旅立ちの前に

 窓から部屋に朝日が差し込み、ヴァリスの顔にまで伸びていた。眩しさに瞬き、目をこする。天幕はいつの間にか開かれ、雨音も聞こえくなっている。肌寒さを感じて隣の寝床に、左手を伸ばした。誰もいない。人のぬくもりも消えている。ヘルカはすでに起き出しているらしい。

 ヴァリスは左手をついて躰を起こし、走った痛みに顔をしかめた。まだ肩の傷は癒えきっていないらしい。

 ヴァリスは、まだ寝起き霞がかった頭で、ヘルカは早起きだな、と思った。眠気がまだ強く残っている。大きく欠伸をした。昨晩は、まるで眠れなかった。先に寝付いたヘルカの腕が、逃れようとするヴァリスを抱きしめ、離さなかったのだ。躰に感じる体温と柔らかい感触に、どうしてもどぎまぎとしてしまい、呼吸すら苦しいほどだった。しかも時おり頬を擦りつけきたりとあって、意識が途切れたのは大分遅くなってからだったはずだ。

 ヴァリスは、まだ首にヘルカの腕が巻き付いているような気がする。首筋を撫でると、昨夜も嗅いだ香油と思しき草木の香りが、鼻腔をくすぐった。顔が熱い。

 ぐっ、と息を飲み込み、ヴァリスはを着替えるために、隣室に移った。革鎧はとりあえず置いたままでいいだろう。

 短剣だけを腰に差して、孤児院の扉を引き開けた。


「あっ!」


 驚する声がし、ネウの躰が飛び込んできた。躰が小さい彼女にとって扉は重く、体重をかけて押し開こうしたのだろう。そこで突然扉が開いた。

 バランスを崩して前につんのめったネウは、ほんの小さな段差に蹴躓いた。道中でも馬を降りて歩けば、すぐに小さな小石に足を引っかけた子だ。勢いをつけて開けようとした躰は、ほとんど飛び込んでくるようなものだった。

 ヴァリスは、とっさに両手を広げ、ネウの躰を受け止めた。想像以上に勢いがついている。足元をよく見ないネウは、これでもかいうとほど、全力でコケてきたのだ。


「ぐっ!」


 どすり、とネウの頭がヴァリスの胸を強く打った。いくらネウの方が背が低く体重も軽いとはいえ、小さな躰なのは彼も同じである。そうやすやすと受け止められるものでもなく、また昨晩、靴の泥を落とすために、巻いていた革紐も外してしまっていた。まとわりついた泥はすでに乾きかけていたが、それは表面のものだけだったらしい。こらえようと踏ん張った足は靴底に岩苔でもついているかのように、床の上を見事に滑った。

 ヴァリスは、速やかに受け身を取ろうと首を振り、諦めた。

 胸元に目をぎゅっと瞑っているネウの姿があったのだ。


「――っ!」


 倒れ込んだ拍子に舞った床の埃が、部屋にもうもうと立ち込めていた。

 鈍痛だった。両手でネウの躰を抱いていたこともあり、後ろ頭は固い床そのままぶつかった。背中も打ち、息もつまっている。くわえてネウの躰が胸を押しつぶす。そして首を伝って、穴のあいた肩を痛み抜けた。声も出せない。

 苦悶である。

 湧いて出てくる涙をこらえながら顔をあげると、そこにはヴァリスの服を掴み、目を瞑って、ぷるぷると震えるネウがいた。


「ネウ?」

「ふぇっ!?」


 ヴァリスの声に驚いたのか、ネウは顔を振り上げた。止まった。みるみる内に、赤くなっていく。そして目を合わせたまま言葉を失い、なにを思ったのかヴァリスの胸に鼻先を擦りつけた。

 ヴァリスは後ろ頭を押さえたまま、困惑した。

 少女らしく、細くて軽い小さな躰。ほのかに香る石鹸の香り。薄い平服を通してネウの細い吐息も感じる。


 ――僕が助けてあげないと。


 そう心中で呟くと、痛みはすぐに引いた。


「ネウ、どいてもらえる?」

「……」


 ネウは顔を埋めたまま、返事をしない。手を伸ばし、躰を揺する。もう震えは止まっているが、代わりに脱力を感じた。気付けばネウの吐息は、寝息のように静かなものとなっている。


「ネウ?」


 目を瞑ったままのネウは、ヴァリスの躰の上で、寝ていた。どうやら、昨晩の間眠れなかったのは、彼女も同じだったらしい。

 ひとつため息をついたヴァリスは、身体を捻ってネウを下ろし、肩と膝下に手を入れ、持ち上げようとする。しかしその行動は、すぐに中断された。


「おやおや。手が早いねヴァリス」


 ヘルカのからかうようでもあり、怒っているようでもある、冷たい声によって。

 見れば、鎧を着る直前なのか、薄手の服とレギンスを身に着けたヘルカが、両手を腰において、薄笑いを浮かべて立ってていた。

 ヴァリスは、慌てて首を横に振った。


「ち、違うんだよヘルカ! ネウが寝ちゃったみたいで――」


 何に対する言い訳なのか。行動に他意はなく、ヘルカに怒られているわけでもない。にもかかわらず、なぜか言い訳をしようとしていた。

 顔を赤くして続けようとするヴァリスに対し、ヘルカは目を細めた。


「昨日は私で、今日はネウか。結構手広くやるね?」


 冗談を言うときと違って、冷たい声だった。


「ヘルカ!」


 ヴァリスはヘルカの名を叫んだが、続く言葉までは思いつかなかった。口をつぐみ、唸りながら俯いた。目に入るのは、赤い司祭服を身に纏うネウ。

 次の言い訳を考えながら、ネウの頬に手を触れ、撫でた。叩くのは、さすがに躊躇われたのだ。ふっくらとした感触に、思わずぷにぷにとつまむ。


「ネウ。起きて」


 ネウの長い睫毛が、微かに震えた。


「んぅ……」


 目を開けたネウはむくり躰を起こし、眠そうに目を瞬き、こすりながら辺りを見回した。ふらふらと彷徨う視線が、ヴァリスの方へと流れていく。視線が定まる。


「ひゃぁっ!」


 慌てて飛び退いたネウは、盛大に後ろ頭を開いた扉の角にぶつけた。

 大きく鈍い打音がし、ネウは後ろ頭に手をあて、ふらふらと扉の外へ向かう。


「大丈夫? って、ネウ、そっちにいったら危ないよ」

「だ、大丈夫です……ひぇっ!?」


 ネウは、再び扉前の段差に躓き、足を滑らせた。先ほどの痛みを伴う努力が無に帰す様に、ヴァリスは届かぬ手を伸ばした。

 再び宙を舞いかけたネウの躰はしかし、ヘルカによって抱きとめられた。


「大丈夫かい?」

 ヘルカは、抱き寄せたネウの顔をなでるように、手を伸ばす。指先の背を使い、肌に触れるか触れないかというところで、ネウの頬を隠す髪の毛を後ろに流してやっている。

 ヘルカの所作は、まるで貴族役で主演を張る俳優のようだった。


「それで、ネウ? どうしてこんなに朝早く、私達を起こしに来たんだい?」


 言葉とともに、ネウの髪を弄ぶように撫で、整えていく。傍から見れば騎士と少女の逢瀬のようで、自警団の屯所で見た捨て猫を拾うような扱いとははまるで違う。

 その空気に飲まれでもしたのか、ネウは再び顔を赤らめ、俯いた。


「そ、その、ええと、イグニスさんが発たれる、とおっしゃっていて……」


 最後の方は、風の音でも吹き消えるほど小さい。

 ヴァリスはそれを眺めながら、伸ばした右手を見つめた。倒れるネウを助けようとしていた手だ。そうしようと思っていたわけではなく、ただ勝手に手が伸びていた。ヴァリス自身も気付いていなかった、「守る」という意思を、躰はすでに知っている。


「じゃあ、僕らもすぐに行かないとね」


 ヘルカが細めた目をこちらに向けた。


「聞かないのかい?」

「もう僕は、ヘルカの話を聞けたし、僕の話もできたからね」

「もし、私もついていくと言ったらどうする?」


 ヘルカの声には、昨晩のような怯えは消えうせている。もうすでに、答えを出しているのだろう。それなら――。


「ついてくるなら、僕はうれしいと思う。それに助かると思う。だけど、反逆者と戦うのとはわけが違うだろうから、いつもみたいにはいかない。それなら、サルヴェンか、ここに居てほしいと思うよ」


 二人の間に張られた緊張の糸に、ネウが気づいたらしい。彼女は、ヴァリスとヘルカの顔を、忙しく交互に見比べていた。

 ヴァリスは顎をあげて、息を吐きだした。昨晩の雷雨で、汚れはすべて洗い流されたらしい。空は澄み切って、雲一つ浮かんでいない。


「僕は、ヘルカがどうしようと決めても、止めたりしない。だけど、代わりに、僕を止めたりはしないでほしい」


 ヘルカは目を瞑り、細く長く、息を吐きだした。ゆっくりと開かれた目は、なんども見てきたような悪戯っぽさが薄れ、代わりに温かさが籠っていた。


「とうとう心配されるようになっちまったね。嬉しいような悲しいような、だ」


 ヘルカは髪の毛を掻き上げ、口の端をあげた。


「ついていくよ。私も。相棒だからね」

「……ありがとう。ヘルカ」


 きょきょろと二人を見ていたネウは、なにかを察し、ヘルカに抱き着いた。


「ありがとうございます。ヘルカさん」

「ヴァリスとネウだけじゃ、大変だろうからね。礼を言われることのほどじゃないさ」


 朝日を受けて、ヘルカの髪が輝いていた。

 ヴァリスは薄く笑った。


「まずはイグニスを見送ってやらないとね。馬を全部持って行かれたら困るし」

「たしかに。あいつは躰も重いから二頭もってきかねない」


 ヘルカは肩をすくめて、冗談を言った。瞳に悪戯っぽさが戻る。しかし、どこか少しだけ、いつもとは違った。



 礼拝堂では、鎧を身に着けたイグニスが、イーロイと話していた。ヴァリス達に気づいたのか、立ち上がったイグニスが手を挙げた。


「わざわざ見送りか? 聞いてるだろうが、ここでお別れだ。俺はサルヴェンに戻る。どうするにしても、さっさと動かないと手遅れになりかねん」

「私は、ヴァリスとネウについていくことにしたよ」


 ヘルカがそう言うと、彼は、ニヤリと笑った。


「知ってたよ。お前なら絶対そうすると思ってたぜ」


 イグニスはヴァリスに歩み寄り、肩に手を置いた。


「お前のことは嫌いだが、感謝もしてる。街に帰ってきたけりゃ、いつでも帰ってきていいぞ。なにが起きても、俺だけは……歓迎はしないが、迎えてやる」

「別に迎えてくれなくてもいいよ。戻るときは、僕は王殺しだ」

「生意気なガキめ。もうやった気になっていやがる。だが、気をつけろよ」


 わざわざ嫌いだと宣言したのは、おそらく照れ隠しなのだろう。いつでも帰ってこい、それに、気を付けろ。

 ヴァリスは彼の言葉に安心しつつも、どう返せばいいのかわからず、笑っておくことしかできなかった。

 礼拝堂をでていこうとするイグニスの背に、ヘルカの声が飛んだ。


「馬、全部もってくんじゃないよ?」

「最後の最後まで憎まれ口かよ。一頭残しておくよ。まったくたまらんぜ。大目玉だ」

「悪いね。暗殺が成功したら、真っ先に早馬を飛ばして、尻を蹴り上げてやるよ」

「お前にしちゃ、下手な冗談だ」


 イグニスは振り向くことなく、片手をあげて礼拝堂から立ち去った。

 礼拝堂に残っているのはヴァリス、ヘルカ、ネウの三人だけ。

 イーロイは、司祭のところに行ったらしい。

 ネウがふっと息を吐きだした。


「ヘルカさん、私、準備をしてきます」

「そうだね。こっちも鎧を着るとするよ」


 ネウが階段へと歩いていく。その先には、司祭の居室もある。

 ヴァリスはネウの後ろ姿をただ目で追っていた。

 ヘルカは、ただ茫然と立ち続けるだけのヴァリスの、背中を押した。


「会わなくていいのかい?」


 いつもと全く変わらない響き。

 ヴァリスは言葉に詰まり、ヘルカの顔を見上げた。

 ヘルカは優しげに笑っていた。


「昨日の話、憶えてるだろう? 会ってきな。ただ、鎧を着るの、ネウに手伝ってもらうのだと、ちょいと不安なんだ。あとで手伝ってくれるかい?」


 ヴァリスは、ヘルカの気遣いに感謝しつつ、笑って答えた。


「分かった。そう時間はかからないから、孤児院で待っていて」


 ヴァリスは足早に階段へと向かい、ヘルカは息をついて礼拝堂を出た。

 司祭の居室の扉を二度たたき、返事を待つこともなく扉を開ける。昨日は感じていた足の重みも、もう感じられない。

 ベッドの上で躰を起こしていた司祭が、ヴァリスを見据えた。


「ノックをしたら、返事をするまで待つように。教えただろう」


 昨日と同じくしわがれた声だ。しかし、説教は懐かしさも感じる。

 ベッドの脇に座っていたイーロイは苦笑していた。


「ヘルカはどうするって?」

「僕と来るって言ってた」

「そうか」


 それだけ言って、イーロイは手元の書簡に目を落とした。地下室からもってきたらしい。司祭の様子を診つつ、確認をとっているのだろう。

 ヴァリスは司祭の元まで歩き、見下ろした。


「僕は王都に行く。王を殺す。でも、あんたに頼まれたからじゃない」


 ヴァリスを見上げる司祭の目には、僅かに力が戻っている。


「それでいい。お前がここに捨てられていたときから、こうなる運命だったんだ」

「運命とか言われてもよくわからない。けど、帰ってくるまでは生きていてよ。いままで聞けずにいたことが、いっぱいあるんだ。それを聞くまで、死なれちゃ困る」

「知らんうちに随分と口が悪くなった」


 司祭は苦い笑みを浮かべながら胸に手を当て、祈りの言葉をつぶやいた。


「お前にリモーヴァの自由の風が吹くことを」

「リモーヴァ? グルーズ様じゃなくて?」

「グルーズ様は、人同士の殺し合いなぞ、認めるわけがない」

「人殺しを頼んでおいて、よく言うよ」

「お前を引き取ったときから、私は、もうグルーズの司祭とは言えんのだ」


 司祭はそこで言葉を切り、床に横たわって深い息をついた。


「いまさら謝る気はない。お前に、死ぬな、と言うつもりもない。ゼリを討て」


 誤ってほしいなどと思ったことは、一度もない。言うつもりもない。

 それでも、司祭が謝罪について口にしたということは、後悔していたということだ。 


 ――謝ったの同じだよ。


 ヴァリスの口元は、自然と緩んでいた。


「それじゃ、僕はもう行くよ。イーロイ、あとはよろしく」

「ああ、任せとけ。ネウに薬、渡しといたからな。ちゃんと塗れよ?

「分かった。ちゃんと手当は続けるよ。他にはなにかある?」

「そうだな……」


 窓の外に目をやったイーロイはしばし考え、手を打った。


「ヘルカにさ、よろしく言っといてくれ」

「僕に頼むくらいなら、自分で言いなよ。その方がヘルカも喜ぶよ、多分ね」

「どうだかね」


 冷たくそう言い、イーロイは眼鏡を押し上げた。もう言葉が続く様子はない。

 ヴァリスは病床の司祭をもう一度眺め、背を向けた。

 扉に手をかけてたころで、背後から声がかけられた。


「ヘルカはずっとお前の心配をしてた。だから今度は、お前が心配してやってくれ」

 ――言われなくても分かってるよ。


 振り返ったヴァリスは、口の中だけでそう言い、うなづき返した。

 ベッドの上の司祭は、ヴァリスを見ようともしていない。

 司祭に向き直ったイーロイの横顔は、険しくなった。もしかしたら、司祭は先ほどのように躰を起こしているだけでも、相当に無理をしていたのかもしれない。

 だとしたら。

 ヴァリスは、司祭に感謝し、部屋を後にした。それは、教会で拾われてからこれまでの間で、初めて持った感情だった。

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