血落としの道

 どれくらい歩いたのか、日が随分と傾きかけたころだった。

 ヘルカが石畳に足をとられ、鐘槍の石突を地面についた。


「おかしいね。足が、うまく動かない。大教会、こんなに遠かったか……?」


 息が荒く、顔からは血の気が完全に引いている。見れば、鎧の裂け目から流れた血は脇腹を伝い、足首にまで垂れている。無理をして歩かせずに、あの場で鎧を脱がして、止血するべきだったかもしれない。

 振り返ったネウは、そっと盾を下ろし、膝に手を置き、息を整えていた。


「いえ。もう、目の前まで、来てます」


 ネウが指さす先には、大通りを挟んで、巨大な建物があった。丘の教会の倍を楽に超えている。赤煉瓦で組み上げられた外壁には、刺々しい装飾が施されている。

 元はネウが所属していた教会なのだから、本来なら、グルーズを称える赤い旗があるはずだった。しかし、いま風を受けてはためいているのは、尖塔から垂れ下げられた、青い、リモーヴァの旗だ。


 教会の前には、グルーズ信徒の死体がいくつも転がっている。周囲には夥しい量の血の跡と、反逆者の死体まである。反抗でもしたのか、あるいは暗殺が失敗した際の粛清なのか、いずれにしても、見せしめのために処刑したのだろう。

 死体の周囲に兵士の姿は見えない。大教会の周辺は、もう警戒していないのかもしれない。

 口を結んだネウは、赤い司祭服を脱ぎはじめた。


「何してるの?」

「あれだけリモーヴァへの信仰を表に出しているんです。グルーズのローブを着たままでは、まずいかもしれませんから」


 ネウはローブの下に、ゆったりとした白いシャツと、丈の短い赤く染めたスカートを履いていた。いずれもここまでの道のりで、汗に濡れている。

 ヘルカが顎を上げて、鼻を鳴らした。


「ネウ。ヴァリスが見てるよ?」

「えっ、あ!」


 ネウは顔を赤らめて、ローブを裏返し腰に巻き、茶色い裏地で汗に濡れた太ももを隠した。


「私が行って、様子をうかがってきます」


 ヴァリスは肩に担いだへルカの顔を覗き込んだ。窓越しに見える顔は、青白くなっている。さきほども冗談を言おうとして、言葉を続けられなかったのだろう。

 心配して見つめるヴァリスに、ヘルカはニヤリと笑ってみせた。


「ヴァリス、私は大丈夫だから、ネウと一緒に行った方がいい」

「いえ、お二人はここで待っていてください。そう遅くは、なりません」

「中に兵士がいたら、どうするつもりなんだい?」

「それは……分かりません。でも、重要なのは私より、お二人の方なんです」

「正確には、ヴァリスの方、だろう?」


 ヘルカはヴァリスの肩に回していた手を放し、力なく腰を下ろした。バイザーを跳ね上げ、息をついている。目をつむった彼女の姿は、呼吸すら辛そうに思える。一人にして置いていったりしたら、彼女は鎧を脱ぐことすらできないだろう。


「ネウ、危なそうなら、戻ってきて」


 ヴァリスの返答に、ヘルカは目を見開いた。しかし、抗議する気力も残っていなかったらしい。なにも言わないまま、目を伏せてしまった。

 ヴァリスはヘルカの肩を押して、躰を起こさせた。


「ネウ、気を付けて」

「はい。行ってきます」


 ネウは鞄の中から書簡を取り出し、大教会に走って行った。

 走り去る小さな背を見送り、ヴァリスは、ヘルカの兜を外した。額に流れる冷たい汗で髪の毛が張り付いている。焦燥といっていい。いまにも息を止めそうだった。

 ヴァリスが鎧のベルトを解き始めると、黙ってされるがままになっていたヘルカは、胸鎧を外す際に、小さくうめいた。


「痛む?」

「痛みはともかく、寒いんだよ。……まさかこの鎧を着ていて寒いなんて――」

「待って。すぐに血を抑えるから」


 取り払ったヘルカの鉄鎧の内側は、おびただしい鮮血で濡れていた。薄い鎧は、無残にも引き裂かれ、その下で腹が抉られている。二人で作った軽い鎧は、反逆者と戦う分には有効でも、人同士の戦いでは致命的に防御力に欠けるらしい。

 ヴァリスはネウの置いていったイーロイの薬を手に取り、鞄から厚布を取り出して、ヘルカの傷をたしかめた。鎧の下に着ている薄皮の防血服が邪魔で、傷口がよく見えない。すでに穴が開いてしまっている以上、これより先を気にすることもない。

 ヴァリスは短剣を使い、防血服を切り裂いた。まだ短剣を握る手が震えている。


「なんて臆病なんだ。僕は」

「……なんだい? どうしたのさ。らしくないよ、ヴァリス」


 ヘルカはそう言い、虚ろな目を彷徨わせた。


「大丈夫。ちょっと、手が強張っただけだよ。静かにしてて」


 ヴァリスは嘘を吐いた。余計なことに気をとられてしまわないようにするには、虚勢を張るしかなかった。ヘルカに背を向けて隠し、左手で短剣を握りしめる指を一本一本引きはがす。なにがそうまでして短剣を握らせるのか、見当もつかなかった。


 なんとか短剣から右手を引きはがし、握り、開く。指の節が痛む。想像以上の力で握りしめていたらしい。じわじわと指先に温度が戻ってくる。鼻を使って息を深く吸い込み、静かに口から吐き出す。正常な判断をしている。冷静なはずだ。怯えに時間を取られている場合ではない。


 ヴァリスは短剣を左手に持ち替え、ヘルカの脇腹に目を向けた。

 開いた服の下では、ヘルカの真っ白い肌が裂け、呼吸に合わせて、鮮やかな赤が零れていた。出血がひどく傷がよく見えない。

 ヴァリスは手を伸ばし、真っ赤に濡れた腹に、そっと触れた。傷口を覆い隠す血が、彼の手を避けるように滑って流れ落ちた。


 指先で触れたヘルカの肌は、おそろしく冷たくなっていた。傷を閉じずに大教会まで歩いてきたことで、相当な血が失われていたのだろう。

 ヘルカが小さくうめき、身をよじった。傷口が捻られ、新たに血が抜け落ちた。


「動いちゃダメだよ、ヘルカ」

「痛みが、鈍くなってきた。不思議なもんだね。少し、くすぐったいんだよ」


 ヘルカは引き攣るように口角をあげていた。空元気にしても、大したものだと思う。

 ヴァリスは、イーロイの軟膏を掬い取り、厚布に塗りつけた。


「イーロイの薬を塗るからね。言っておくけど、凄く痛むよ」

「お手柔らかに頼むよ、ヴァリス、う、ぁっ」


 ヘルカが冗談を言うのは分かっていた。だからこそ、ヴァリスは言い切られるよりも早く、軟膏を塗布した厚布を、傷口に押し当てた。

 強烈な痛みを耐えようと前もって気張れば、気力が無駄に使われる。どのみち激烈な痛みは止められないのだ。それよりは、受けた痛みをこらえるだけの方が、よほど気力体力ともに使わずに済む。


 そう知ってはいても、ヘルカが苦痛にあえぐのを見るのは辛かった。耳に届くうめき声に、ヴァリスは歯噛みした。

 それでも、厚布を押さえた手だけは、離さなかった。布の端から血が溢れる。イーロイの軟膏は、酒精や油と薬草を練り混ぜたものだという。だからこそ、練り込まれた油が傷口をふさいで血を止め、酒精が刺すような痛みを躰に与えるのだ。


 痛苦に喘ぐヘルカの手が、ヴァリスの左肩を掴み、握りしめた。

 左肩の矢傷が飛び上がりたくなるほど痛んだ。しかし、彼女の苦しみに比べれば、どうというものでもない。耐えられる。


「ヘルカ、傷口、自分で押さえていられる?」

「……ああ、ヴァリス。ひどい子だ、せめて、貼る前に一言くらい――」

「僕がひどい子なら、ヘルカは弱い子だ。なんだよ、こんな傷。そうだよね?」

「……悔しいね。私がもう少し元気だったら、尻を叩いてやるトコなのにさ」

「その意気だよヘルカ」


 ヘルカは微苦笑を浮かべて、おとなしく自らの手で厚布を押さえた。

 ヴァリスは鞄からさらし布の包帯を取り出し、強く圧迫しながらヘルカの躰に巻きつけていく。強く引っ張る度に、彼女はくぐもったうめき声をあげた。


 ――ごめんね、ヘルカ。


 ヴァリスは、内心、そう謝りながらも、包帯を引く力を緩めなかった。

 イーロイが居てくれれば。と、思ってしまう。

 彼なら、傷を縫い合わせることもできる。獣の皮を継ぎ接ぎするのと同じように縫うことだけならできるだろう。しかしどこをどう縫えばいいのかは知らない。


 学んでおけばよかった。

 例え王都であっても、イーロイに代われるような、人の血に触れる勇気を持つ医師など、いるはずがないのだ。血を止める術として、学んでおくべきだったと、今になって思う。

 いま血を止めるには、ただ強く押さえる以外にはない。いくらヘルカでも、傷を焼灼すれば、痛みで死んでしまうこともありうる。そして血が止まるまで躰が持ってくれなければ、やはり――。

 包帯を巻き終えたヴァリスは、沈み続ける気持ちに負けて、呟いた。


「頑張って。ヘルカ」


 ヘルカは、空いた手をヴァリスの首に回して、優しく引き寄せた。互いの額が、こつん、とぶつかった。


「大丈夫だよ。私は、借りを返すまで、絶対に死なないから」

「借りって? 僕はヘルカに借りがあるけど、貸しは作ったことなんてない」

「残って、手当てしてくれた。それに、私の事を救ってくれた」


 ヘルカの手に、力が込められていく。


「ヴァリス。お前はね、私に、新しく、生きる意味をくれたんだ」


 ヘルカが声色に余裕を乗せようとすれば、するほどに息が苦しくなる。

 ヴァリスは、この二年間で初めて聞いた弱気な言葉に、ヘルカの背を抱きしめた。 


「やめてよ。本当に死ぬ人みたいだ」

「大丈夫だよ。血はすぐに止まる。それに、まだ一緒にいたい。……ありがとう」

「だから」


 それ以上はヘルカの口から聞きたくない。そう思い、ヴァリスは躰を離した。

 いまにも泣きだしそうな笑顔があった。

 ヴァリスは言葉に詰まり、ヘルカの頬に手を添えて、静かにネウを待った。

 彼女が教会に走って行ってから、まだ大して時間は流れていない。しかしただ待つだけの時間が、途方もなく長大に感じられる。あまり遅くなるようなら、この場を離れる必要も出てくるが、王都の土地勘がない。傷を負ったヘルカを連れまわすことも難しいだろう。また、門の前の反逆者を倒した兵士たちが、じきに探しにくるはずだ。


 ――ネウ。お願いだから、早く戻ってきて。


 ヴァリスは、彼女が入って行った礼拝堂の巨大な扉を、祈るような思いで見つめた。


 扉が、薄っすらと開いた。

 すぐに中から、ネウと、二人の男が、走り出てきた。三人とも青く染め直した司祭服を着ている。おそらく偽装なのだろう。

 路地の片隅で蹲るヴァリスとヘルカに駆け寄ったネウは、肩で息をしていた。


「お待たせしました!」

 ――ほんとにね。


 ヴァリスは口をついて出そうになった憎まれ口を噛み殺し、二人の男に目を向けた。


「その人たちは?」

「教会に協力している方たちです。詳しくは、中で」


 そう言うと、ネウはすぐに鞄を肩にかけた。

 男たちはヴァリスとヘルカに一礼し、いとも容易く、盾と外れた胸鎧を担いだ。いくら男女や年齢の差があるとはいえ、そして軽いとはいえ、盾と鎧は、ただの司祭がそう簡単に持ち上げられるものではない。まず間違いなく、教会の人間ではないのだろう。おそらく兵士か、それに準ずる者たちである。


 ネウは彼らを信じて、安心しきっているようだ。しかし、ヴァリスは違った。暗殺計画が一度は失敗している以上、教会に送り込まれた間諜かもしれない。その可能性を捨てるには、見て取れるものだけでは、情報が少なすぎるのだ。

 ヴァリスはいつでも短剣を抜けるよう気を張りつつ、ヘルカの腕を肩にかけた。


「行こう、ヘルカ」


 ヴァリスは誰ともなく、小声でつづけた。


「僕が守るからね」


 返事の声はなかったが、首に回されたヘルカの腕には、微かに力がこめられた。

 立ち上がった二人の躰に、ネウがリモーヴァの青い司祭服をかける。


「誰が見ているか分かりません。少しの間だけ、我慢してください」

「僕らは自警団に入ってる。我慢するようなことじゃないよ」


 自警団はリモーヴァの信徒でもある。そしてヴァリス自身は、リモーヴァの子だと、司祭に宣言されている。嘘を吐く理由などなかった。

 ヴァリス達は、大教会に向かって、ゆっくりと歩き出した。

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