一人の戦い

 まだ日が落ちきってはいないだろうに、やけに部屋の中が暗い。

 ネウもそう思ったのだろう。燭台に火を点していた。

 城についての説明を受けたヴァリスは、男たちの準備が整うまでの間に、短剣を鞘から引き抜き、眺めていた。


 自身とともに教会に捨てられていた、ある意味では兄弟のようにも思える黒い曲刃は、ところどころ刃こぼれしていた。

 反逆者と戦っていた頃は刃が欠けることなどなかった。おそらく、鎧や盾にぶつけたことで、傷ついたのだろう。あるいは、槍をさばくときにか。いずれにしても、後々に手入れが必要なのは間違いない。


 ――この短剣が折れたら、どうなるんだろう。


 ふいに湧いた考えに、ヴァリスは背に冷たいものが流れた気がした。

 血を恐れることがなかったのは、血返しの短剣があったからだ。もし折れたら、そして血返しの力を失うことになったのなら――。


 ぎしり、と柄が鳴り、ヴァリスの握る短剣が震えた。手に、必要以上の力が入っている。意識を呼吸に集中して、力を抜いた。


 刃で切り裂けば、血は大きく飛散する。走り、切り抜けたとしても、一滴すら浴びずに躱すなど、できるわけがない。血を被ることになったとして、反逆者とならずに済むのは、どの程度の返り血までなのか。


 いま点された燭台の灯りをその身に受けて、丘に暮れていく夕日のような色を返す刃が折れてしまえば、すべて自分の躰で試すことになるのだ。


 ヴァリスは首を左右に振って、いま一時だけは、思考をやめることにした。考えたところで剣が折れなくなるわけでもない。いまは、できることをやるしかない。

 鞄から革ひもを取り出し、靴に縛りつける。厚布を数枚折り畳み、背中側から皮鎧の下にしまい込む。胸の革鎧を撫でる。下に僅かに膨らみがある。反逆者の種だ。

 脳裏に、先ほどのヘルカの言葉が過った。


『信仰が残っていれば、いつか誰かが王に反逆を企てる。だから――』

 ――王に反逆を、か。


 鞄の中を覗きこんだヴァリスは、もう一つしておくことがあることに気付き、鞄から手帳を取り出した。


「ネウ。ちょっといい?」

「はい?」


 眠りについたヘルカの世話をしていたネウは、怪訝そうにしていた。


「これ、ヘルカが起きたら渡しておいて」

「手帳ですか? なにが書いてあるんですか?」

「日記だよ。教会から逃げ出してから、つけはじめたんだ。ヘルカに言われてね」

「ヘルカさんに?」

「そう。せっかく字の読み書きができるんだから、使い続けろって言われたんだ。だから毎日書いてた。大したことは書いてないんだけどね。でも、誰かに持っててもらいたいんだ」


 古ぼけた手帳を受け取るネウの手が微かに震えた。目には涙まで溜めている。


「ヴァリスさん」

「僕はちゃんと帰ってくるよ。実をいうと、読まれたくないんだ」


 冗談を言ったヴァリスは、短剣を鞘にしまって、眠るヘルカの手に触れた。眠っているというのに、触れていると頼もしさを感じる。元より傷自体は深いものではないし、強く、優しい人だ。帰ってくる頃には、いつもの調子で冗談を言ってくれるはず。


「行ってくるよ、ヘルカ。僕がヘルカの故郷を守らないとね」


 ヴァリスは躰を起こし、ネウの頭に手を乗せた。悲しそうな眼をして見上げてくる。

 まるで帰ってこない人に向ける顔だ。

 と、思ったヴァリスは、なぜか可笑しな気分になり、口角をあげてみせた。


「グルーズの信徒なんだから、祈ってほしいな。なにしろ僕は、グルーズへの反逆を止めることになるんだ。あいつみたいに、リモーヴァに祈られるのは嫌だよ」


 小さく頷いたネウは、ヴァリスの手を取り、目をつむった。


「……グルーズ様の御力が、この手に宿らんことを……」


 彼女の祈りの言葉は、子供の頃に丘の教会で聞いた祈りの言葉とは、違っていた。

 居室のドアが叩かれ、間をおかず、鎧を着こんだ男が入ってきた。肩にリモーヴァ信徒であることを示す、青い外套を羽織っている。

 男は緊張した面持ちで、ヴァリスに声をかけた。


「もう、出れますか?」

「うん。行こう」


 部屋を出るとき、ヴァリスは振り返りたくなるのをこらえた。また戻ってくるためにも今見るべきではない。見てしまえば、足が止まりかねなかった。

 通路を足早にぬけ、礼拝堂に転がる神像の首を一瞥する。無事に帰ってくることができたら、また祈りを捧げてみるのも、いいかもしれない。

 連れ立つ男の手によって開かれた扉の先には、十数人の鎧を着た男たちがいた。みな赤黒く汚れた鎧の上に、青い外套を羽織っている。


「動ける人はこれで全部?」

「人数はともかく、まともな武具の数が足りません。足りない分は敵から奪うしかないですね。他にも人を集めています。我々が中へ入ったら、外で騒ぎを起こさせるつもりです」


 男の言うように、鎧はどれも躰に合っていない。怪我人も混じり、中には頭に巻かれた包帯のせいで、兜を被れないものまでいる。かろうじてフードを被ることで返り血を避けようというのだろうか。

 ヴァリスは、自分の命を預けるには幾分か頼りない男たちの姿に、息をついた。


「まぁ、なるようにしかならないしね」

 

 フードを被った男が、二つの輪をつなげたような形に結んだ縄を手に持ち、ヴァリスの前に歩みでた。おそらく、仕掛け縄だろう。ヴァリスは、男が差し出す仕掛け縄の形が崩れないよう、慎重に手を入れた。

 縄を引き絞った男は、両手首をこすり合わせるような仕草をして見せた。


「このように、右手を奥に、左手を手前にひねってください。それで簡単に解けます」

「分かった。それじゃ、行こう」


 ヴァリスは、縄の感触を確かめながら、一行の中段に加わり、足を進めた。靴に結び付けた革ひもも、石畳をしっかりつかんでくれているようだ。

 目をつむり、深く息を吸う。残念ながら生きた街の臭いはしない。しかし、慣れ親しんだ血の臭いが、却って心を落ち着かせた。


 これから、反逆者と戦うのだ。

 王都が、闇の中に沈みつつある。街の中央に隆起する人工的に作られた丘が、徐々に色を変えていく。近づくにつれ大きくなりはするものの、見上げた城自体は、大教会より小さいくらいに思える。違うのは、丘の上にあるためか、周囲を回るようにして坂を上らなければいけないところだ。

 ヴァリスが右手側に延々と続く城壁を眺めながら歩いていると、隣に立つ男が、おどけるように言った。


「この城は数百年前に作られたそうですよ。この坂は、通り道を細くして、昇ってくる人間を効果的に攻撃するためで――」


 男の声が、僅かに震えている。緊張しているのだろう。

 いまする話でもないだろうに、とは思うものの、黙っていれば落ち着かないのもよく分かる。

 ヴァリス自身、口が渇き、何かを話していないと落ち着かない。


「坂の上から、石でも転がすとか?」

「いえ、槍を持つ側を壁に向けさせ、上から侵入者に攻撃をするためだそうですよ」


 男が真面目に解説を加えてきたことに、ヴァリスは苦笑した。王都の人間には習慣がないことを、すっかり忘れていた。


「僕は冗談で言ったんだよ。緊張しているときは、冗談を言い合うといいよ。無理にでも笑ってしまえば、怖くなくなるんだ」


 男は目を丸くして、一拍の間をおいて、不自然に口の端を持ち上げた。すぐに喉の音が鳴った。無理に笑っていたからだろうが、台無しだ。

 しかし、あまりに不自然な男の笑顔のおかげで、凝り固まった首は解れた。

 ヴァリスは思わずこぼれそうになった笑いを噛み殺した。

 坂の先には、人二人分ほどの鉄の扉が見えてきていた。

 先頭を歩いていた男が、門扉を叩く。


「開けろ。反逆者を捕らえた」


 気のせいか、声が暗く聞こえる。

 門扉上部の覗き窓が勢いよく開かれ、落ちくぼんだような瞳がこちらを見る。


「……通れ」


 蝶番を軋ませながら、門が開かれた。

 城壁の中へ入った途端、ヴァリスは不安に駆られた。


 ――いくらなんでも簡単すぎる。


 そう思いながらも、いまさら引き返すこともできない。暗い通路に、鎧の擦過音が反響していく。

 ヴァリスは内側から膨れてくるなにかを抑え込み、城の見取り図を思い返した。

 通路を抜けた城壁の内側には中庭があり、その先に居城がある。居城の後ろには尖塔があるが、普段、王はそこにはいない。いるのは二階、王の間だ。そこに行くには居城をぐるりと回って昇っていくことになる。


 ふいに響いた大扉の開閉音に、ヴァリスは思考を止められた。

 開かれた扉の先、石畳の敷かれた中庭には、鎧で全身を固めた兵士たちが、多数集まっていた。中には、街の入り口で、増援として現れた兵士の顔も混じっている。

 なぜこんなところに、武装したまま集まっているのか。

 背後で、ごぅん、と大きな音が響いた。門扉が閉められたのだ。

 罠だ。と、気づいたヴァリスは、縄を外そうと手首を捻った。

 縄は固く締まったままで、外れなかった。むしろ食い込むような感触すらある。

 ヴァリスは、目線を走らせ、縄をかけた男を探した。

 フードを被った男が素早く集団から離れ、前に出て行った。ちらとヴァリスを見た男の目は、前方に並ぶゼリの尖兵たちと同じように、黒く落ちくぼんでいた。


「お前……」


 男たちの中の誰かが、呟いた。その声をきっかけに、各々武器を構えた。

 正面の武装した兵士たちの中央、一際大きな男が、口を開いた。


「ここで死ぬか! ガキをこちらに渡すかだ!」


 中庭に響く男の声のあまりの大きさに、ヴァリスを囲う男たちが怯む。

 しかし、ヴァリスは怯むことなどない。聞きはしないと分かってはいても、男に叫んだ。


「ゼリを討てば終わる! 僕がやる! アンタも手を貸してくれ!」


 かぶりを振った男は口の端をいやらしく上げ、背後の居城を見上げた。視線の先、居城のテラスに、人影がある。

 髪は乱雑になでつけられ、尖った頬骨が浮いている。目は、昏く淀んでいた。月明かりで陰影を濃くしたゼリは、まさに狂える王と言っていい姿だった。

 ゼリは一言も発することなく、手を前に払った。

 テラス、そして周囲の城壁に、兵士たちが姿を現し、弓に矢を番えた。


「守れ!」


 叫ぶと同時に、ヴァリスを囲う男たちは盾を掲げて、彼の頭を押し下げた。ヴァリスは石床に膝をついた。

 空気を切り裂き、音が伸びてくる。盾に次々と矢が刺さり、弾かれ、転がっていく。

 ヴァリスは盾の傘の下で、防ぎきれない矢に躰を貫かれていく男たちを見た。

 痛苦にあえぐ悲痛な叫びは、降り続く矢の雨音と重なり、霞んで聞こえた。

 腰を捻って両手で短剣を抜き、手首に掛けられた縄を切ろうした。縄は乾き、生木のように固い。何度刃をこすりつけても、切れる気配がない。

 ぐずり、と音がし、正面から男の背中が覆いかぶさってきた。首を後ろに振ると、覆いかぶさる男の後ろ頭から矢尻が生え、血が滴っていた。


 ヴァリスは男の躰ととそれを包む鎧の重さにあえぎながらも、縄に刃をあてがい続けた。ようやく縄が切れはじめたとき、矢の雨が止んだ。

 同時に、敵兵たちが吶喊した。

 それに応えるように、ヴァリスを取り囲む男たちも鬨の声をあげた。

 ヴァリスは切れかけた縄を力任せにこじる。

 

 ――立って、僕も戦わないと!


 ヴァリスは、さらに力を込めて手首を捻った。切れた。


「ヴァリス殿をお連れしろ!」


 そう叫ぶ男の声が聞こえ、ヴァリスは首根を掴まれ力任せに引き起こされた。即座に躰のあった空間に槍の穂先が突き入れられた。間一髪だった。

 ヴァリスは槍先を踏みつけ、槍の持ち主を睨みつけた。穴のような目だ。短剣を握りしめ、叫ぶ。


「そこをどけ!」


 槍を駆けあがり、横なぎに男の首筋を掻き切った。吹きだした血はヴァリスにかかり弾かれ、周囲に舞った。返り血はヴァリスを守ろうとする男たちにも降りかかり、一気に血の臭いが辺りに満ちた。


 一人で戦わなければ、反逆者が増え、敵が増える。

 ヴァリスは男の躰を蹴り倒した。急ぎ居城の中に入らなければ、また矢が飛んでくるかもしれない。男たちの作る壁を割り開くように、ヴァリスは前へ飛び出した。

 眼前には、槍を構えた兵士たちが、舌なめずりをして待っていた。

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