血風・下
腕を切り飛ばされた兵士は絶叫した。槍は取り落とされ、押さえた切断面からは、血がごぼごぼと溢れる。痛みに悶絶し暴れるほどに、血は激しく噴き出す。指の隙間から、白い骨の断面が覗いていた。
ヴァリスは歯を強く噛み、短剣を握りしめた。柄に巻かれた布が、ギリリと軋む。
一瞬にして兵士たちは恐慌に陥った。
ヴァリスの背後で、盃の血をあびせかけられた男が奇妙な声をあげた。
「な、なぜだ! なぜ、俺の――」
声は続くことなく、喉に液体をつまらせたように、くぐもっていく。
振り向けば、男の顔は爆ぜ割れそうなほどに大きく膨らみ、真紫色の血管が、全身に浮き出していた。神の怒りに触れた証だ。反逆者へと姿を変えていく。どうやら反逆者の種を植えられたとしても、盃一杯の血が限界らしい。血を浴び自ら反逆者と化したとされる、サルヴェンを襲った者たちと同じだ。醜悪な姿の反逆者へと変貌し始めていく。
赤子の鳴き声のような声が、空気を揺らした。声は男の膨らんだ体内を駆け、高音を失い、怨嗟の声へと音色を変えていく。
しかし。
完全に反逆者に変化することはなかった。ヘルカの槍が反逆者を貫き、押し飛ばしたのだ。押し出された男の躰は、ヴァリスの前に転がった。
反逆者になりかけた兵士の鎧は、胸元は穿たれ、血の噴水を作った。血煙が密度を増す。
「う、うぉぁああ!」
一人の兵士の叫びで、返り血への恐怖が、完全によみがえった。兵士たちの動きは緩慢となり、止まり、ついには逃げ出す者まで現れた。
動きの止まった兵士たちの中に、ヘルカが盾を突き出し、突進をしかけた。
跳ね飛ばされ、転がる兵士の胸には、すでに鐘槍の穂先が突き立てられている。次の瞬間には槍が引き抜かれ、さらには横なぎに振られている。
槍に着けられた逆さの鐘で頭を打たれ、兵士の兜がひしゃげる。千切れたバイザーが飛ぶ。男には倒れる間すら与えられなかった。
男の兜を失った頭頂を狙い、すでにヴァリスが、短剣を振っていた。
風を切り裂いた短剣は、その躰を通じて、頭骨を粉砕する音と、断ち割る肉の感触を、ヴァリスの手に伝えた。
教会で動物の解体をした時には、命の温かさを感じた。いまは違う。生ぬるく、纏わりついてくる空気を感じる。男の見開かれた目に、躰が冷える気がする。
今、人を殺している。
圧倒的な戦況であるにもかかわらず、ヴァリスの顔は強張っていた。兵士たちの返り血への恐怖が伝染したのだろうか。
脳裏に、反逆者と戦っていたときの記憶が過る。周りで戦う仲間は、返り血以外のなにかに怯えながら、戦っていた。打ち倒した反逆者の死体が人の姿を取り戻すと、みな手足を震わせていた。
仲間たちと同じだ、とヴァリスは思った。いま手足が震えるのは、自らの手で人を殺め、反逆者へと変貌させていくことに起因するのだろう。
できることなら、いますぐにでも手を止め、逃げ出したい気分だ。
しかし、それは許されない。
門へ目を走らせると、奥から、さらに数人の兵士が、槍を片手に出てきていた。彼らも短剣で仕留めなければ、街の中に入ることすら、かなわないのだ。
「ヘルカ! ここを!」
言うなりその場をヘルカに任せ、ヴァリスは門から出てきた兵士たちに、狙いを変えた。
恐怖と、それを抑え込もうとする異常な興奮を感じる。足の回転は早まるものの、地を掴めていない気がする。息を整える余裕もない。出てきた男たちは盾も持っている。中央の兵士に正面から飛び込んだところで、周りから突かれるだけ――。
ならば。
ヴァリスは、兵士が槍を引き突こうとするのに合わせ、足を止めた。フェイントにかかり槍先が伸びてきた。すんでで躱して柄を掴んで、力任せに引き寄せる。
槍を引かれた兵士がバランスを崩し、つんのめる。バイザーの奥で目を丸くしている。顎が上がり、兜の下に筋張った喉が見えた。
ヴァリスは、男の喉元に、殴るかのように短剣をねじ込んだ。
革と皮を貫く抵抗を超えたら刃を捻って跳ね上げる。喉笛から噴き出す血をくぐりぬけ、兵士の盾を持つ腕をくぐりぬける。
抜けた先の兵士は、動揺からか、動きを止めた。
すでにヴァリスは跳ねていた。柄を握る右手に、手を重ねる。兜を頭頂から抜くには、全力で振るほかに方法はない。たとえ軽い躰だとしても、使える力はすべて刃に乗せる。
ヴァリスは渾身の力を込めて、グルーズの短剣を振り下ろした。
「っか、ぷぁ」
奇妙な断末魔の声だった。兜ごと頭を縦に断ち割られ、音が抜けたのだろう。
男が膝から崩れ落ち、衝撃で、二つに分かれた頭蓋から、あらゆるものが零れて落ちた。
――これで二人。
地に降り立ったヴァリスが見たのは、自分に迫る槍先だった。躰をひねって躱そうとした瞬間、靴底がザリザリと音を立て、滑った。足元に広がる血と脳漿のせいだ。
死。
ヴァリスの躰が緊張する。ほぼ同時に、横に弾き飛ばされていた。
金属質で不快な擦過音が響いた。槍と盾がぶつかった音だ。視界の端に、血で汚れた鐘槍が入った。ヴァリスを弾き飛ばしたのは、ヘルカの槍だ。
音を立てたのは、彼女の長楕円の盾だった。
ヘルカは躰を旋回して槍を横に薙いだ。兵士たちが飛び退る。作った間合いを埋めるかのように大きく足を開いて踏み出し、ヘルカは槍を伸ばした。
突かれた兵士は盾で受け止めようとした。
しかしヘルカの槍は、鐘槍である。穂先の間際に、鐘の形をした重量物がついた槍だ。受けとめた兵士の盾は力負けして流れ、穂先が肩口に刺さった。鎧と鐘がぶつかり打音を立てて引き抜かれ、血が赤い糸を引いた。
ヘルカは鐘の衝突による反発を利用し槍を引き、すぐさま隣の男に伸ばした。距離があり、槍先自体は届きはしない。しかし、鐘が受け止めた血は、別だ。
兜越しの男の顔に、鐘に残っていた血が、降りかかった。
血を浴びた兵士は叫び声をあげながら、バイザーを跳ね上げた。そこに、さらに一歩踏み込んだヘルカの鐘槍が、突き刺さった。槍で突かれた男の顔には、まるで封書を閉じる蝋のように、真っ赤な円形の跡が残っていた。
一連の動きの中、がら空きとなっていたヘルカの背に、兵士の槍が迫っていた。
「ヘルカ! 後ろ!」
ヴァリスの叫びに反応したヘルカが振り向くのと、兵士が突き出した槍が交錯するのは、ほとんど同時だった。
ヘルカはとっさに槍の柄を使い、兵士の槍を捌いていたようだった。
しかし。
ヘルカの脇腹をかすめるようにして突き出た槍先には、わずかに血が付着していた。
ヴァリスは、ガラス窓越しに見た。ヘルカは、顔をゆがめていた。
「ヘルカ!」
激高したヴァリスの躰は、すでに動きだしていた。熱を感じた。手足の震えは止まり、大地を蹴る足は常より早くなっている。
怒声を上げながら駆け飛んだヴァリスは、空中で柄を握りしめ、振り向く兵士の首に、激情とともに切っ先を打ち込んだ。
首が、兜もろとも、吹っ飛んでいた。
ヴァリスは倒れる躰の向こうに、ヘルカの背を捉えた。
右の脇腹が血で赤く濡れている。切り裂かれた鎧からして、返り血ではない。このまま戦い続ければ、返り血がヘルカの鎧の内側にも入るかもしれない。
ヴァリスは全身の皮膚が粟立つのを感じた。すでに息が上がりかけているというのに胸が絞られ、残り少ない息も吐きださせられた。
周囲で叫び声があがる。聞き覚えのある、慟哭にも似た叫び声だ。
先に打ち倒したはずの反逆者はまだ息が残っていたらしい。体躯が大きく膨れ上がり、立ち上がろうとしていた。
周りの兵士はヴァリスたちと反逆者と、どちらに対処すべきか思案していた。
二人を囲もうとしていた兵士たちの壁が、馬の嘶きともに割り開かれる。
「こちらです!」
開けた壁から響いたのは、ネウの声だった。馬の尻を叩き、兵士たちに突っ込ませたらしい。手に血の入った木桶を持つ彼女は、息を大きく吸い込み、口を結んだ。
――撒く気だ。
ヴァリスの顔が青ざめた。ネウはまだ状況に気付いていないはずだ。
撒かれた血がヘルカの傷に入りかねない、と思い、ヴァリスは彼女の傷を負った右脇腹を隠すように、躰を滑り込ませた。
ヘルカの傷を躰で隠すと、すぐに毒々しい血の雨が降った。ヘルカがかかげた盾に血がぶつかる。粘着質な音を響かせ、こぼれた滴はヴァリスの背に触れ、散った。抱き着いた甲斐あって、ヘルカの傷口に血が入った様子はない。
囲んでいた兵士たちが武器を落とし、感情の入り乱れた声をあげていた。
「ヴァリスさん!」
首を振ると、ネウが門に向かって走りだしていた。
――なんて無茶な。
心中で呟いたヴァリスは、ヘルカの躰に腕を回した。
「行くよ!」
躰を引っ張りあげるとヘルカはすぐに応じ、自らの足でも駆け出した。鎧の重みで走り遅れそうになる彼女の背を、ヴァリスは必死に押し支えた。
背後では、生き残った兵士たちが、反逆者と対峙せざるをえなくなっていた。
街の中に入ると、新手の兵士が走ってきていた。手足はすでに痺れ、息も上がったままだ。このまま連戦となれば、ヘルカの命は危うくなる。
しかし、背を向けて逃げるわけにもいかない。
ヴァリスは唇を噛んだ。
前を行くネウが唐突に足を止め、門の外の惨状を指さした。
「反逆者が!」
ネウの叫び声と仕草に、走ってきた兵士は一瞬の躊躇を見せつつも、そのまま門の外へと向かって行った。おそらく反逆者が完全に変異すれば、彼らでも対応できなくなるのだろう。果たしてネウはそれを見越した上で言ったのか――。
――どちらでもいい。
ヴァリスは、ネウの咄嗟の行動に感謝こそすれ、怒る気など起きなかった。
「ネウ、ありが――」
「ヴァリスさん! こちらへ!」
ネウに促されるままに、ヴァリスはヘルカとともに、王都の裏路地へと走った。追ってくる兵士の姿は見えない。
息が切れるのも構わずに、足を回し続けるしかなかった。
細い裏路地は、大通りとは違い、石畳で舗装されていない。靴底に張り付いた血が大地に染み込んでいく。
血落としの道だ。
どうやらサルヴェンと同じように、王都でも血落としの道を使うらしい。
王都の血落としの道は、サルヴェンのものよりもずっと腐った血の臭いが強い。街の大きさのせいか、あるいはこの臭いは、街全体に沁みついているものなのか――。
ふいに、ヘルカが膝を崩した。
「ヘルカ!?」
「悪いね。まさか、こんなところで、しくじるなんて、ね」
ヘルカの息は荒く、兜のガラス窓が、吐息で白く曇っている。
駆け寄ってきたネウが、大きな鞄を下ろし、探り始めた。
「ええと、なにか血を押さえるものは……」
がさがさと探すネウの肩には、もう一つ鞄が下がっていた。ヴァリスの、革の切れ端を継いで作った鞄だった。どうやら馬を放つときに、持ち出してきたらしい。
ヴァリスは短剣をしまおうとして、指が動かないことに気付いた。強く握り続けてきたからか痙攣し、自分の意志ではどうにもならない。
ヴァリスは顔を歪め、舌打ちした。
「ネウ、僕の鞄を開けて。中に血拭い布が入ってる」
「はい!」
ネウは、慌てて継ぎ鞄の中から、厚布を取り出した
しかし、ヘルカが、力なく首を横に振った。
「鎧を脱がないとダメさ。まずは、早く教会まで、行ってしまおう」
「そんな……いえ、分かりました。急ぎましょう。ヘルカさん、走れますか?」
「こいつが邪魔だね」
ヘルカが盾を足元に落とし、重く湿った音が鳴った。
一瞬だけ迷った様子をみせたネウだったが、すぐに鞄に布をしまって、盾の持ち手をつかんで引こうとし、ピタリと止まった。
「っ!?」
想像以上の重さだったらしい。
しかしネウは、
「ん、んんぅ!」
顔を真っ赤にして、よろめきながらも歩き出した。引きずられた盾が立てる音とともに、三人は、血落としの道を縫って、大教会を目指した。
血落としの道から横目に見える大通りに、人の姿がない。それどころか、ところどころに反逆者の腐乱死体が転がっている。反逆の種を使った者の死体だ。死体だけでなく血痕もそのままである。もはや浄化隊も機能していないのだろう。元は煌びやかであっただろう都市は、いま死都と呼ぶ方がふさわしい有様だった。
ヴァリスの肩を借りていたヘルカが、深いため息をついた。
「まったく、酷いもんだね……。昔は、これでも、きれいな街、だったのに」
「ヘルカ、無理してしゃべらないで。傷に障るよ」
「そうはいってもね。そうだろ? ネウ」
話を振られたネウは、足を止めて振り向いた。引きずる盾の重さのせいか、額には汗が滲み、息が乱れている。
ネウは、ふっと短く息を吐きだして、盾を引き上げた。
「たしかに、ちょっと、おかしい、です。もしか、したら……ゼリは、この街でもっ!」
息も絶え絶えといった様子で、歩きながら言葉を続けるのは、難しそうだった。
ヘルカは、弱々しく、唇の片端を上げた。
「ちょっと足を止めよう、ヴァリス」
「大丈夫、です!」
そう言うと、ネウは盾を後ろ手に持ち、背中に担ぎあげた。
「教会は、もう、近い、ですから!」
「ありがとう、ネウ」
ヴァリスは、自然と口をついてでた言葉を、否定する気にならなかった。
首だけ振り向かせたネウは、額の汗もそのままに、小さな肩越しに、力強くうなづき返した。
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