血風・上

 翌日から王都が目前に迫るまでの間、ヴァリスとヘルカはどう戦うべきかを話し合いながら歩みを進めた。とはいえ、さしたる案がでたわけではない。実際に二人にできたことといえば、たった一晩、つまり一回、立合うことだけだった。


 得られた結論も、ヘルカはともかく、ヴァリスの方は単純なものでしかない。

 ただ地をなめるが如く、低く走るということ。そして相手が槍にしろ剣にしろ、ただ勇気をもって踏み込むしかないという結論だった。

 明日には王都に着くというのに、何の成果もあげられない。


 無為な立合いに気が焦るばかり。

 ヴァリスは力任せに短剣を振り、ヘルカの握る槍を打ち払った。鞘につけらた鋲が槍の穂先に擦れ、耳奥を掻くような音がした。

 ヘルカはため息をつき、ヴァリスを睨んだ。


「そっちが先にヤケになるってのは、ちょっと感心しないね」

「明日には王都に着くし、それから何日の余裕があるのかもわからないんだよ?」

「だからやってみてるのさ。違うかい?」

「本気で打ち合えなきゃ、何の意味もないよ、こんなの」


 膝を抜いて地面に腰を下ろしたヴァリスは、疲れの残る足を、投げ出した。徒労感ばかりが募っていく。


 ――ゼリの前まで行けたとして、ただ殺されるだけだ。


 ヴァリスは痛む左肩を強く圧迫した。脳裏に浮かんだ諦観は、痛みに消えた。


「あの、きっと大丈夫ですよ」


 ネウの気づかような言葉には、なんの根拠もない。まったく、無為な言葉にしか聞こえない。しかし、そう思わねば、どうにもならないことも分かる。


「ゼリの喉元まで行ければね。こんな悩まなくても、済むかもしれない」

「たしかに。それはあるかもしれないね。反逆者どもを相手にするときと同じさ。出たとこ勝負の方が、私らの性には合ってる。それに――」

「それに?」

「向こうだって、返り血を恐れない人間とは、戦い慣れちゃいないはずさ。そう考えないと、怖くてやってられない」

「怖いのは変わらないけどね。きっと、お互いに怯えて手を振り回すんだ、多分ね」


 笑い合う二人と違い、ネウはひきつるような愛想笑いを浮かべていた。しかし、急に何かに気づいたように、眉を跳ねた。


「あの、血をかけてしまえば、相手を倒せるのでは?」


 ヴァリスとヘルカは、目を見合わせた。

 ネウの方に向き直ったヘルカは、冗談をいうときと同じ顔をしていた。


「すごいことを言うね。グルーズの信徒が言うことじゃないよ」

「えっ、あ、で、でも!」


 慌てて手を握り合わせるネウに、ヴァリスは顎をしゃくってみせた。


「ヘルカのは冗談だよ。笑って返さなきゃ」

「え? えっと」

「いや。いまのは冗談じゃあない。ほんとにグルーズの信徒とは思えなかったのさ」


 ヘルカの物言いに、ネウは言葉を詰まらせた。

 珍しく嫌なことを言う。そう思い、ヴァリスは躰を起こした。

 ヘルカは口の端をあげていた。どうやらここまでが冗談だったらしい。

 ヴァリスは、ため息の一つも吐きたくなった。代わりに、うつむくネウに声をかけようとしたとき、ヘルカが「でも」と言葉を継いだ。

 驚き、彼女に目を向けると、いつになく真剣な目をしていた。


「悪い案じゃないかもしれないね。ヴァリスと、私なら、その手も使えるかもしれない。問題は血の調達と、ゼリに血をかけたとこで、効果がなさそうってことかね」

「本気?」

「勇気を出して一歩踏み込む、なんてのよりは、随分マシになったじゃないか」


 冗談というわけでもないのに、冗談のように聞こえる。

 ヴァリスは首を振って、ネウの様子を窺った。

 ネウは口元を緩めていたが、すぐに気を引き締めなおすように、頬を膨らませた。


「人を傷つけることをよしと思っているわけではありません。それでも、より多くの人を助けるためなら、割り切らなければいけないこともあります」

「そういえば、なんでそこまで拘るのさ?」


 ネウは目を伏せ、手元を見つめた。


「なんでなんでしょうね。正直に言えば、私にもよくわからないんです。ただそうしないといけない気がしてしまうんです。とても他人事のようには、思えない」

「……なるほどね。たしかに、よく似てるよ」


 ヘルカがニヤリと笑った。ヴァリスの心を探るかのような目をしている。

 街に着いた頃のヴァリスとよく似ている。そう言いたいのだろう。


「僕はそこまで思えないけどね。でも、帰るところがなくなるのは困る」


 ヴァリスはそう呟き、短剣の柄を握りしめた。

 たしかに、同じだ。

 ネウが暗殺なんて剣呑なことに首を突っ込むことになったのも、それを引き受けることに決めたのも、当人以外にとっては、取るに足らない理由でしかない。それも理由と言っていいような代物でもない。

 司祭の言葉を肯定するようで悔しくもあるが、運命といってもいい。事態に関わることになったときには、すでにこうなることが決まっていたかのようだ。


 ――伝承でリモーヴァの子がどうなるのか、聞いておけばよかった。


 ヴァリスは寝転び、戦い方を想い描きながら、瞼を閉じた。


 翌日。

 まだ日も昇り切らない内から歩き出したヴァリスたちは、道の先に見えてきた壁に囲まれた街を眺めて、足を止めた。

 サルヴェンにも害獣を避けるための壁と門はあった。しかし、王都の城壁はそんな小規模な壁とはまるで違った。切り出した巨大な石を積み上げて作られた壁は、街の全周をすっぽりと囲い込み、内側がどうなっているのか、まったく見えないのだ。

 ヴァリスは口をぽかんと開き、我知らず呟いた。


「……すごいな」


 ほとんど強行軍と言っていい移動に躰がつかれているのか、ヘルカが肩を回し、筋を伸ばした。


「ようやく着いたね。あれが王都さ」

「あの高い壁は、なんなの? あれだと日の光が街に入らなそうだ」

「なに? 日の光?」


 ヘルカは口元を抑えて肩を揺らした。耐えきれなかったのか、吹き出して笑った。


「たしかに、ここから見ると覆われちゃいるけどね。壁との間に距離があるから、そんなことにはなっちゃいないよ」


 ヴァリスは笑われたことに少しムッときて、つま先で地面をたたいた。誰にだって知らないことはある。言われっぱなしではいられない。


「そうなんだ。でも、なんであんな壁がいるの?」

「なに? 理由? それは――」


 ヘルカはそこで言いよどみ、気まずそうに目を逸らした。

 ヴァリスがやり返せた。と思った瞬間、その様子をみていた馬上のネウが、躰を少し前に傾け、ヘルカの言葉を継いだ。


「えっと、あの壁は、太古の戦争の名残なんです」


 ネウは、ヴァリスのジト目を受け、したり顔をして続けた。


「まだグルーズ様が人に制約を課される前、私たちは毎日のように戦争をしていたんです。高い城壁が今も形を残しているのは、神の怒りに触れた自分たちを戒めるためなんだそうですよ」

「なんだ。それなら戒めになってなってないじゃないか」

「えっ?」

「だって王様自身が戦争をしたがってるんでしょ? だったらあの城壁が形を残しているのは、戦争の準備をしてたのと同じだってことじゃないか」

「そ、それは――」


 ネウは目を伏せ、頬を膨らませた。

 ヘルカが二人の様子を見て、苦笑した。


「まぁ、一理あるね。ただ、ゼリより前の王様は、少なくともそんなつもりで残したわけじゃなかったはずさ」

「そ、そうですよね! きっと!」


 ネウは、うんうんと何度も首を縦に振っていた。

 ヴァリスは鼻で息をつき、岩の塊のような王都をもう一度眺めた。おかしい。


「……あのリモーヴァの旗は、前から垂れ下がっているの?」

「なんだって?」「リモーヴァ様の?」


 ヘルカとネウが、ヴァリスと同じように、目の上に手をかざし、遠目で王都を見た。

 未だ遠く判然としないが、城壁には、たしかにリモーヴァの青い旗が垂れていた。


 いよいよ近づいてきた王都の姿は、異様だった。

 切り出した石を積み上げ作られた城壁には、リモーヴァの信徒であることを示す青い旗が何本も垂れ下がっている。門前の青空にも、血吸鳥が群れを成して飛び回り、黒点を散りばめている。

 さらに城壁の内側から、白い煙の筋が立ち上り、都市内でなにが行われているにせよ、死の臭いを感じずにはいられない。

 言いようのない緊張感に身を包まれ、ヴァリスは唇を噛み、短剣の柄を撫でた。

 振り返ったヘルカの顔は、反逆者と対峙するときのように強張っていた。


「ヴァリス」

「分かってる」


 ヴァリスは振り返り、馬上に目を向けた。


「ネウ、マズいことになったら、僕らのことはいいから逃げて」


 門をくぐることもできないようなら、逃げるしかない。

 ヴァリスとヘルカは元より戦いの中に身を置いているゆえに、そこで死ぬことも諦められる。しかし、ネウは違うはずだ。

 ヴァリスのそんな思いを知ってか知らずか、ネウは馬から降りてしまった。


「ネウ? 何してるの? 逃げるなら馬に乗っていた方が――」

「逃げません」


 ネウは大きく深呼吸をした。


「私が、ヴァリスさんとヘルカさんを巻き込んだんです。だから、逃げたりしません」

「逃げて伝えるって役目も、あるんだけどねぇ」

「それはすでに、イグニスさんが、果たしてくれているはず」

「諦めなよ、ヴァリス。ネウは最初っから一度も曲げなかったんだ。私らが何を言っても無駄さ」


 ヴァリスは短剣の柄を強く握りしめ、鼻で息を吸って、静かに吐き出した。震えだしていた膝は、動きを止めてくれた。


「なんの問題もなく門をくぐれればいいけど。僕は人を守るのに向いてないんだ。隠れるなら、ヘルカの後ろに隠れるんだよ?」

「ヴァリスさん、小さいですもんね」


 飲み込んだはずの、息がでた。

 ほどなくして、ヘルカの笑い声が響き、ヴァリスも笑わざるを得なくなった。


 ――ネウの方が小さいのに。


 予想外の人物が言った冗談のおかげで、無駄な緊張は取れ、足も軽くなった。

 ほんの数日間行動を共にしただけだったはずなのに、いまはもう、仲間と呼んでもいい気すらした。

 再び歩き出した一行が足を止めたのは、門から風に乗って異様な臭いが漂ってきたところだった。

 腐敗した血と肉の臭いである。


 すぐ目についたのは、門前に居並ぶ兵士たちの姿だ。着こんでいる鈍色の軽装鎧には、不規則な黒いまだら模様が描かれている。

 兵士たちの前には、巨大な染みがある。茶色い肥沃な大地は、夥しい赤と、不快な黒で染められている。


 血だ。

 血は、積みあげられた反逆者と人の死体の山から、流れたものだろう。反逆者はどれも変化して間もない、若い個体である。人の死体は、装いからして王都を訪れた旅行者や商人の類が多分に含まれている。染みは、腐敗した血液と、血吸鳥につつかれちぎれ落ちた腐肉が、作り出したものだった。

 鼻を覆いたくなるほどの臭気に、ヴァリスは舌先で唇を湿らせた。


「ヘルカ。盾をいつでも取れるようにして。いつ始まるか分からないよ」


 ヘルカは無言のまま、胸鎧を叩き、がちん、と鳴らした。返事の代わりだ。

 ヴァリスは後ろ越しの短剣に意識を払いつつ、そろそろと足を進めた。汚れた土が粘るような気がする。腐臭が強さを増す。感覚が研ぎ澄まされていく。

 兵士たちの視線はヴァリスの躰に絡みつき、離れることはない。


 ――反逆者みたいな目をしてる。


 兵士たちの目には眼球が残っているのに、ヴァリスには、そう思えた。

 彼らの目は、昏く落ちくぼみ、光を吸い込んでいる。瞳孔も開いたままだ。ヴァリスの顔を見つめてはいても、意思が介在しているようには思えない。

 兵士の一人が、ゆるりと、ヴァリスの方に躰を向けた。饐えた臭いが鼻をついた。すでに蝿のたかる死体だけでも、鼻が利かなくなりそうだ。その上に、さらに別の臭いが混じってくる。

 発生源は、兵士の着る黒い鎧らしい。

 血の見えにくくなる黒を鎧に塗るとは不自然だ、と、思ってはいた。

 しかし、まさか、鎧に張り付き、乾いた血だとは――。


 ――薄気味悪い。


 血を洗い落とさないということは、返り血を恐れていない、ということでもある。兵士たちの躰の中には、すでに反逆の種が植えられているのかもしれない。

 いずれにしても、門をふさぐように並んでいるのだから、このまま黙って通り抜けることはできないだろう。

 ヴァリスは、顔に薄笑いを貼り付けた。

 男の一人が、黒く汚れた足の長い盃を持って、ヴァリスに近づいた。


「止まれ。どこから来た?」

「どこだっていいでしょ? 見ての通り、司祭を教会まで連れてきたんだよ」

「いいかどうかは、俺たちが決める。まずは、血を飲んでみせろ」


 前に出た兵士の指示で、あふれ出そうなほど血を溜めた、木桶が運ばれてきた。

 男は、長柄の柄杓を使い、木桶から黒く腐った血を掬い、盃に注いでいく。こぼれた血が手に着くのも、気にしていないようだ。

 男はなみなみと血が注がれた盃を、ヴァリスの眼前に差し出した。

 ヴァリスは鉄錆びに似た臭気を放つ盃を一瞥し、男を睨みつけた。


「なんのために?」

「ゼリ様のためにだ。そしてリモーヴァ様のためでもある。さぁ、この盃を取れ」

「そんなことをしたら、反逆者になるよ?」

「盃一杯の血でしかない。ゼリ様のお言葉だ。選ばれたものは、反逆者にはならん」


 兵士は振り返ることなく、後ろに控える男たちを、親指で指さした。


「なってもあいつらがすぐに始末して、そこの山が高くなるだけだ」


 ヴァリスは足元の土を踏みにじった。粘り、靴底が滑る。革紐を巻くべきだった。

 視線を兵士たちに向ける。

 ざっと見ただけでも、十人以上はいる。しかし、サルヴェンの自警団であっても所属している人数に対し、戦う力のあるものは少なかった。いくら王都とはいえ、脅威として計上できる者は、少ないはずだ。

 問題は、男たちの手慣れた雰囲気である。

 昨晩ネウが提案した方法を、もう試すことになった。

 ヴァリスは、後ろ腰に差した短剣の柄に、素早く手を伸ばした。


 ――ネウは任せたよ、ヘルカ。


 心中でそう呟き、前傾した。まずは正面。次いで後ろを狙う。

 ヴァリスは短剣を引き抜き、つま先で男の握る盃を蹴り上げた。跳ね上げられた盃から血がこぼれる。溜められた血は、ほとんど全てが男の顔にかかった。

 驚嘆の声が上がるよりも早く、ヴァリスは地を舐めるように低く駆け出していた。

 彼の目が木桶に刺さったままの柄杓を視界にとらえたとき、すでに手は長柄をつかみ、血を振りまいていた。

 ヴァリスの躰の回転に合わせて、放射状に汚れた血が撒かれた。

 並んだ男たちが盾をかかげ、動きを止める。


 盾が影となり、視界は失われたはず。

 ヴァリスは目の前に広げた赤黒い血の幕を破るように走り、跳んだ。飛び込んだ勢いそのままに、中央の男の首鎧を目掛けて、短剣を振り落とす。首を切り落とそうというのではない。必要としているのは、噴き上がる血しぶきだ。

 屈曲した黒い切っ先は男の薄い首鎧を貫き、頸動脈に達した。刃を通し、生々しい感触が、手に伝わった。反逆者の肉塊とは違い、固く、抵抗感が強い。ぎじぎじとした刃触りは、骨を削ったからだろう。


 ヴァリスは、思わず顔をしかめていた。

 切り裂いた首筋からあふれ出た血が、深紅の弧を描いた。

 返り血は、死角から、兵士たちの躰に降り注がれた。横を駆け抜けるヴァリスの背を目で追った者は、バイザーの隙間から多量の血を浴びた。

 無論、返り血はヴァリスの側にも飛ぶ。しかし躰に触れる端からすべて四散し、血の霧を形作るだけだ。血に怯む男たちに対し、ヴァリスはまったく動じない。


 唐突に始まった戦闘は、ただその一点によって、虐殺の様相へと移っていく。

 ヴァリスは男の首を切り裂き、残る兵士たちに目を走らせた。

 バイザーの奥にみえる瞳に、驚きと怯えが混じった。穴の開いたような、光のない目ではない。兵士たちは、恐怖を感じている。


 怯えは、躰を強張らせるはずだ。

 ヴァリス低く飛び込んだ。予想通り、突き出された槍の戦意は、乏しい。左手を伸ばして捌き、槍を握る手を短剣で切り上げた。

 槍を握る兵士の手首は籠手ごと両断されて、真っ赤な尾を引き、飛んでいった。

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