手へ進んで、少し行ったところにある大きな酒場に行きな。そこでダックスって男を呼ぶんだ。じゃあ切るよ」

「ちょ!? 待ってください、私まだ聞きたいことがっ――」


 ――って、切りやがったあのババアアアアア!!


 私はすぐに着信履歴からかけ直した。が、老婆が電話に出ることはなかった。


「だぁぁあああもう、ちっくしょう、あのババアア!」


 人目(獣人の目……かな?)も憚らず私が叫ぶと、周りの人々は変わった物をみるような目で私をジロジロと見始め、ヒソヒソと囁き声まで聞こえる。

 あーもううるさいうるさい! 本当なら私があんた達をじっくりと見たいところだっての……!!


 と、とにかく言われた酒場? に行こう……。

 こんな訳の分からない場所で好き勝手に動いても、たぶん良いことは一つもないしね。

 何故か携帯の電波は通ってるみたいだし、その内にまたかかってくるかもしれないし……。

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