七浜に渡された紙片だけを頼りに、新宿駅構内を彷徨っている私。


 だったのだが――ついに行き止まりになった。


 目の前には関係者以外立ち入り禁止、とだけ書かれた金属製のドアがあるだけだ。

 周りには他に壁しか無い。こんな奥の隅っこだからか、私以外には誰も周りに居ない。


「はぁ、やっぱ私からかわれてたのかな……クビになる前の最後のお遊びの慣習とか?」


 悪趣味な慣習だ。でもこういう悪習が残っている業界だってことは、噂では聞いたことくらいあった。失意のドン底の役者に、更に追い打ちをかけるなんて酷すぎるじゃん。まさか自分がその対象になるとは考えてもみなかったよ。


 馬鹿らしくなって、そして悲しくなって、悔しくて、涙が溢れてくる。

 田舎に帰って、実家の農業でも継ぐしか無いのかな。

 そう考えていると、余計に涙が止まらなくなる。


 ついには立っているのも面倒になって、私はその場に座り込んだ。

 そうしてしばらくの間、泣くだけ泣いた。


 仕方ないのだ。わたしが下手くそだったのが悪い。声優には向いてなかったのだ。才能がなかった。養成所で涙をのんだ友人たち、彼女たちとそう変わらない路傍の石だったのだ。


 気が済むまで泣いて、私は目元をハンカチで拭う。涙で化粧が溶けてべっとりと付いていた。きっと今はひどい顔になっているに違いない。


 さぁ、立とう。私は立って、そしてこれからも人生を進んでいかなければならないのだ。いつまでも座り込んでいる余裕なんて無い。なにせ養成所から数えて、6年間も無駄にしてしまったのだから。


 重い腰を上げるようにゆっくりと立ち上がる私。

 そして、私がちょうど中腰になった時、視界に飛び込んできたのは、落書きのように金属製ドアに刻み込まれた文字だった。


『異世界屋、このドアの先』


 びっくりして、腰から力が一気に抜けた。

 尻もちをつくように後ろに倒れ込む私。そして、見上げるようにして、金属ドアの半ば辺りに刻み込まれた文字を何度も確認する。


「間違いない……よね? ほんとに書いてあるよね?」


 指で文字をなぞって見るが、確かに、書かれている。間違いない。

 私は今度こそしっかり立ち上がると、関係者以外立ち入り禁止とJRの注意文が書かれているそのドアのノブに、恐る恐る手をかけた。


 開かないかもしれない――そんな私の憂慮なんて意に介さぬそぶりで、ドアノブはするりと回転し、そして金属ドアが開いた。


 眼前に広がったのは――骨董品屋のような古びた店の内装だった。


「おや、お客さんかい」


 すぐに店の奥から老婆の声がして、のそのそと真っ黒い衣装に身を包んだお婆さんがやってきた。老婆はまるで魔女のように、鍔の広い三角帽子まで被っている。


「なんだい、突っ立ってないで、さっさとドアを閉めて店にお入り」


 ぼーっと立っていた私に、老婆が言う。私は言われてドアを閉め。そして怖くなって一度開けて外を見回し、変化が無いことを確認するともう一度閉めて、店へと入った。


「その様子だと、ウチに来るのは初めてだねお嬢ちゃん」


 老婆は老獪そうな目を怪しく光らせて私に問う。


「はい……! あのぉ、ここ《異世界屋》さんで合ってますか?」

「あぁ、合ってるよ。ここが異世界屋さ」

「良かったです。あの私、七浜さんって人に言われて来ました」

「七浜が? ふーん、話は聞いてるが。……じゃあ、お嬢ちゃんがあれかい、七浜んとこの声優さんかい? でもそれにしちゃあ、随分と酷い顔してるじゃないか。あの坊やは、お嬢ちゃんみたいな変わり種も世話するようになったのかい? あたしゃ、七浜の寄越す声優とは何人か会ってるが、そんなピエロみたいな顔はしてなかったがね」


 老婆にそう言われて、化粧が崩れてボロボロの顔な事を思い出した。


「その、これは! ……お手洗いってありますか?」


 老婆が左奥を指し示したので、私はそこへ行く。あったのは普通のお手洗いと洗面台だった。

 化粧を一からし直す時間はない。私はバッグからメイク落としの洗顔料を取り出すと、顔を洗った。そして口紅を引いて、眉だけ書いた。


「少しはマシな顔になったじゃないかい」


 店に戻ると、老婆が私を見て笑う。


「じゃあ、あんたにはやって貰いたい事がある。まずはこれを着な。余計な荷物は全部そこに置いてきていいからね」

「は、はい!」


 老婆になにやら服を手渡される。そして部屋の隅にあった試着室のようなところへ入ると、持っていた荷物をすべて置く。そして着ている服を脱ぎ、渡された服を着た。

 ゴワゴワとした手触りの余り質が良くないワンピースだった。色も単色でセンスが良いとはお世辞にも言えない。


「着ました!」

「じゃあ、これを持ちな」


 またもや渡されたのはワンピースと似たような素材でできた、粗末なトートバッグだった。


「これで必要なものは揃ったね、じゃあ右の部屋にお行き」

「は、はい……」


 さっきから老婆に言われるがままに動いているが、一体何をやらされるのだろう。

 ていうか、このお婆ちゃんに従ってれば本当に演技が上手になるのかな……?


 店の右奥の部屋に入ると、そこは鏡の世界だった。

 丸い鏡に正方形の鏡、長方形の鏡、そして楕円形や大きく口を開けた竜の口部分が鏡になっているような物まで。

 その部屋には所狭しと大きな鏡達が並べられていた。

 しかもその鏡のどれもこれもが、何やら虹色に光り輝いているではないか。

 暗いはずの部屋は、それら鏡の発する光で、照明など何一つ必要ないくらいに明るく照らされていた。


 私がその膨大な量の虹色の鏡に呆気に取られていると、老婆が後からやってきた。


「さぁ、お嬢ちゃん。あんたにはこの鏡の先へ行ってもらうよ。それだ、その楕円形の大きな鏡。さぁ前に立ちな」

「鏡の先!? それってつまり、この鏡の中に入るってことですか!? そんな、まさかそんなアニメみたいなこと……」


 私は半ば飽きれつつも、老婆の言う楕円形の鏡の前へと来た。そしてくるりと回転して鏡に背を向けると、老婆の表情をうかがった。どうせ冗談か何かでしょう? と。


「ふぇふぇふぇ……お嬢ちゃんたちみたいな声優ほどそう言うのさ。あんた達は仕事でやってるって意識がどこかにあるからねぇ。こういう非現実的な事に慣れているようで、実際にはそれほどじゃあない。だからこそ、七浜がウチにお嬢ちゃんたちのようなのを寄越すのさ。まぁ、やってみれば分かるよ」


 老婆はそう言って楽しそうに笑う。

 そして――いきなり、老婆が私の胸の辺りを押して突き飛ばした。


「きゃっ!」


 私はバランスを崩し、楕円形の鏡に背後から倒れ込む。

 鏡にぶつかる衝撃が怖くて、私はとっさに目を瞑った。

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